2017年5月13日土曜日

命の基本

 山に目をやると、五月の新緑が優しく健康的なパッチワー

クを見せている。

 街の中にも色とりどりの花がいっぱいで、飽きることがな

い。


 わたしは植物が好きなんですが、なぜ自分がこんなに植物

に惹かれるのか・・。時々、不思議な気持ちになります。
 

 植物に接していると、いろいろと考えさせられ、学ばされ

ることがあります。

 それはたぶん、植物が我々人間とはまったく違う生き方を

していることと、植物が地球の生態系の基礎であり、植物な

しでは、殆どすべての生物が生存出来ない、ということに関

係しているのだろうと思います。

 植物が我々と最も違う点は、光合成をして有機物を生産す

ること   生産者であるということ。

 植物が生産する有機物が無ければ、ごく一部の例外を除い

て、生物は生存できません。(例外は、深海底の熱水噴出口

周辺に生きる細菌などですね)太古の昔から、植物は太陽の

エネルギーを有機物という形で地球上に保存してきました。

植物のこの活動がなければ、地球はとうの昔に灼熱地獄にな

っていたことでしょう。現在言われるところの地球温暖化な

ど、比べものにならない。炭酸ガスの濃厚な大気の中で、太

陽から降り注ぐエネルギーはそのまま熱として地球に溜まり

続け、地球灼熱化が進む・・・。それを止め、さまざまな生

物が生まれ、生きて行く基礎を作ったのが植物でした。

 もう一つの植物の特徴は、やはり動かない(根を張る)と

いうことでしょう。逃げない。追わない。ということ。

 自分が置かれた環境の中で、ただ自分として、自分を生き

るというスタイルですね。(【「置かれた場所で咲きなさ

い」渡邊和子】 という本が話題になりましたね。  読ん

でないです、内容は推測できますから)


 で、「置かれた環境で生きる」ということなんですが、植

物に興味を持つと、「遷移」という現象を知る訳です。

 「遷移」というのは、字の通り「移り変わる」という意味

ですが、ある土地で植物の種類がだんだん変わって行くこと

です。

 例えば、西日本であれば、更地が出来ると、まず乾燥に強

く肥料分をあまり必要としない草が生え、次に少し肥料分を

必要な背の高い草が生え、次いで落葉樹などが入り込んで育

ち始めます。木が大きくなってくると、その下は日陰になっ

て、それまでの草は枯れてしまい、代わりに日陰の植物が育

ちはじめる。その日陰の植物の中の、照葉樹(常緑広葉樹)

が数十年をかけて育ち続け、やがて元から居た木より高くな

り、照葉樹の陰でそれらの木は枯れてゆく。最終的には照葉

樹主体の林になつてしまう。  「極相林」と言います。


 ということなんですが、このことを知った時に、私が考え

たのは「役割」ということなんです。

 ある植物が、自分に合った場所で、自分のやり方で生きる

ことで、その場所の環境が変わってしまい、自分は生きられ

なくなって行く。(乾燥地に適した草がたくさん茂ると、そ

の草の陰が出来て湿度が上がるということなど)

 つまり、植物たちは次のメンバーの為の、(まさに)土壌

作りをして、仕事が終ったらバトンタッチをして消えて行く

様にみえるのです。

 そこに、意志を感じる訳ではありません。しかし、「生き

る意味」といったことは考えてしまいます。
 

 人間の仕事でも同じで、自分の仕事が完了すれば、もう居

場所はないのです。次の仕事場へ移らねばなりません。

 植物の場合は種を飛ばしたりして、次の場所へ移るのです

が、元の個体は枯れてしまいます。(人間も自然と枯れれば

いいのですが、役目も無いのにその場に止まり続けようとす

る人がいます。いわゆる、「老害」というやつです)
 

 そのような植物の在り方を見て、人間の事を思います。

 「自分が、自分が」と言って自分を精一杯生きても、結局

のところ、自分が居られなくなる下地をつくっているだけだ

ろうと。精を出せば出すほど、自分が用済みになる時が来る

のは早くなる。「お疲れさま」。

 それでいいんですよ。「一所懸命働くな」というわけじゃ

ぁない。ただ、「何も自分のものにはならない」ということ

を分かっておく方がいいだろうと・・。

 自分が生きるのは、次の者の為。次の者はその次の者の

為・・・。そうやって、ずっと続いて行く・・・。その役割

を一時果たすだけ。
 

 私は、植物の遷移を見て、「生きるというのは、仕事だ

な」と思いました。

 とくに、何があるという訳じゃなく、物質循環の役割の一

端を、“自分という生命”という形で果たしているだけだと。


 何をするかは、関係ない。

 「やりたい事」を、やりたいようにすればいい。(「やり

たい」と思わされているのだと、私は観ますが)

 「やりたい事しか出来ない」か、「やりたくない事をやら

なければならない」か、でしかない。どちらにしてもアタマ

の都合の問題ですが、「やりたくも、やりたくない事もな

い」事っていうのが残る。そういう事は、何も考えずに「た

だ、やる」、ってことになるんですけど、実はそれが一番平

和なんだろうと思うんです。

 でも、人は刺激が好きですから、「平和」なことは流行ら

ないですね。

 刺激があると、「生きてる実感」とか「充実感」とか(同

じか・・)を感じるんでしょう。かん違いだと思うんですけ

ど。

 
 植物は、ご承知のように、何も考えていないことになって

います。ですから、ただ生きているだけです。

 何をどうこうしょうなんて無い。

 それぞれに、それぞれの葉を広げ、花を咲かせる。

 人がそれを見て、「美しい」と感じたりするけれども、植

物にとっては、たぶん知った事ではない。

 ただ、自分が自分であるだけ。

 でも、自分が自分であることが、美しいのかも知れない、

人の思惑が入らなければ。  美しさに言葉を失う、という

事があるけれど、言葉(思考)を排除出来たときに、人は本

当の美を知るのかもね。


 植物の存在に乗っかって、生物は逃げたり追っかけたりの

活動を続け、人間に至っては、その上に“妄想”まで形にし

て、その為に動き回る。

 植物の、逃げも追いもせず「ただ生きる」姿に教えられま

す。それが、“命”の基本なんだろうと。

 「余計な事しちゃいけないよ」って。


 (でも、余計に思える様な事をするのが、人間の役割なん

  だろうなぁ)

 





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