普通に、世の中で評価される種類の事もあるんですけど、
それよりも、内面的なことに対しての思いが強い。
言うなれば、「世の中で評価される事とか、成長するなん
てことはどうでもいい」という肚の据わり方をしたいんで
す。それが、私にとっての“成長”です。
それがどういうことなのか、頭では分かってるんです。も
う、見えてるんです。それに、ある程度は実践出来ているん
です。それは、こういうことなんです。
《 「できることは、できるし。
できないことは、できない」
それだけのことでしょ? 》
当たり前のことですよね。でも、わたしたちはこの当たり
前の事が納得出来ずに、自分も他人も苦しめ続けています。
「できるだけ、頑張ります。」なんてことを言うと、「な
に甘いこと言ってんだ!完璧にやれ!」とか、「120%の力
を出せ!」みたいな、愛のムチが飛んで来たりします。(あ
あいうのって「愛のムチ」と言うより、「愛に無知」なんじ
ゃない?)
自分自身に対しても、「なぜ、この程度しか出来ないん
だ・・。情けない・・。悔しい・・」なんて、しょっちゅう
思ったりします。
でも、出来ることしか出来ないでしょ?
「わたしは、自分に出来ない事が出来ます。」なんてこと
言われたら、「えっ。なに?もう一回言ってくれる?」って
話になってしまいますよね。意味が分からない。
わたしたちは、その時出来ることしか出来ないんです。
ところが、先に書いた様に「出来ることはやります」と人
に言ったり、自分で思ったりすると、「甘えてる」といった
印象が付きまとう。近年、特にその様な傾向が強くなった様
に思います。
先進国で、特に日本などでは、その様な「甘さ」を許さな
い人間関係が、人類史上かつて無い程、人を締め付けている
のではないでしょうか。
「出来ることしかできない」
その当たり前のことが、通り難い。
非常に窮屈で、狭量で、抑圧的です。感じませんか?
私は仕事をする時、「今、出来る限りの事はするし、出来
ないことはできない。気に入らなければ、代わりを呼んでく
れ」という姿勢で取り組みます。だって、それ以上何が出来
ます? たいへん誠実な態度だと思います。「ベストを尽く
す」と考えているわけですから。
ところが、そういう考え方を気に入らない人間が、とって
も増えたと思いますね。
そういった人間は、表向き「人の能力の秘められた伸び代
を引き出そう」といった考えが有る様に見えますが、ほんと
うは「俺の要求に応えろ」と思っているだけです。
そういう、「愛のムチ」とか「叱咤激励」だとか言われ
る“偽装したエゴ”が、あまりにも世の中を飛び交うので、人
は自分自身に対しても、出来る以上のことを求め、必要のな
い挫折感を味わう様になってしまったと思います。
「Cool Japan」じゃないけれど、日本はいい国だと思う
し、日本人は基本的に良い人達だと思います。でも今の日本
は、ほんとに窮屈で、抑圧的です。
鬱病・自殺・薬物その他の依存症・いじめ・過労死・ウヨ
ク、サヨクによるヘイトスピーチ・尊厳死の問題・などなど
さまざまな問題の原因に、“理想”を隠れ蓑にした「過剰な要
求」があると、私は見ています。
鬱病を例に取って言いますが、鬱病って、「暗くて狭い部
屋で、小さくなっている」というのが、大方のイメージだと
思うんですよね。「明るい野原で、両手を広げて、笑顔で伸
びをしている」なんて、鬱病のイメージに合いませんよね?
「暗くて狭い所で小さくなっている」から、鬱病になった
んじゃなくて、「暗くて狭い所に小さく押し込められてい
る」から、鬱病になっちゃうんです。他の問題もそうです
よ。きっと。
わたしたちの世の中は、とんでもなく抑圧の強い世の中に
なってしまっています。
世界中のあらゆる場所で、闘争と競争が行われているでし
ょ。世の中は、もうすでに戦場です。
“理想”という「過剰な要求」がそこら中を飛び交うので、
戦う装備と能力の少ない人間は、塹壕を掘って身を隠しま
す。そして、その暗くて狭い所で小さくなっています。
少し装備や能力のある人間は、戦場を這いずり回り、戦闘
に長けていて最新兵器を手にした奴は、興奮して撃ち合って
いる。
大きなビジネスモデルとかビジネスチャンスなんかは、使
い方を誤れば、大量破壊兵器です。(原発事故、環境破壊、
リーマンショック、薬害なんかね。)
「24時間、戦えますか!?」なんて馬鹿なCM、未だにや
ってますけどね。「なんで戦わなくちゃいけないの? おま
えら勝手にやってろよ。どっかの砂漠ででも」と思います
ね。ああいうバカな商売人が、アタマの病気を撒き散らすん
ですよ。(そういや、製薬会社のCMだな。やること逆でし
ょ! 「24時間、安らげますか。」というぐらいの、商売
してみろよ。・・・怒ってしまったな・・・)
戦う必要なんかないと思いますよ。
人間の社会性は、協力するためのものじゃないんですか?
欲の強い連中が先に利権を握って、普通の人たちの欲を掻
き立てることで巻き込んで来たんですよ。
躍社会」って「一億総戦闘員社会」ってことでしょ? 安倍
さんがイイ人かどうか知らないけど(政治家ですからね)、
「一億の内、最低限活躍社会」でいいんじゃないですか?
活躍する人には、賞賛は惜しみませんよ。
戦って、何が手に入るかといったら、ただ「勝った!」っ
てことだけでしょ? 「それがどうした?」って言ってやれ
ばいい。
振り向いたら、ゴミの山と死体の山、荒れた土地(ビルの
立ち並ぶ風景は、私には荒地に見えます。とくに百年後を想
像すると)と失われた文化や伝統が見えるだけ。 バカでし
ょ?
「もう、いいかげんにしようよ」と思うけど、私が思った
ところで、どうにもなんない。
自分一人で戦線離脱、敵前逃亡するだけですね。
しかし、敵なんているのかね?
「敵がいる!」って身構えるから、それを見て向こうも
「敵がいる!」って身構えて、それが果てしなく拡がってい
るんでしょうよ。
最初に妄想したのが誰だか知らないけど、身構えた手を下
す人間が少しでも増えれば、その分感染は抑えられると思う
けどね。で、「できることはできるし、できないことはでき
ない」んだから、チカラこぶ作って遮二無二がんばるとか、
がんばらせるとかしない方がいいでしょうと・・・。(まぁ
やりたい人はやればいいんです。「ほこりが立つなぁ・・」
なんて思いますが。「出来ることしか出来ない」んだから、
やってる事は一緒のはずですけどね。)
「愛のムチ」のことですけど、存在しないことはないです
ね。でも、本当の「愛の鞭」はごく少ない。
それが必要とされるのは、破滅の道から引き戻す時ぐらい
でしょう。人を背伸びさせる為じゃぁ無い。
もっと自然に穏やかに、わたしたちは暮らしていいと思い
ますよ。
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