真実はひとつなのか?
ニュースを見ていると、事件や事故が起こるたびに出てく
るのが、「真実を明らかに・・」とか「事実を知りたい」な
どという言葉ですね。
毎度々々のことですが、その度に「そんなこと分かるか
よ」と突っ込んでいる自分が居ます。
広辞苑を引くと、〈真実〉は「本当のこと」で、〈事実〉
は「本当の事柄」となっていて、どちらも同じ意味と捉えて
よさそうですが、真実なんてあるのでしょうか?
私が道で転んだとします。
周りで見ていた人にとっては、「私が転んだ」のは事実で
す。しかし、その話が第三者に伝わった場合、それが真実か
どうかはわかりません。
ニュースになるような事件についても、わたしたちは第三
者です(そうありたいです)。それを報道するマスコミも第
三者です。さらに、それを捜査する警察も、裁判官も弁護士
も検察官も第三者です。いったい、第三者に真実など知るこ
とが出来るでしょうか?
真実を知っているのは当事者だけです。場合によっては、
当事者さえ真実が分からない事もあります。ましてや、第三
者には真実は知り得ないと、私は思います。わたしたちが知
りたがるのは、真実ではなく、「納得のゆく説明」でしょ
う。
実のところ、わたしたちは〈真実〉なんか求めていませ
ん。わたしたちが、求めているのは「自分の気に入るストー
リー」でしかありません。なぜなら、わたしたちが、ある出
来事について公の説明を聴いた場合に「本当にぃ~?」と、
訝しむ事がよくあるからです。
公に説明されたのだから、納得すればいいではないです
か。なのに、不満をもらす。疑いの目を向ける。なぜでしょ
う?
それは、わたしたちは「自分が知りたい様に、知りたい」
からです。自分の都合のイイ、自分がスッキリする話でなけ
れば、〈真実〉と見做さないからです。
人が自分との約束を違えた時、「騙された!」と最初に思
ってしまえば、その後にどんな説明があっても、「騙され
た」という前提から離れて聞くことは出来ません。「騙され
た」という自分のストーリーに沿った形でしか、話を聞けま
せん。そこから逃れるには、かなりの努力が必要です。
わたしたちが、真実より〈ストーリー〉を欲しがる理由の
一つに、“被害者になりたがる”ということがあるでしょう。
わたしたちは、“被害者”になることによって、“加害者”に
対して補償を求める権利を持つことが出来、“加害者”より上
の立場に立つことが出来ます。
わたしたちは、社会の中で“加害者”と見られることを怖れ
ます。“加害者”となることは、社会的に「負債」を抱えるこ
とになるからです。ですから、自分が当事者であっても、第
三者であっても、「自分が“被害者”(または、そのグルー
プ)になるストーリー」を求めます。 昨今の「クレー
マー」の多さは、社会の管理がきつくなり、社会的に弱さを
感じている人間が増えてきた事によるのでしょう。
「自分を“被害者”の立場におくことで、安定を得たい」
そうした人間の欲求がある中で、〈真実〉は、都合の良い
時しか出る幕はありません。
また、真実より〈ストーリー〉を欲しがる、もうひとつの
理由に、“勝者になりたがる”ということもあります。
当然ながら、自分を“勝者”だと思えれば、社会的な安定感
が増しますからね。
そのような、強固なバイアスを持ったわたしたちにとっ
て、「本当の真実(!)」を見ることは、ほとんど不可能で
しょう。
ある一つの事柄について、当事者どうしでも、第三者にあ
っても、各々に“自分に都合の良い真実”があるのでしょうか
ら。
さて、真実は何処にあるのか? 真実はひとつなのか?
テレビのニュースキャスターが「真実が明らかにされるこ
とを願います」などと言うたびに、「シラ~っ」とした気分
になってしまいます。不可解な事件なんかが起きると、納得
のゆく話を聞きたいとは思いますが、キャスターが納得する
話と、私が納得する話が同じかどうかは分からない。勝手に
視聴者を代表するようなコメントはもうウンザリです。ま
ぁ、「真実は分りませんが、説明は聞きましょう」と言う訳
にもいかないでしょうが、「捜査が進んでいます」とか「ど
の様な判決がでるのでしょうか」ぐらいで止めとけば、と思
いますね。
《 事実は小説より、疑(ぎ)なり 》
困ったもんですねぇ。
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