わたしたちは、「比較病」です。
この病気をなんとかして、“自分であること”に落ち着ける
ようにしないことには、心安らかに過ごすことはできませ
ん。
わたしたちは、生まれてからずっと「今のままではいけな
い」と周囲からプレッシャーを掛けられて育ち、自分自身で
も「今のままではいけない」と思うのが習い性となります。
それは、“自分の能力”に関してだけではなく、健康や嗜好
なども対象となり、素直に“自分であること”が出来なくなっ
ています。
確かに、「今のままではいけない」という事だってあるで
しょう。反社会的な行動が止められないとか、薬物依存と
か、「止めなければ破滅する」と言う状況なら、なんとかし
なければなりません。しかし、わたしたちが「今のままでは
いけない」と感じることのほとんどは、よくよく考えてみれ
ば「今のままでも良くない?」という類の事じゃないでしょ
うか?
そのようなことを、「今のままではいけない」と思ってし
まう癖を付けられているんですね。
「今のままではいけない」のでしょうか?
将来へ向けて、「今の自分の状況を変えよう」と想う時、
二つのパターンが考えられます。
一つは「今のままではいけないから変えなくちゃ」という
ものですね。
もう一つは「今のままでもいいけれど、今よりもまだ良く
なるんじゃないか」というものです。
この二つは、“今”に対して否定的か肯定的かという事で、
一見違うように見えますが、実は両方とも“今”を否定してい
ます。
前者は「今、欠けているものがある」という評価で、後者
は、「今、足りてはいるけれども、さらにプラスしたい」と
いうことで、かなり違うようですけれども、後者も“今”を少
し未来へずらした想定で語っているだけで、“今”に満足して
いないことに変わりはありません。
普通に考えると、後者は前向きな様に思われますね。です
が、「足りてはいるけれども・・・」という表現は、「実は
足りていない」という気持ちを偽装していると見るのが正し
いでしょう。さらに言えば、「実は足りていない」というよ
り、「『足りている』と思ってはいけない」という根の深い
刷り込みが隠れていると思います。どちらかというと、後者
の考え方の方が、症状としては深刻ですね。
「今、欠けているものがある」場合、「生活費が足りな
い」とか「視力に障害がある」といった様に、実際に生きて
行く上での問題となっている事が有り得ます。ところが、
「今のままでもいいけれど・・・」という考え方の場合、永
久に満足できない可能性があります。これは、極端な言い方
をすれば、“不安障害”と言えるものかも知れません。
“前向き”、“プラス思考”、“向上心がある”などという印
象がありますが、その裏には現状への不安が隠されていま
す。その様なメンタリティーを生むのは、「『足りている』
と思ってはいけない」という世の中からのプレッシャーで
す。マインドコントロールと言ってもいいでしょう。個人
が、世の中によって
に癖付けられています。
もっとも、誰にも悪気は無いのでしょう。「自分がその様
にされてきたから、自分もそれで正しいと思ってる」だけな
のでしょうし、「足りなかったものが、手に入った!」と思
えた時は、何がしかの満足感があるでしょうから、「今、足
りない」という思考パターンが、より幸福度を高めるという
様にも思えることでしょう。でも、それは錯覚です。
現状を否定することで、「現在はマイナス」と意識に思わ
せ、そのマイナスを埋めることが出来ると、「足りた」と思
うというやり方ですが、そもそも何故 現状を否定する必要
があるのでしょう? 先に書いた様に「このままでは破滅す
る」という状況なら仕方がないですが、普通に暮らせている
状況であるのに、他人や、自分の理想と較べて現状を否定す
る。
何故、現状を否定するのでしょう?
何も問題が無いところに、自分で問題を作り出して、その
問題を解決する為にエネルギーを費やす。こういうのをマッ
チポンプと言うのですね。
ホントにわたしたちは、「今のままではいけない」「『足
りている』と思ってはいけない」を徹底的に刷り込まれてい
ます。「今のままでいい」と思うことに罪悪感さえ感じる様
に、教育が行き届いています。それ故、“今”を肯定すること
が出来ない。何故なんでしょう?
その原因は、経済に有ると私は思います。
縄文時代の人々が、「今のままではいけない」と思ったで
しょうか? (生存に関わることは別ですよ)
そんな、複雑で面倒な生き方はしていなかったことでしょ
う。
ポリネシアやミクロネシアあたりの人や、イヌイットの
人々やマサイ族の人達が、日本人やアメリカ人ほど、「今の
ままではいけない」と思うでしょうか?(バカにしているの
ではないですよ。分かってもらえると思いますが)
日本人よりもずっと、“今”に満足することが多い様な気が
します
今に満足出来ない様に刷り込まれているのは、経済を動か
す為には“満足”が障害になるからです。満足してしまうと、
人間は行動しませんからね。一番分かり易い例は、お腹が膨
れれば、もう食べたくなくなるということでしょうが、他の
事でも同じで、経済にとって“満足”は敵です。
権力者にとって一番必要なのは、資本です。資本がなけれ
ば、人々を支配できません。
資本を増やすことで、人をコントロールする力を得、人を
コントロールすることで、さらなる資本を得る。
その為に、人の“不安”と“不満”を煽ることで、人に消費行
動を起こさせ、消費する為の資金を得るために、働くように
仕向ける。このようなやり口が、何千年も前から文明化した
土地で行われ、それが地球上に拡大して、いつのまにか人の
本性のようになってしまったのでしょう。
コマーシャルを見ると、そこにあるメッセージは大抵同じ
です。
「これをしなければ、損ですよ」
「これを持たなければ、困りますよ」
「こんな風にしなければ、遅れますよ」
「こうした方が、得ですよ」
みんな、現状否定です。
当たり前ですよね。現状肯定では、誰も動いてくれませ
ん。広告は、脅かすのと不満を持たせるのが商売です。
そうやって、わたしたちは“不安”と“不満”を不必要に持た
され、較べることを仕込まれ、お互いを較べ合い、“今”に満
足することが出来なくなってしまう・・・。
『リアルマトリックス』という回で書きましたが、権力者
が “手段” として使い始めた「経済」ですが、もはや「経
済」がひとり歩きして、権力者までが「経済」に支配されて
しまっています。
《 わたしたちは、自分に満足し、
今に満足することを取り戻さなければ、
死ぬまで“経済の捨て駒”でいなければなりません 》
「経済」を「世の中」と言ってもいいですし、「経済」と
言っても、お金の事だけではありません。人のエネルギーの
収支でもあります。
そして、「自分に満足し、今に満足する」ことは、憶える
のでは有りません。取り戻すのです。いや、想い出すと言う
べきでしょうか。
自分で想い出すしかありません。
「はい。これだよ!」と誰も差し出してはくれません。
今の自分を振り返って、「本当に必要なことは、たいして
無い」。「実は、何も不足していない」。ということを自分
で確かめるしかありません。
わたしたちは、永い永い宇宙の歴史の中で、“今” しか存在
していません。これっきりです。もう、二度と存在すること
は有りません。そんな “自分” が「経済」という“ただのシス
テム”の捨て駒にされるなんて、あまりにも、もったいなさ
過ぎる。生命を冒涜していると思います。
「経済」は人間の道具に止めておくべきです。
その智慧は、まだ人間に残されていると思います(と思い
たい・・・)。
幸福は “今” にしかありません。
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