2017年6月17日土曜日

無意味な人生

 ちょっとばかり、〈意味〉の“意味”を考えてみる。
 

 のっけから、いきなり破綻してるんですが、人の考えの根

源的な事柄を考えようとすると、まず最初に破綻します。と

言うか、破綻から入ります。



 「〈意味〉の意味」なんて最悪です。他には、

 「〈正しいこと〉は正しいか?」とか、

 「〈自分〉のことを考えている“自分”とは誰か?」とか。



 それは、もう仕方のない事として、〈意味〉の“意味”です

が、まず漢字を分解してみましょう。



 「意」は、「音」の下に「心」と成っています。(「音」

を「立」と「日」に分解すると、収拾がつかなくなるので、

止めときます。・・・「味」の分解も止めておきましょ

う・・・、・・・えらいことに手を出したみたいです・・)

 ・・・・「意」というのは、“心の音”と採るか、“音の

心”と採るか? 〈音〉は五感の中の一つで、〈心〉の構成

要素か、あるいは〈心〉に入力される情報の一種なので、

〈心〉より下位の概念とした方がよいでしょう。ですから、

ここでは「意」は“心の音”と考えることにします。

 じゃぁ“心の音”というのをどう見るか?

 「心から出てくる音」あるいは、「心に響く音」。

 「心から出てくる」場合には、その時点で(アウトプット

される時点で)もうすでに「意味」を成していると考えるべ

きと思うので、これは採用しません。もちろん「心に入って

来る音」ではありません。入って来る情報に「意味」は有り

ません。その時点では、単なる“刺激”でしかありませんか

ら。

 ですから、「心に響く音」としましょう。(口から出まか

せですね)

 しかし、「心に響く・・」というのが、書いていてしっく

り来ません。・・・・・「響く」というより、「共鳴」とし

た方が良さそうです。心に入って来た刺激(情報)に対し

て、“ある特定の意識的反応”が“共鳴”した時、その刺激がそ

の“意識的反応”にコードされ、「意味」が付与されると。


 心(脳)に入って来た刺激は、最初に〈快〉・〈不快〉に

振り分けられると思います。その後、それぞれのカテゴリー

の中でさらに分類され(快・不快にも色々あります)、その

刺激の強さによって処理される。ここまでは、無意識のレベ

ルでのプロセスです。この時点でも「気持ちイイ」とかい

う、大雑把な〈意味〉はありますが、言葉として機能させて

ゆくような、詳細な〈意味〉が付与されるのはこの後になる

でしょう。

 “何が“・”どのように”・”どれぐらい”気持ちイイのか?

 そのようなことを認識する為には、わたしたちが受け取る

さまざまな刺激にラべリングする必要があります。

 単純な一次的ラべリング。それらを幾つか組み合わせた二

次的ラべリング。二次的ラべリングをさらに組み合わせた、

高次のラべリング。そうやって、それぞれの刺激に〈言葉〉

を対応させて定着させます。

 単漢字を組み合わせて、熟語ができ。熟語を組み合わせ

て、四文字熟語や文となる。(四文字熟語も文ですが)

 それらの、ラべリングが“意味付け”の工程ですね。ラべリ

ングしなければ、さまざまな刺激が混沌として区別できませ

ん。そのままでは、刺激(情報)のカオスのなかで、わたし

たちは自分の立ち位置が分からなくなってしまいます。

 “意味付け”は、わたしたちが自分の座標を定める為に、ど

うしても避けては通れないことです。


 「意味のない事」や「意味が理解出来ない事」に、わたし

たちは不安や不快を覚えます。“何か分からない物が空を飛

んでいる”時、分からないままにしておくより、〈UFO〉と

いう意味付けをした方が落ち着きます  〈UFO〉というの

も“何か分からない”ということでしかないですけどね。それ

で落ち着くのですから、人間はカワイイものです。

 そのように、わたしたち人間は“意味付け”をせずには、不

安で生きられません。ですから、どんな事にも〈意味〉を見

出そうとするのですが、その対象は人によって違ってしまい

ます。それが“社会性の違い”ですが、“個性”と呼んでも良い

場合もあるでしょう。


 株式に興味の無い人は、株に関する事柄の意味を保持しよ

うとはしませんし、サッカーに興味がなければ、DF・MF・

FDなどという記号に意味を求めません。生きて行くうちに

社会の中での自分の座標が固定されてゆき、その座標の枠か

ら外れたものには、意味を持たせる必要がなくなります。

「それが無くても、それが何か分からなくても、生きて行く

のに問題が無い」と判断するんですね。ブラック企業の経営

者には、“従業員の健康”なんかには「意味が無い」。人それ

ぞれに、自身の人生の座標があって、それ以外は「意味が無

い」し「重要ではない」。この、“座標の違い”が世の中に

様々な問題を生むんですね。  〈座標〉を〈価値観〉と言

ってもいいでしょう。


 〈意味〉とは“グラフの目盛”、あるいは“地図の区画や記

号”といったものですね。「わたしたちを世界の中に安定さ

せ、考え・行動する指標となるもの」・・・の筈なんです

が、困ったことに個々人の座標より世界は遥かに広い。その

上に、ひとりひとりが違った(そして不正確な)地図を頼り

にしているので、常に衝突し、さまざまな問題が止めどなく

起り続ける。(あなたの家は、土建屋からみれば「撤去すべ

き無用の建物」で「本来、空地であるべき場所」かも知れま

せん。使ってる地図が違うのです)


 わたしたちは自分の地図(意味付け)が、かなりいい加減

なものだと意識する必要がある。もともと、この世界には

〈意味〉など存在していない。〈意味〉を求めるのは、人が

人間の根源的な不安から逃れたい為で、それこそが人間の

〈業〉に他ならないわけですね。


 〈意味〉を求め、“意味付け”をして不安を消そうとするの

ですが、その〈意味〉が却って問題を生み、それどころかよ

り一層不安を増大させる・・・。仕方のないことです。

 しかし、人はその苦悩から逃れたい。そこで様々な宗教を

生み出し、数々の哲学者・思想家が現れ、占いに縋った。

「苦悩を具体的に消そう」と科学や政治に力を与えて来た。

しかし、それらは結局「大きめの座標(地図)」でしかな

く、座標の周縁で、より大きな問題を生みだしてさえいる。

 その苦悩から自由になる為には、〈意味〉から離れるしか

ないのでしょう。


 “意味の無い世界”に立つ。

 自分たちを取り巻く“意味”から離れて、世界を観る。

 “意味”から離れては生きられないのですが、“意味の無い

世界”を生きるベースとして、そこから“意味の世界”(世の

中)に意識を送り出して、具体的な暮らしの事柄をこなして

生きて行く。そこに、人が本当に求めるべき幸福があるんじ

ゃないかと。

 仏教や老荘思想の教えるところの根本は、そういうことで

しょう。


 《 世界は無意味です。  おあいにくさま。

             そして、おめでとう! 》



 

2017年6月16日金曜日

諸悪莫作 衆善奉行

 昨日、広目天の絵に添えて「諸悪莫作 衆善奉行」と書き

ましたが、これは『法句教』にある言葉だそうです。しかし

何が〈悪〉で、何が〈善〉なのか?



 常識的に〈善〉と〈悪〉を振り分けたって、時代や状況に

よって変わってしまう。自分で「これが悪、これが善」と定

めたところで、果たして本当に得心がいくのか? 迷いなく

生きられるのか? これは、人間にとって最大の問題と云え

ます。



 私は「善を行う」よりも、「悪を成さない」ことの方に意

識を向けます。〈悪〉とは、“過剰”によって〈善〉を覆って

しまうことで現れるもので(または"過剰”そのもの)、

〈悪〉を成さなければ、おのずから〈善〉が立ち現われてく

るものと思うからです。人間の作為から離れたものは、絶対

の〈善〉だと。


 考えれば当たり前の事で、“宇宙の存在・法則” を〈善〉

としなければ、話にならない。そこに乗っかって全ては動

き、人は生きている。それを否定してしまえば“宇宙の笑い

者”です。例え、わたしたちの考えからして不都合があろう

とも、宇宙の(自然の)あるがままを肯定し、〈善〉とせざ

るを得ない。もともと「世界は善である」と。


 とは言うものの、わたしたち人間は作為無しには生きるこ

とが出来ない。そこに〈苦〉がある。

 わたしたちが持たざるを得ない“作為”から、〈悪〉を除く

為に何を拠り所にすべきか? 何を〈悪〉と見做す目安とす

るか?

 やはり、「自他を損なわない」「自他を利用しない」とい

うことになるのでは?


 《 〈悪〉とは、「自他を損なうこと」

         「自他を利用すること」 》 


 「自他を損なわない」ということについては、別に説明は

要らないでしょう。人だけではなく、他の生き物も、物(無

生物)も苦しめない、傷付けないということですが、「自他

を利用しない」というのには、少し説明が要るでしょう。



 「他を利用しない」というのは、「自分の利益の為に、他

者を道具・手段にするな」ということで(ここには無生物を

含みません)、“他”の尊厳を踏みにじる行為です。しかし、

私は「自他を利用しない」としています。「自を利用しな

い」とはどういうことか?


 わたしたちの“アタマ”は、“自分”さえ利用するからです。

“アタマ”を満足させる為には、“自分”の都合などどうでもい

いのです。

 ドラッグの使用者を考えれば、すぐに納得して貰えるでし

ょう。それだけに留まらず、仕事でも遊びでも、“アタマ”の

満足(快感・安定)の為に自分を規制し、ムチャな事を強い

て、身体と心の健康を損なう。(実際、今私は少しめまいが

しているのに、これを書くのが止められません。バカです

ね)


 わたしたちは、いつも“アタマ”と話し合いながら生きなけ

ればなりません。「そっちの都合だけ押し付けるなよ」と常

に“アタマ”を監視しておく必要があります。アタマが身体と

心をコントロールし過ぎない様に、アタマをコントロールし

なければなりません。

 しかし、“アタマ”は狡猾です。

 “アタマ”をコントロールしているつもりが、いつの間に

か“アタマ”が背後に廻っていて、“アタマ”にコントロールさ

れるというのがよくあるパターンです。


 《 わたしたちは、手段と目的を取り違えるのを

                  得意としている 》


 「平和の為に戦う!」とか「健康の為のダイエットにハマ

り過ぎる」とか。


 『テロ等準備罪』が成立しましたが、与党が真面目に国の

為を思っていたとしても、いずれ“手段と目的を取り違えて”

運用されるんでしょうね。(こんなブログ書いてる事自体が

問題になりそう・・・)

 なんだか、“アタマ”と身体の関係は、“政治”と市民の関係

と重なりますね。経営者と従業員とも・・。そう、そもそ

も“アタマ”が社会を創り、社会が“アタマ”を再生産するので

した。個人が小さな共同体に、それが大きな組織に、それら

が集まって自治体に、さらに国へと入れ子構造になってい

る。個人が自分の“アタマ”を野放しにすることが、権力の力

を無用に増大させている。個人が幸福を取り違えることで、

結局生き辛い世の中をつくるのでしょう。
 

 「諸悪莫作 衆善奉行」

「諸々の悪を作る莫(なか)れ、多く(衆)の善を奉じて行

け」

 わたしたちは、〈悪〉を作るのです。

 〈善〉は元からあるものを受けて、信じ従って(奉ずる)

行くものです。

 この世界には、もともと〈悪〉は存在しません。わたした

ちが、自分で〈悪〉を信じ、自分で〈悪〉に力を与え、自分

で苦しむのです。
 

 広目天の"全てを見透す目”。

 実は、この世界にはそもそも遮るものなど無いのでしょ

う。

 わたしたち人間は、自分で作ったものに自ら取り巻かれ、

世界を見透せないものにしてしまっているだけなのであっ

て、広目天の目にそれは映らない。わたしたちは、どれほど

自身を飾っても、裸で広目天の前に立っているのでしょう。





2017年6月15日木曜日

広目天の見ているものは?

 先日、十数年ぶりに絵というものを描いてみたら、思いの

ほか良く描けたので、ここに載せてみることにしました。


東大寺 戒壇堂 広目天

 東大寺戒壇堂の〈広目天〉を鉛筆で描いてみました。

 我ながら、「上出来だな」と驚いています。元の写真は以

前に東大寺で買ったクリアファイルです。

 この広目天は、仏像に興味のある人には大変有名な、戒壇

堂の四天王像(国宝)の一体で、天平時代を代表する仏像の

ひとつです。

 土で作られていて(塑像)、非常に写実性の高いもので、

この様な物が地震国である日本で、1300年もほぼ完全な状

態で残っているのは驚きです。

 この四天王像は、どれも驚くべき完成度の高さで、これ以

上は良く出来ないでしょうね。中でも、この広目天は特に人

気があるようですが、それはその眼差しの故でしょう。

 宇宙の果てまで見透しているような鋭い眼。

 その前に立つと、自分の内面の、自分自身も気付かぬよう

なものまで、見られているような思いになります。



 戒壇堂には、今までに5~6回訪れていますが、初めてこ

の像に会ったのは、三十年以上前です。

 当時は〈戒壇堂〉ではなく、〈戒壇院〉と呼ばれていた様

に憶えています。もともと〈戒壇院〉には複数の建物があっ

たのが、江戸時代までに失われて行き、今の戒壇堂と千手堂

だけが再建されたそうで、そのため戒壇院ではなく戒壇堂と

呼びならわすようになって来たのでしょうね。

 今の戒壇堂の中は、二層の壇上に、中央に多宝塔・釈迦如

来・多宝如来が安置され、壇の四隅にそれぞれの四天王が入

口の方を向いて立っていて、下の壇から見上げるように拝観

する形になっていますが、三十年程前は上の壇に上がって目

直かに見ることができました。

 四天王の足元に低い木の柵が置かれているだけで、それこ

そ鼻を突き合わせる様にして見る事が出来たのです。

 同じ目線で、あの広目天の前に立つと、誰しもその眼光の

鋭さにたじろぐのではないでしょうか。(よほど感受性の乏

しい人でなければね)

 単に「怖い」とかいうものではなくて、冷徹でありながら

慈悲深く、見ている者のすべてを貫き透す目。ニュートリノ

が地球さえ透り抜けて行くように、「その眼差しはこの世の

何も遮ることが出来ない」といった感があります。


 「おまえは、何だ?」

 「おまえは、おまえか?」

 「わたしたちは、なんだ?」

 そう問い掛けられているような気がして来るのです。自分

を剥ぎ取られてしまう様な・・・。

 ちょっと考え過ぎの様に思われるかもしれませんが、私と

同じような感慨を持つ人は大勢います。

 広目天について書く人は、大抵そのことに触れますし、知

り合いの女性も、高校生の時になんの予備知識もなく広目天

を見て、金縛りに合った様に動けなくなったと言っていまし

たね。

 今は、昔の様に同じ目線に立つことが出来ないので、残念

です。保安上の問題が有るので致し方ないですが、「あの体

験を多くの人にしてもらえたらいいのにな」と思いますね。

 しかしまぁ、あの様な造形をよくぞ生み出すことが出来た

ものだと感嘆しますね。凄い人たちが居たんだなぁと。

 


 ここまで来て、自分の絵に話を戻すのも気が引けますが、

目の鋭さも全然だし、口元も少し締りがないですね。

 それから、絵の横にはヘタクソな字で「諸悪莫作 衆善奉

行」と書いてあります。(そういえば、筆で字を書いたのも

十数年ぶりだなぁ)

 「悪い事をするな。善い事をしろ。」といった意味です

が、広目天とは直接の関係はありません。

 「なにか一言書こう」と思った時に、この言葉が広目天に

は相応しいかなと思ったんです。

 しかし、〈善い事〉とは何なのか? 〈悪い事〉とは何な

のか?

 広目天の前に立ち続ければ、判って来るような気がしま

す。





 
 
 

2017年6月8日木曜日

ころがる、井上陽水

 もう、四十年以上前の話。(古過ぎるね)

 友達がギターを始めたのに触発され、自分もギターを弾き

始めました。

 簡単な循環コードだからという事で、井上陽水の《夢の中

へ》を最初に覚えたんですが、あれから四十年。私の音楽生

活の中心は、井上陽水でした。

 最初に、陽水を意識したのは、ギターを始める前年、兄の

カセットテープに入っていた《御免》を聴いた時でした。


 衝撃でした。

 「なに、これ?」


   なんにもないけど 水でもどうです

   せっかく来たのに なんにもないので 御免 


 「なんて、歌詞だ!」とまず思って、アレンジも凄くっ

て、リードギターもメチャクチャカッコよくて、歌詞のフォ

ークっぽい日常性と、曲のギャップが不思議な感じに絡み合

って、「鷲づかみ!」でしたね。

 それからギターを覚え、さらに陽水の世界に嵌まり込み、

今に至っています。
 

 陽水さんのスタイルを一言で言うと、「怪しむ」というこ

とになると思いますが、そんなことはファンなら百も承知の

ことで、今さら言うまでもない。

 それは、陽水さんの話し方にも表れていて、“話をはぐら

かす”、“話を途中で止める”、“話がずれてゆく”といった特

徴があって、まず結論に至らない。「言い切ること」「結論

を出すこと」に対する、本能的とも言える危機感・羞恥心・

罪悪感を持っている様に思います。

 歌詞となると、それは更に精製され、「棚上げ」「宙ぶら

りん」「ベールに覆われ・・」といった様相を呈します。


 《ビルの最上階》で歌われる、世の中の胡散臭さ。

 《ジャスト・フィット》で主人公が嵌まり込む、抜き差し

ならない、説明の無い結論。いつのまにか道が決められ、男

と女のそれぞれの狂気が絡まり合って加速して行く。

 《長い坂の絵のフレーム》では、「ホントはどうなの?」

という、陽水さんの皮肉で優しい笑みが浮かんで来ます。

 そもそも《長い坂の絵のフレーム》ですよ!

 普通なら《長い坂の絵》でいいんですよ。ところが、陽水

さんの場合だと、そこに《フレーム》が付く。

 常識人が考えると、《長い坂の絵》が人生な訳です。しか

し、陽水さんからすれば、《絵》はうたかたのお約束で、ま

さしく“絵空事”。本来は空っぽの《フレーム》の方が人生で

あり、自分だと。

 フレームには、意味もなく、訳もなく、その中で人々は悲

しんだり、しあわせだったりと意味を描く。

 陽水さんは絵の外に居る。絵の中に安住していられない。
 

 なぜ、陽水さんは絵の中に居られないか?

 ころがってしまうんです。定着できない。

 陽水さんの歌詞の中に、「ころがる」という言葉が何度と

なく使われます。2000年代に入って減りましたが、陽水さ

んが多用する言葉です。

 「愛」とか「恋」とか「夢」とかは、どんな作詞家も多用

しますが、「ころがる」なんて言葉は百曲に一曲ぐらいしか

使わないと思います。ところが陽水作品では、たぶん二十曲

以上の作品で使われているでしょう。今まで発表した曲は、

三百ぐらいでしょうから、かなりの頻度です。

 どういう訳で、“ころがっちゃう”んでしょう?


 陽水さんの話には、結論がありません。

 世の中では、曲がりなりにも結論というものが用意され、

人々はその結論に立って次へ動く、ところが陽水さんから見

ると、その結論は頼りないものにしか見えない。傾いてい

る。当の本人たちは、自分で動いている様に思っているけれ

ど、陽水さんから見れば“ころがっている”。

 人間だけではなく、あらゆる物は“ころがっている”、“こ

ろがり続ける”。

 《 世界は勾配によって動く 》と前に書きましたが、も

しかすると陽水さんの影響かも知れませんね。
 

 「あらゆる物が、ころがり続ける」というのは、要するに

「諸行無常」ですね。

 その輪廻の坂道から逃れるには、《長い坂の絵》からフレ

ームアウトするしかない。


 探し物はなんですか? 見つけにくい物ですか?

 カバンの中も机の中も 探したけれど見つからないのに

 まだまだ探す気ですか? それより僕と踊りませんか?

 夢の中へ 夢の中へ 行ってみたいと思いませんか?

 Ufu-fu     Ufu-fu    さあ


 休むことは許されず 笑うことは止められて

 這いつくばって 這いつくばって 
 
 いったい何を探しているのか?

 探すのをやめた時 見つかることもよくある話で

 踊りましょう 夢の中へ 行ってみたいと思いませんか?

 Ufu-fu   Ufu-fu    さあ





 陽水さんの、初期の曲はストレートな表現が多いですが、

やがて、意味不明の言葉が飾られるようになって来ますね。

でも、その言葉は“財宝の在りかを示す暗号”のようなもの

で、最後まで辿って行くと煌めく宝石に巡り合います。

 井上陽水ほど、その才能を輝かせ続けたソングライターは

いませんね。30年以上の永きに渡り、ハイレベルの作品を

生み続けた。「才能がある」といわれる人でもピークは4~

5年です。天才ユーミンでも、20年ぐらい。(それも凄い事

です!)

 井上陽水は、まぎれもなく“日本のミュージックシーンの

巨人”です。

 ここに、感謝と敬意を表します。


 

2017年6月7日水曜日

生まれ変わったって・・・

 
 
    もう四十年以上も前の話(古すぎるね)。

 私が中学一年のとき、友達と近くの高校の文化祭に行きま

した。

 校内をぐるぐる廻って、お化け屋敷に入ったり、ポップコ

ーンを買ったりしながらうろついてる内に、いつの間にか天

文部の部室に入り込みました。

 中には男子部員が一人いて、いきなり入ってきたぼくらの

相手をしてくれて、部室の上にある望遠鏡のドームを見せて

くれたりしていたんですが、そこに女子部員が一人入ってき

て、ぼくらを見てこう言いました。「この子等、何ゆえここ

に居るの?」。

 その一言を聞いた瞬間、「あっ、ぼくここに居るべき人間

や無いんや」と思って、すぐさま一人で外へ出たんです。

 その時の女子部員の声を、今でも憶えています。

 あれが、“自分”というものを、初めて客観的に意識した瞬

間だったかも知れません。それと同時に「自分は場違いな人

間だ」という思いに取りつかれた瞬間でもありました。


 それ以来、今に至るまで、この「自分は場違いな人間」と

いう感覚をずっと持ち続けて来ました。

 さすがに自分の家の中では、まず思いませんが(というこ

とは、時には思うということです)、誰と居ても、どこに居

ても「どうも、自分は場違いだな・・」という思いが、しょ

っちゅう浮かび上がって来ます。

 それは人に対してだけで、山や森の中など、人の居ない自

然の中ではその感覚は生まれません。

 もちろん、四六時中そんな感覚に襲われてるわけではあり

ません。もしそうなら、とっくに人格が破綻しているでしょ

う。幸いなことに、社会生活を送れるレベルでとどまってい

ます。

 しかし、人間関係を円滑に保つために、かなりのエネルギ

ーを費やして来ましたし、ずっと苦しい思いをして来まし

た。ホントに疲れるんです。


 何故、「自分は場違い」だと思うのか?

 「どうも、私の〈価値観〉・〈世の中の見方〉が、普通の

人とはかなり違っているせいらしい」と気付いたのは、二十

代でした。

 世間一般の考え方・物の見方になじめない。

 言い換えると、“幻想(約束事)” を共有出来ないんです

ね。

 それは、「自分の価値観・考え方とは違う」というのでは

なくて、「何を言っても、それは “幻想(約束事)” でし

ょ?」という思いが、自分の意識のベースとして、抜き難く

横たわっていて、人のやっている事が不自然に感じてしまう

ことが、日常的にあるんです。

 私にとっては、「それは “幻想” でしょ?」というのが自然

な状態で、それを踏まえた上での “世の中(人間関係)” なん

です。


 ですから、生きる上での基本的な立ち位置が違うので  

一段低い、または高い  どうしても “人との間に透明な壁

がある” という感じが生まれやすい。その結果「自分は場違

いだな」ということになってしまい、居心地の悪さに居たた

まれなくなる・・・。そんな事を繰り返して来ました。


 このようなことを言葉に出来る様になったのは、二十歳ご

ろ岸田秀さんの『ものぐさ精神分析』(青土社)を読んだお

かげでした。(「唯幻論」ですね)

 『ものぐさ~』を読んだ時、「自分の事が書いてある」と

思い、「俺の感じていたことは、こういうことだったんだ」

と心の底から納得して、かなり見通しが良くなりました。

(ただ、気を付けていないと “ニヒリズム” にハマり込んでし

まいますけどね)

 でも、それで「場違い」な感じや「居心地の悪さ」が解消

されてしまったわけではありません。ただ、自分の感じる

「場違いさ」を一歩離れて見ることが出来る様になって、多

少コントロールが効くようにはなったんです。


 そんな、なかなか苦労の多い生き方になってしまったんで

すけど、自分では幸せな事だと思っています。上手くコント

ロール出来れば、人間の価値観に振り回されずに、根源的・

本質的な幸福感を持てるからです。

 根源的な幸福感とは、“「(ただ)生きてるなぁ」という

不思議に浸る” といった感覚ですね。

 何かとの兼ね合いや、何かと較べて “良い” という事でもな

く、「何故だか知らないが、今、生きている。」と。


 ほんとに不思議です。「なんだ、こりゃぁ」とか、いつも

思いますね。ほんと、生きてるって何なんでしょう? 訳が

分からない。何か分からない。でも、分からないまま、その

ままに身を置くことが出来ると、得も言われぬ甘美なものを

感じます。

 好きな音楽を聞いたり、歌ったり。美味しいコーヒーを飲

んだり、良い映画を観たりと、人並みに楽しい事ももちろん

あるのですが、それらとは異質な喜びですね。(うっかりす

ると、「危ない人」になりかねませんが)
 

 “人の世の中” で場違いな私は、“人の世の外” では、しっ

くりくる私です。そこには、”人の世” には無い幸福がありま

す。出来るだけそこに居たいのですが、最大の障害はやはり

「お金」ですね。衣・食・住と税金ですね。困ったもんで

す。

 じゃぁ、親が財産をいっぱい残してくれていたら?

 そういう生い立ちだと、こんな人間には成っていないでし

ょうね。たぶん、どっぷりと世の中にハマっていることでし

ょう。

 結局、《世の中に居ながら、世の中の外に身を置く》とい

う離れ業を探ることになります。

 「そんな事出来るんでしょうか?」

 やってみるしかないんですね。

 それが、自分という人間の在り方みたいですから。


 あの時、一人の女子高生が言った何でもない一言が、私の

人生を決定付けました。けれど、あの一言に出会わなかった

としても、別の何かが私に同じ思いを抱かせた事でしょう。

私の内的状態が、その意味を探していたでしょうから。

 わたしたちは結局、自分から逃れることは出来ません。

 《 どんな自分であっても、自分を生きるしかない 》

 それを幸福と考えるか、不幸と考えるかですが、どうせ自

分からは逃れられないんですから、幸福であるべきでしょ

う。





 最近、BUMP OF CHICKEN の「Butterfly」を聴いてい

たら、 “生まれ変わったって 結局は自分の生まれ変わり”

という歌詞がありました。さすが! Fujiくんは天才です!





2017年6月6日火曜日

努力にまつわる幻想について




 内の奥さんの口癖は、
「わたしは、つまらん(人間

だ)・・・」。

 自分には、何の取り柄も無いという。

 私から見ればいろいろ取り柄があって、羨ましい部分もあ

るのだが、それを言っても、そんな事は取り柄にならないと

思っているらしい。
 

 人というのは、自分の得意なことや身に付いている事は、

なんの事なく出来てしまうので、それを「出来て当たり前」

「そんな事、普通のこと」と思ってしまう。

 その「(その人にとって)当たり前の事」が出来なくて、

悩んだり苦労したりする人がいるなんて、考えられないんで

すね。

 私にもそういう所がありますし、大抵の人はそうだと思い

ます。それで、自分の “つまらない部分” をなんとかしよう

と、誰も彼もが涙ぐましい努力をしたりしています。

 その努力の中で、自分の隠れた才能みたいなものが表に出

て来て、良い結果をもたらすこともありますが、大抵は辛い

だけで終わってしまうんではないでしょうか。

 なぜなら、得意なこと・・つまり、自分に合ったことは努

力しなくとも出来るわけですから、あることをするのに努力

が必要ならば、「努力が必要」という事実が、「それは自分

に合っていない(向いていない)」ということを証明してし

まっているわけです。ですから、“努力” というものは、大抵

「ムダな努力」なんですね。

 だつて、「自分にあっていないもの」、あるいは「もとも

と能力の低いこと」にエネルギーを注いでも、大した成果は

出るわけないんです。鶏に飛ぶ訓練をするなんて、ばかげて

ますよね。それと同じですよ。

 にもかかわらず、このブログで何度も書いていますが、わ

たしたちは徹底的に “較べる癖” を付けられていますから、す

ぐに、人と較べて自分の足りないところを問題視してしま

う。そして、誰もが自己を否定して、不幸になる。


 否定する部分が違っているんですよね。

 「出来ないところのある自分」や「足りないところがある

自分」を否定するんじゃなくて、「出来ないところを問題視

する自分」こそ否定すべきなんです。

 「足りない」「出来ない」。そんなところにばかり目を向

けていたら、しあわせなんか来ません。
 

 「足りない」「出来ない」ことにエネルギーを注いで、そ

れが喜びにつながる場合もあります。分かり易いのはアスリ

ートだと思いますが、実績を残すアスリートは、自分の「足

りない」ことを埋めるための行いを、“努力” とは考えていな

いだろうと思います。彼らは「それをするのが面白いから」

「それをするのが当然だから」、あるいは「それをせずに居

られないから」するのだと思います。「努力しなければ」な

んて思って頑張っているアスリートは、大成しないでしょ

う。


 「面白いから、やってしまう」

 「やるのが当たり前だから、やる」

 「不安だから、やらずに居れない」

 大成するアスリートは、そんな理由で厳しい練習に向かっ

ているのだと思います。それを他人が見て「大変な努力をし

ている」と勝手に思うだけで、本人からしたら「当たり前」

のことでしょう。

 そういった凄いアスリートなんかを見て「人並み外れた努

力をしたから、あれだけの結果を出せるのだ」とか言う人が

よくいます。そして、人に向かって「もっと努力しろ!」と

か言うんです。そういうのを聞くと「人並みのひとに、『人

並み外れた努力』は出来ないでしょ。だって、“人並み” なん

だから」って思っちゃうんですよね。


 《 「人並み外れた努力が出来る」ってことが

               才能なんですよ 》


 やらせてみてもいいんですよ。やってみてもいいんです

よ。でも、そこに「努力しなければ」とか、「あの人はやっ

ているんだから」という思いがあって、自分から自然にそれ

をしてしまう様な状態にならないのであれば、「これは自分

に向いていない」と考えるべきでしょうね。


 「鬼コーチ」とか「鬼監督」とか呼ばれる指導者がいて、

大きな成果を挙げることがよくあります。そういうのを観

て、「厳しい指導が、選手たちの夢を叶えた」とか評価され

たりしますが、私はひねくれ者なので「“銅メダル” でしょ?

優しく指導したら “金” だったかもしれないよ」とか言っちゃ

うんです。

 どうしても日本人は「厳しく指導する」ことが良いことだ

と思いがちです。


 たぶん、戦後に軍隊経験者が  当時の日本男性はほとん

ど軍隊経験者です  教育現場や仕事の現場で指導者の立場

になった為に、軍隊式のやり方を持ち込んでしまったのでし

ょう。それが「厳しくすることが、教育だ」という感覚を世

の中に植え付け、未だに受け継がれている。そこにサディス

ティックな資質を持つ者や、不満を持った者が関わると、い

じめや虐待や体罰なんかが “教育” の名のもとに行われる。


 軍隊の教育というものは、“個” を消すことが第一義です。

作戦を無視して自分の考えで動かれたら、部隊が全滅しかね

ません(作戦が悪ければ、もとより全滅ですが・・)。です

から徹底的に厳しくして、“個” を消さなければなりません。

そして、命令通りに動く人間にしなければなりません。

 しかし、一般社会の教育にそれを持ち込んではいけませ

ん。“企業戦士” なんて言葉が日本に存在するのは、軍隊式の

教育を会社に持ち込んできた証拠でしょう。もう、やめにし

ましょうよ。


 「適材適所」という言葉があるじゃないですか。

 出来ないことや苦手なことを無理してやらせるより、それ

ぞれに合ったこと・得意なことをやらせる方が、上手く行く

に決まってるんです。

 指導者は、“人と人とのマッチング” や “ひとりの人の中の

能力のマッチング” に注力すべきで、それが出来ないのであ

れば、指導者の資格は無い。


 学校教育にあっても、さまざまな科目を学ばせ、その中で

適性を見極め、社会の中でその子(その個)が活きる様に振

り分けることが望ましい。「個性を伸ばす」なんてことを言

ってましたが、親や教師が不自然に誘導しょうとすることが

多くて、上手く行かないんでしょう。「個性を伸ばす」とい

うより「個性を曲げない」と考えるべきでは。良くも悪くも

そういう子なんだから。


 社会の中で、その子が活きるように割り振ってあげられな

ければ、「活きない」んですから、へたをすれば「生きられ

ない(死んじゃう)」です。本人に向かない事で競わせた

り、較べたりしてる場合じゃないんですよ。そんなの個人に

も社会にも不幸ですよ。
 

 亀山努という、阪神タイガースで活躍した人が居ますが、

この人は現役引退後、大阪でリトルリーグの監督をしていま

した。その時の指導のモットーは「楽しくやる。」だったそ

うです。本人もしょっちゅう練習時間に遅れて来たりして、

「厳しく!」とは真逆の指導だったそうですが、なんと!チ

ームが世界大会で優勝したそうです。

 「楽しいからやる。やるから出来る様になる。出来る様に

なるから楽しい。」そんな正のスパイラルが起きたのでしょ

う。


 「厳しい」は絶対だめだとは言いませんが、厳しい指導者

が “厳しくない指導” をしていたらどうなっていたかは、起ら

なかったから分かりません。ですが、「厳しい」を怪しむ姿

勢は持つべきではないかと思うんです。

 やはり、“自発的” ということが、人を最も輝かせ、本当に

世の中にも貢献でき、本人にとっても幸福なことじゃないで

しょうか。
 

 《 生まれて、死ぬだけ。仲良くしたら?

               まずは、自分と 》



2017年6月1日木曜日

しっかり歩く

 昨日、出かけた先の地下街で、コーヒーチェーンに入って

コーヒーを飲んでいました。

 外が見える席で、通路を行き交う人達を眺めていたんです

が、ふと歩き方が気になりだしたんです。「みんな、歩く事

がお留守だなぁ」と。


 私は昔から、歩き方を見ただけで、その人の性格が判るん

ですが(判るつもりですが)、昨日感じた「お留守だなぁ」

というのは、「気持ちが、ここではない何処かへ行った状態

で歩いてる」ということでした。

 それで、「自然体で歩いてる人は居ないのかなぁ」と通り

過ぎる人を観察したんです。


 三百人ほど観察してたと思いますが、その中で自然体で歩

いてると感じたのは、たった四人でした。

 一人は、杖を突いた八十歳ぐらいのおばあさんで、あとの

三人は妊婦さんでした。それ以外の人は、これから行く所や

周りの店の商品のことに気がいっているか、なんだかんだと

考え事をしていて、今ここを歩いている自分を意識していな

いので、前のめりに歩いていたり、足取りが重かったり、左

右に重心が振れたり、お尻が引けていたりしている。別に、

歩き方が綺麗かどうかという事じゃなくて、「ちゃんと歩け

ているか」ということなんですけど、みんなだめでしたね。

 そのなかで、杖を突いたおばあさんと妊婦さんだけが自然

に歩いていたのを見て、「ははぁ~ん」と思いました。四人

とも、歩くのに真剣だったわけです。



 おばあさんは足元が覚束ないので真剣なわけです。

 妊婦さんは、お腹の重さとバランスを取る為におのずと背

筋が伸びていますし(後ろに反り気味ではありますが)、

「お腹の中には子供がいる」という意識が常にあるでしょう

から、慎重に歩くのでしょう。(単純に「重い」ということ

もあるでしょうね)

 「それが、何だ?」と思うでしょうが、私は、いかにみん

なが目的思考で、今をやり過ごしながら生きているかを、目

の当たりにしたと思ったのです。


 杖を突いたお年寄りは他にも何人か見かけましたが、あと

の人は自然な歩きではありませんでした。ところが、妊婦さ

んは三人だけ。つまり全員が自然体だったんです。

 これは、とても面白い事でした。

 “子供”という自然をお腹に宿した女性が、自然体の歩きに

なっている。

 わたしたちは何時も、アタマという“人為”に誘導されて動

いています。しかし、妊婦はアタマよりも、お腹の中の子供

を意識的にも無意識的にも優先しているのでしょう。だから

歩き方も、一歩々々今の状況にちゃんと対応するような歩き

方になるのに違いない。

 私は、「けっこう。けっこう!」と独り言を言ってしまい

ましたね。妊娠・出産には、自分の身体を深く意識させる効

用があるのだと。

 大病や大けがをすると、誰でも自分の身体を意識します

が、そこに喜びはないですからね。でも、妊娠は喜びと共に

ありますから  まぁ、大変でしょうけど  良い経験だと

思いますね。
 

 「それはともかく、“自然な歩き方”ってなんだ?」

という疑問があると思うんですが、どうにも答えようがあり

ません。

 雰囲気で言っているだけなんです。

 私の感覚からすると「自然だ」ということで、他の人に伝

えようがない。

 しいて言えば、「全体のバランスが取れて、むだな力が抜

けている」ということでしょうか。「動いているけれど、落

ち着きがある」感じ。「落ち着きがある」と言っても、単に

遅いだけじゃない。そんな風なことです。(わからないでし

ょ♡)


 と、ここまで書いてきて自分で気が付いたのは、「要する

にみんな歩き方のバランスが良くないということか?」って

こと。

 先に、「歩き方で性格が判る」と書きましたが、歩き方に

はその人の精神状態・主義主張・価値観が如実に表れますか

ら、「歩き方のバランスが良くない」ということは、精神的

なバランスも良くないということです。

 「気持ちが前のめり」(身体も前のめり)、「気おくれし

ている」(腰が引けてる)、「何か疑問を抱えたまま」(無

意識に首をかしげているので、右か左に重心が偏る)、「手

を振り過ぎ」「片手だけ振りが大きい」(無理をしている)

ちょっと大雑把に言葉にしてみましたが、そんな感じで精神

状態が偏ると歩き方も偏りますし、力感も違います。

 しっかり、落ち着いて歩くと、精神的にもしっかり、落ち

着いてきます。なので、このブログには珍しく、実践的な話

をしましょうか。
 

 “しっかり、落ち着いて、美しく歩く方法”を伝授いたしま

す。

 チョー簡単です。

1.「ブラジャー」の真ん中(みぞおちの上)を親指と人差し

 指でつまんで、3センチ程上に引き上げます。ひどい猫背

 の方は、背筋が伸びるまで引き上げて下さい。

2.その姿勢をキープしながら歩く。

 それだけです。足の運び方なんかは気にする必要ありませ

 ん。自然に足の運びも綺麗になります。(モデル歩きの様

な、作為的な歩き方にはなりません)ただ、慣れるまで結構

キツイですよ。  男性はブラジャーを付けたつもりでやっ

て下さい。(実際に付けても構いません)


 私のレクチャーはどうでもいいですが、わたしたちはしっ

かり歩きたいもんです。「アタマ主導」では無く、「身体の

声」を聴きながら。

 病気だって、その多くはアタマの誘導で生まれます。「も

っと食べたい」「もっと飲みたい」とか「酷く疲れているけ

ど、仕事を休むわけにはいかない」とか「(何かが)心配で

食事も喉を通らない」なんて、みんなアタマに引っ張られて

いるんですから、もっと「身体の声」を聴くべきなんだと思

いますよ。(ガンになるのだって、「アタマ」の影響がかな

り大きいと私は考えています。医学的な根拠はありません

が・・)


 あらためて書いておきます。


 《 アタマが悪さをすることを

       「アタマが悪い」と言うのです 》


 自分がムチャな事をして、風邪を引いたり、ケガをしたり

しても、身体は文句も言わずに治そうとしてくれます。

 現代人は特に、身体を無視し過ぎです。

 “人の目”より“自分の身”を気にしましょうよ。