2017年7月11日火曜日
ブラック企業という “砂漠”
今日、近所の公園のケヤキに、キクラゲが生えているのを
見つけた。低い所なら採って帰るところなんだけど、残念な
がら4mぐらいの高さで、木も細くて登れないので諦めたん
ですが、ふと、このキクラゲがこのケヤキに辿り着くまでの
事を想像し、そこから考えが膨らんでいきました。
街中の公園で、キクラゲを見つけることはあまり無いの
で、この近くに元になるキクラゲがあるのでは無さそうで
す。であれば、このキクラゲの胞子は少し離れた所から飛ん
で来て、このケヤキに辿り着いたのでしょう。
このキクラゲに限ったことでは無く、キノコやカビなどの
あらゆる菌類の胞子は、数限りなく空気中を漂っています。
その中で、キクラゲの胞子が、何年か前にこのケヤキに偶
然辿り着いたところ、枯れていて自分の生育条件に合った枝
だったので、成長を続け、りっぱなキノコになったのでしょ
う。つまり、自分に合った職場に巡り合ったのです。
このケヤキの枝には、他にも沢山のキノコの胞子が辿り着
いた事でしょう。その中には、シイタケやシメジやツキヨタ
ケや、ヒラタケやマツタケも有ったかも知れませんが、その
中で最もこのケヤキに適していたのが、キクラゲだった。
どんな生物も植物も、自分に合ったところでなければ、生
き続けられません。最低条件が整っていれば、そこで生き始
めはしますが、成長し続けられる条件が足りなくなれば、結
局死んでしまいます。
枝先に並んでいるキクラゲを見上げて、「人間も一緒だな
ぁ」と思いました。
気が付いたら世の中を漂っていて、辿り着いた所で生き始
めるのだけれど、そこが自分に最適の場所かどうかは分から
ない。最初は良くても、環境が激変してしまえば生きられな
い。
人間は自分の意志で移動することが出来るので、少し状況
が違いますが、やはりそれも表面的なことに過ぎず、本質的
には同じ事でしょう。
状況の変化によって、移動を余儀なくされたりするのを
“運” と言って差し支えないでしょうが、自ら動くのもやは
り “運” です。
今までいた所から「移動しよう」と思うのは、自分の外側
の状況が変化したか、自分の内側の状況が変化したかのどち
らかですが、その状況の変化は自分の意志によるものではあ
りません。「移動しよう」という意識の変化を、“意識” に
よって生み出せるわけがありません。「『移動しよう』とい
う意識の変化を生み出そう」という意識を生み出す “意識”
は、どこから来るのか・・? 無限遡求です。GAME OVER.
人間も、自分の意志で移動するのではありません。わたし
たちも、あのキクラゲと変わりません。この世界を漂い、た
またま辿り着いた所に自分の仕事があれば、とにかくそこで
働き、暮らして行きます。
今、「自分の仕事」と書きましたが、キクラゲがケヤキの
枯れ枝で生きることは、「仕事」です。
彼は、「ケヤキの枯れ枝を分解する」という仕事に巡り合
い、自分の性質にピッタリだったその仕事を、まっとうしよ
うとしているのです。
立派な子実体(キノコ)をいくつも作っているという事
が、この仕事が彼にピッタリだったという証明です。
世界中を無数の胞子や細菌やウイルスが、またタンポポや
柳のように風に乗る植物の種が、さらには昆虫や鳥たちが自
分の仕事に巡り合うまで空を巡っています。もしも、自分の
仕事に巡り合わなければ、それぞれが ”個体の死" を迎えま
す。
「今回は、自分の仕事は無かったな。じゃぁ、さよなら!」
そんな感じでしょう。
彼らの場合、その個体の性質は死ぬまで変わりませんが、
わたしたち人間は寿命が長く、身体だけでなく、頭の中身も
変化するので、その性質が変わります。その為、その性質の
変化に合わせて仕事も変えなければならなくなります。です
から、「今回は、自分の仕事は無かったな」で終らず、次の
場所へと移動しなければなりません。面倒ですね。
キノコたちの場合、その仕事場の自分に適した分だけ働い
たら終りですが、人間は自分に適した分が無くなっても、そ
こに居続けようとすることがよくあります。
仕事が無いという事は、環境が合っていないという事でも
ありますから、そこに居続ければ死んでしまいます。ところ
が、人間は ”学習” という事が出来ますから、環境に合わせ
て自分を変えようとします。それが適応能力の範囲内であれ
ば、万々歳で「成長した!」ということになるわけです。
でもね、その「成長」は結局のところ、元々の自分の性質
の範囲に止まっているのです。自分の能力の範囲内とも言え
ます。「どんな事でも学習すれば出来る」わけではないです
よね。当たり前です。人それぞれ資質と、その発展させられ
る限界は決まっています(その限界がどこかは、誰にも分
かりませんが)。ウサイン・ボルトと同じ訓練をしても、同
じ身体を持っていなければ、あのタイムを出す事は出来な
い。誰にだって理解出来ることです。
ところが、これがもっと一般的なレベルの事になると、
「やれば出来る」と言い出すのです。
「やれば出来るんじゃないかな?」というのが、理性的な
判断だと思うのですが、事が “一般的な” ことなので、自分
からも周りからも、「出来て当たり前」という同調圧力がか
かって来ます。これが鬱陶しいんですよね。諸悪の根源の一
つです。
ブラック企業の経営者の理屈がこれです。
「やれば出来る」
「出来て当たり前」
「出来ない奴は無能」
私に言わせれば、その者の資質に見合った質と量の仕事を
与えて、最大限の結果を得る様にするのが経営者・管理者の
仕事です。
この場合の「結果」とは、「目標の達成と意欲の継続」で
すが、ブラック企業の経営者や無能な管理者は、「目標の達
成」だけを見て、「意欲の継続」を見ません。その結果、意
欲の無い人間は、良い仕事は出来ませんから、その企業のパ
フォーマンスは徐々に落ちて来ざるを得ません。
無能なのは、経営者の方です。
砂漠に苗を植えて、「さっさと、実を付けろ!」と言う様
なもので、バカの極致です。
ところが困ったことに、その “苗” が、その砂漠で実を付
けようとするのです、「自分に能力が無いと、思われたくな
い!」とか思って。どうせ、「枯れたら、次のを植えりゃい
い」としか思われていないのに・・・。
人間は自分で移動できるんですから、「ここは、砂漠だ」
と気付いたら、さっさと他の所へ移ればいいんですが・・。
「他へ行ってもいいんだよ」という追い風が、あまり吹か
ないんですよね、この国では特に。
結果、一つ二つ実を付けたり、時には一つの実も付けない
まま枯れてしまつたり、引き抜かれて捨てられたりしてしま
う。
砂漠からは逃げなきゃダメ!
砂漠には近付いちゃダメ!
ほとんどの人間にとって、そこは生きる場所ではない!
わたしたちは、キノコの胞子やタンポポの種の様に、辿り
着いたところでそのまま消えてしまっても「まぁ、そんなこ
とは普通だ」なんて思えないでしょ?
キノコの胞子には数十億、タンポポの種にも数百の分身が
居るけれど、わたしたちには分身が居ません。
この身一つだから、ほんとに大切にしなければいけませ
ん。(人として)無能で強欲な連中の “自分の中の砂漠の緑
化事業” に付き合って、命を吸い取られる様な事があっては
なりません。喜ぶのはそいつらだけで、“世の中の砂漠の緑
化” にはなりません。わたしたちが、蒼々とした葉を広げる
ことが出来なければ、世の中に ”緑” が拡がることはないの
ですから。
「公園のキクラゲ」から始めた話が、「ブラック企業のバ
カ経営者」の話になるとは思いませんでした。
わたしたちの「アタマ」は悪いのですが、その中にはとて
つもなく「アタマが悪い」奴が、結構います。
ホントーに、気を付けて下さいね。
特に、若い人はね。
(このブログが「砂漠に吹く風」になることを願いつつ)
2017年7月8日土曜日
九州の大雨に考える。
九州北部で酷い水害が起きました。
あれだけの量の雨では、土地の保水力も河川の排水能力も
遥かに越えてしまっていて、土砂崩れや川の氾濫は必至だろ
う。十数人の犠牲者がでている様だし、多くの家が壊れ、流
され、インフラが被害を受け、住民の方々は先の事が何も考
えられない状態だろうと思う。
気の毒だと心から思うが、目の前の問題を、淡々と一つず
つ片付けて行くしかない。
災害の時は特にそうだけど、生きるという事自体が、そう
いう事だと思う。あせらずに、ひとつひとつの出来事を柔ら
かく受け止めていってもらえたらな、と願います。
今回の様な災害が起こると、すぐ「防災インフラの整備は
出来ていたのか?」というような事を言い出す人がいるもの
ですが、今回の雨量を受けて、無事でいられる所は無いでし
ょう。人為で対抗できるレベルを遥かに超えている。
これ程の雨に対抗しようと思えば、「住みたいところに住
むこと」が大きく制限されたり、景観や環境を壊し、普段の
生活に不便が生じる様な防災設備を造るようなことになるで
しょうね。
現代に住むわたしたちは、生活の利便性を高めるために、
様々に手を加えて土地を大きく改変し、大きなインフラのネ
ットワークを作り上げている。もちろん、いろいろな災害に
対する対応策を取っているけれど、ひとたびその想定を越え
てしまうと、融通が利きにくく、完全な復旧にかなりの時間
が掛かってしまう。
今回、大きな被害が出ている日田市には、何度か行った事
がありますが、美しい渓谷の有るところで、車で通り抜けて
行くだけでも、水に恵まれている所だと分かります。それ
は、裏を返せば、水の災害が起り易いという事でもありま
す。
どんなところでも、土地の恵みと危険は表裏一体です。い
いことだけを受け取ることは出来ません。
山というものは、地震に伴う地殻の隆起と、火山活動によ
って造られます。そして、雨と風によって風化し削られてゆ
きます。もしも、雨風による風化が無かったら(山崩れが無
かったら)山は無限に高くなり続けますし、扇状地などの平
坦地が出来ないために、人が住める場所は極端に少なくなり
ます。また、山から流れた土砂や有機物が、海の環境を多様
にして生物を育み、人はその恩恵も受けている。火山噴火、
地震、大雨など、災害がわたしたちを苦しめる一方、住む場
所を生み出し、土地を肥沃にするなど、過去の災害がわたし
たちが暮らす為のベースになっています。
わたしたちは、災害に命を奪われたり、暮らしの基盤を破
壊されたりして苦悩するわけですが、災害がもたらすものに
よって暮らして行けるとも言えます。
災害に遭うことは、大変だし、辛い事です。しかし、日本
に住んでいると、大抵の人が一生の内に一度ぐらいは何らか
の災害に遭う事でしょう。それは、気候風土のもたらす恵み
とバーターです。(運が良ければ、“恵み” だけいただけま
すが)
「災難に逢う時節には、災難に逢うがよろしく候」と、良
寛さんは言いましたが、被災地に行ってこんなことを言えば
殴られるでしょうね。でも、良寛さんの言葉は本当だと思い
ます。阪神淡路大震災の当日、私はこの言葉を思い出して、
気持ちが楽になりましたからね。
“修行” という言葉がありますが、これは特別に何かをす
ることではありません。武道家や職人が技術を高めてゆくと
いった事もありますが、良寛さんのようなお坊さんにおいて
は、「生きて行く中で、日々の出来事を丁寧に受け止めてゆ
く態度を練る」と行った事で、さらに言えば、生きて行く事
そのものです。
“修行” という言葉は “修めて行く” と書きます。
日々起こる出来事を “修めて行く” のです。
平凡な出来事も、大変な出来事も、わたしたちの日々の中
に、ただ起こって来ます。起った事は受け止めるしかありま
せん。起こったのですから。
どんなに受け入れがたい出来事でも、起ってしまった以上
仕方が在りません。時間は戻せません。
ただ、ひたすらに、ひたむきに「自分の中に、修めて行
く」。
「日本人は、災害の時も取り乱したりしない」と、外国の
方が驚きますが、それは神道と仏教が、意識しない程深く日
本人の中に根付いているからでしょうね。(当たり前すぎて
意識もしないから、「自分たちは無宗教」だと思うのでしょ
うが、ほんとはどっぷり、神道・仏教なのでしょう)
災害の展示場のようなこの国に永く暮らしてきたことが、
神道を生み、仏教を深く根付かせた理由なのでしょう。
「仕方がない」という言い方は、“コントロール願望” が
強く、“効率信仰” の現代では否定的に扱われる言葉でしょ
う。でも、「仕方がない」事はいくらでもあるし、「仕方が
ない」という出来事の受け止め方は、人を安らかさに導く力
を持っています。
「仕方がない」という言葉を否定する態度は、前向きだと
も言えますが、それ以上に傲慢で、強欲という毒をもってい
ます。
「仕方がないことは、仕方がない」のです。
起ってしまった事は、起ってしまったのです。その上で、
そこから、また今日が始まります。次の今を生きて、次の今
を修めて行きます(生きます)。
平凡な日であっても、大変な日であっても、人が、今、こ
の時に出来ることは、僅かだし、一度に一つしか出来ないの
は同じです。
ひとつひとつを、あせらず、丁寧に、修めて、歩んで行
く・・・。そこに、落ち着きと安らぎが生まれて来ると思い
ます。
「明日は我が身」というのは、「あれは我が身」というこ
とでもあるでしょう。「他人事では無い」というのは、「自
分の事である」ということでしょう。
「教訓にする」ということにとどまらず、寄り添う気持ち
が持てるのなら、それはお互いにとって幸運な事でしょう。
2017年7月5日水曜日
人間関係が壊れる喜びを知ろう!
と言うより、人の悩みはそればっかりなので、「わたした
ちの悩み・苦しみは、ほとんどが人間関係だ」と、以前に書
きました。それ以外は、病気やケガなどによる具体的な身体
の苦痛しかないと。(『自分でしあわせを探さなければなら
ない子供達の為にⅡ』 2017/4 )
なぜ、そうなのか? ということについて、あらためて書
こうかなと。
もしも、自分以外の人間がいなかったら、悩みというもの
は生まれるでしょうか?
あなた一人で生きているとしたら、何か悩みを持つことが
あるでしょうか?
答えは、「NO」です。
一人で生きているとしたら、人間関係はありませんから、
当然人間関係の悩みはありません。しかし、人間以外のもの
との関わりは無くなりませんから、そこには様々な問題が起
こって来ます。それらは、衣・食・住に関わる事と、病気・
ケガ・老いに関係することです。
衣・食・住・病気・ケガ・老い。
これらのことは、“悩み” となるでしょうか?
生きて行く為には、衣・食・住 を確保しなければなりま
せんが、自分一人であれば、世界中のどんな物も、誰の所有
でもありません。自分一人が、好きな様に手に取り、使い、
食べることが出来ます。なんの気兼ねも要りません。もちろ
ん、手に入れる為の労力は要りますが、それだけのことで
す。
“病気・ケガ・老い” は悩みの種でしょうか?
病気をしても、ケガをしても困るのは確かです。なんとか
しなければなりませんが、意識する事は、「ただ、ケガを治
す。病気を治す」ということだけで、「早く治して、仕事に
行かないと・・・」とか、「いつまでも寝込んでいては、家
族に迷惑をかける・・・」などということは考えません。仕
事も家族も無いのですから、そこにあるのは、“苦痛・不快”
という、身体的な問題だけです。
さらに、“老い” ですが、自分の身体が老いて来ても、周
りに比較対象が居ません。自分が若かった時と較べることは
出来ますが、自分しか居ない状況で、人は “老い” を悩むで
しょうか? 私は、無いと思います。“老い” というものは、
やはり、周りに居る若い人と較べることで、悩みとなるのだ
と思います。
歩くのが遅くても、力が弱くなっても、物覚えが悪くなっ
ても、自分一人なら、気兼ねなくマイペースでやれますか
ら。
シワが増えても、シミが増えても、肉がたるんでも、頭が
ハゲても、誰にも会わなければどうでもいいことです。
ケガも、病気も、老化も、生きて行く上で、様々な対応力
を低下させます。確かにそれは困ることですが、しか
し、“悩み” にはならないと思うんです。それらは、問題で
はありますが、“問題” に止まるだろうと思います。“悩み”
になることはないでしょう。
「いや、ケガしたり、病気したり、年老いて身体が上手く
動かなくなったら、悩むだろう」
そんな気がするでしょうが、それは今、わたしたちが人に
囲まれ、たくさんの人間関係の中にあるから生まれて来る想
いです。自分一人だったら、一切の人間関係が無かったら、
人は「ただ生きるだけ」で、悩みはしないと思うのです。
もちろん、そんな経験はしたこと有りませんし、経験した
人を見つけるのも難しいでしょうから、「絶対」とは言えま
せんが、自分で心理的なシミュレーションをすると、そうい
う結論になります。生きて行く事に対する “不安” はあって
も、“悩み” は無いだろうと。
22年前の阪神淡路大震災の時。私は、住む所とほとんど
の家財を失いました。
着の身着のままで、手元に僅かなお金が有るだけでした。
そのお金も、震災直後ではほとんど役に立ちません。何も
売っていませんし、電車もバスもタクシーも動いていませ
ん。自分の身体ひとつでなんとかするしかない状況・・・。
最低限の水分と食料、寒さをしのぐ為の物、トイレの問題
を何とかする様に考えて、動き、肉親や友人と連絡を取ろう
とする・・・。
それらの事だけに集中して、発生からの三日間を過ごしま
した。
その時、もちろん不安もあったのですが、それ以上に、そ
れまでの人生で持った事が無いような “充実感”を感じたの
です。
ほとんど全てを失い、家族の安否も分からず、明日どうな
るかも分からないし、これから自分の人生がどうなって行く
のか想像もつかない・・・。
そんな中にあって、感じた不思議な “充実感”。
三日目の夜。身を案じて探しに来てくれた友人の車で、被
災地を離れました。
風呂に入らせてもらい、食事を取り、ひとごこち就いて、
地震の現場を動き回っていた三日間の事を考えた時、自分が
充実感を感じていたことに気付きました。「あれは、いった
い何だろう?」。
すぐに、答えが出ました。
「ただ、今日を生きる」。その為だけに、頭と身体を使っ
ているという究極にシンプルな状況には、「アタマ」がしゃ
しゃり出る場面は無いのだと。
「ただ、今日を生きる」という、人間の本質的な欲求だけ
に頭と身体を使っていた事で、「自分が生きている」「命が
生きている」という感覚が、ダイレクトに感じられたのだろ
うと。
風呂に入り、頭を洗うと、足元を真っ黒な水が流れまし
た。身体を洗い、湯船に浸かると、体中にお湯が滲みまし
た。
体中に小さなケガをしていて、髪の毛の中も身体中も、土
ぼこりでジャリジャリになっていたのです。しかし、風呂に
入るまで、身体の汚れも、ケガも全く気が付いていませんで
した。そんな事、取るに足らなかったのでしょう。
非常事態で、アドレナリンや β‐エンドルフィンなんかが
頭の中に沢山出ていたのでしょうが、自分が普段アタマを悩
ませている事が、本質的には「取るに足りないこと」だと実
感した出来事でした。
震災後、生活が落ち着いて来た頃に、「もう、物はいらな
いな」と思って、「最低限の物だけ持って暮らそう」という
気になったんですが・・・、あれから22年。気付くと、家
の中には “物” が溢れかえっています・・・。
街の中で、人と関わりながら暮らしていると、ミニマルな
生活はなかなか難しいですね(でもまぁ、車も携帯も持って
いないし、現代の日本人としては、持ち物が少ないのではな
いかと思いますが)。人と関わっていると、どうしても較べ
る気持ちが湧いてきますし、社会的な不安や不満を持たせる
ような情報が、次から次へと入って来るので、“安心・安
全・満足” を求めて、どうしても余分な “物” や “事” に手
が出てしまいます。あれだけ、“物” と “事” の過剰さを思い
知ったのに・・・、社会に対する免疫はとても不安定です。
〈社会(人間関係)〉が、わたしたちに “悩み” をもたら
す〈ウイルス〉であり、わたしたちの〈アタマ〉がそれを培
養する〈培地〉の役目を果たしています。そして、わたした
ちの〈アタマ〉で増殖した〈ウイルス〉は、再び〈社会〉へ
と吐き出され
マ〉へ入って行きます。
わたしたちの意識が、自分の本質的な部分から離れ、〈ア
タマ〉にシフトしている間、わたしたちのエネルギーは〈ア
タマ〉に注がれ続け、〈ウイルス〉を増殖させて、“悩み”
という症状を悪化させます。
もっとも、〈社会(人間関係)〉のすべてが “悩み” を引
き起こす〈ウイルス〉ではありません。
その中には、わずかばかりですが〈アンチウイルス〉も存
在していて、わたしたちは運が良ければ、それを取り込んで
免疫を強化することが出来ます。釈迦や、老子、荘子、イエ
スやソクラテスやスピノザらの先賢達が残し、その価値を知
った多くの人々が守って来た《言葉》が、それです。
〈アンチウイルス〉に出会い、取り込めるかは “運” に任
せるしかないのですが、“悩み” から解放されるには、それ
しかないと言っていいでしょう。
このブログは、その “運” のひとつであると思っているの
ですが・・・、誇大妄想でしょうか・・・。
2017年7月2日日曜日
思い上がっちゃ、いけないよ
なんか、寅さんが言いそうなセリフですね。
「見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし」。
今なら、都心の高層ビルを見上げて言うかも知れません。
「見上げたもんだよ、ビル屋の強欲。思い上がっちゃ、い
けないよ」(「強欲」じゃなぁ。なにかイイ言葉ないかな
ぁ)。
寅さんはともかく、私は高層ビルなんかを見ると「思い上
がってるな」と思います。と同時に「病気だな。必死だな」
とも思います。べつに、あんな物にほとんど必要性は無い。
金をまわす為に、無理やり建てるわけでしょう。
出来るだけ大きなビルを建てると、それにからんで多くの
金がまわる。
多くの金がまわると、上前をハネる分も増えて、儲かる。
「病気」でしょ? 「必死」でしょ?
まぁ、人が「病気」でも知ったこっちゃないけど、あれど
うすんのよ? いずれは壊さなきゃいけないでしょ?
百年後に、誰が壊してくれるの? ちゃんと壊せるの?
その費用を誰が出すの? 事業者も建築会社も政治家もそ
んな話してくれたことないよ? ホントにどうすんの?
そんなこと考えると、「思い上がり」というより、「人で
なし」だと言いたくなるね。必要もない額の金を稼ぐ為に、
とんでもない粗大ゴミを後の世代に押し付けて死んで行く。
犯罪行為ですよ。法律より経済の方が力が強いから、見過
ごされてるけど、ロクでもないことしてると思いますね。
人間、「思い上がる」と身体を無視して、放って行きます
からね。ブラック企業の経営者や管理者が、従業員という
"身体” を忘れて好き放題するように。(自身の身体も忘れ
てるでしょうけどね。自分で何をしてるのか分かっていな
い)
思い上がると、命と切れてしまう。
では、生きているのは、何だ?
「思い上がる」というのは、アタマが主導権を握るという
ことです。そして、身体から搾取し続ける。生命力を吸い取
り続ける。(マトリックスですね)
個人でも、社会でも同じことで、人(命)は放ったらかし
にされ、「思い」だけが幅を利かせるけれど、放ったらかさ
れた人が死んでしまえば、「思い」も当然消える。「いった
い、何してんの?」。
その上に、粗大ゴミまで残されちゃあ、たまったもんじゃ
ない。
渋谷のスクランブル交差点とか、梅田の歩道橋の上なんか
に、30分おきにメッセージを掲げたらイイと思うよ。
「ちょっと落ち着いたら?」
何を怖れて、何を欲しがって走り回ってるの?
ほんと?
それ、ほんと?
ほんとに要るの?
ほんとに怖れるべきことなの?
誰が言ったの?
他人が言ったの?
自分の中の他人が言ったの?
自分が言ったの? ほんとに?
人がしあわせに生きるだけの事に、こんなに、こんなに、
こんなに、エネルギーは要らないし、動き回る必要も無い。
「思い違って、思い上がって、思い込んで」振り回されて
るだけだよ。
渋谷の街の中でも、立ち止まって見てみれば、樹の葉が風
に揺れてるだろうし、見上げると青空を雲が流れて行くだろ
うし、それは千年前とあまり変わらない光景。
ところが、その空を遮ってどこまでも埋め尽くすビル群。
そんな手の込んだ(手の込み過ぎた)大道具がなければや
っていけないなんて、ほんとは情けないことなんじゃない?
とんでもなく、バカなんじゃない?
「ちょっと落ち着いたら?」
「思い上がっちゃ、いけないよ」
ほんとにね。
本気でね。
「しあわせって、いったい何だろうか?」って、深く考え
てみればいい。
ほとんどの人が、「しあわせって何か?」って、しみじみ
と考えてみた事がないんでしょうよ。
二十代ぐらいで、“しあわせについて” 考えるべきなんだ
ろうけど、考えないように躾けられてるんだろうね。
あるいは、“しあわせについて”、 上っ面の概念を刷り込
まれてるんだろうね。 だから、深く考えてみたりしない。
「しあわせになるのに、理由はいらない」と書いたのは、
随分前になるけれど、自分でしあわせについて考えてみなけ
れば、何も始まらない。
”「しあわせになるのに、理由はいらない」理由”も書いた
けれど、世の中が見せる “しあわせ” を、疑いながらも信じ
ようとする自分に嫌気がささなければ、何も変わらない。
一度、「アタマ」を脇にどけて、頭を使ってみよう。
どこかの、誰かに、刷り込まれた “良いこと” は、ほんと
に「良い」のか?
他のどこかの、他の誰かが差し出す “良いこと” も、ほん
とに「良い」のか?
自分にとって、ホントに、ほんとに、本当に「良いこと」
は?
自分自身の中の、“嘘のつけない自分に” 訊いてみる。
ほんとうにしあわせなことって、“大袈裟” で “非凡” な事
ではないだろうと思うよ。
しあわせに生きる事は、そんなに大層な事じゃない。
というより、生きてること自体が、“しあわせ” と一体に
なってるんだと・・・。
考えて、感じて、試してみて欲しいんですけどね。
伊勢神宮で、アタマを下げる。
んですが、修学旅行の時はバスに酔ってしまい、最悪の状態
で伊勢神宮に着いたので、参拝したかどうかも含めて、なん
の記憶も残っていません。なので、実質的には今回が始めて
初日に「外宮」を訪れ、一泊してから「内宮」に参りまし
た。
神宮の中にある、いくつもの「宮」を回ったのですが、ど
この宮も、普段は神様など意識もしてなさそうな、若い子達
や外国人でいっぱい。日本人の高齢者より多いぐらいで、
面白かったですね。
そんな人たちに混ざって、一つ一つの宮を回りながら、
「二礼・二拍手・一礼」を繰り返したんですが、その内に
「これは一体なんだろう?」と思い始めました。
「神様」がそこに居られるわけですが、私たちには “そ
れ" が何かは、分かりません。ただひたすら、「神聖な」
(神様を「神聖な」というのも変ですが)「奉り」「敬うべ
き」ものとして、何度も何度も手を合わせ、頭を下げまし
た。
自分だけではなく、いつもは「神も仏も無い」生き方をし
ているであろう若い子や、おそらく違う信仰を持っている外
国の人までもが、わけも分からず頭を下げる。
ホントに「おもしろいなぁ~」と思いました。
わたしたちは、“すべて” ではないにしろ、さしあたって
は「わけが分かったつもり」で生きています。その中で、一
応の根拠を持って自分を立てて暮らしています。
また、人に頭を下げる時にも、何らかの根拠があった場合
に、「相手に頭を下げてよい」として頭を下げます。
しかし、伊勢神宮では誰もが「わけも分からず」頭を下げ
て回ります。(近所のお宮さんでも頭を下げますが、伊勢神
宮は「最高に格式が高い」わけなので、とてもじゃないが無
礼な振る舞いは出来ません。やはり、「わけも分からないま
ま」に・・・)
みんなが「わけも分からないまま」、当然の事として頭を
下げる。「いったい何に? なんの為に?」。
自分も頭を下げているうちに、最後にはこう思い始めまし
〈 何か分からないものに頭を下げ続けることで「この世
界は、自分には分かり得ないものに満ちている」、「自分と
いうものを立てる事は、怖る怖るすべきことである」という
謙虚さを、身体で覚えるのだ 〉と。
普段のわたしたち、特に現代のわたしたちは、「分からな
い事」に取り囲まれて生きているのに、アタマにそそのかさ
れて「分かったような」顔をしている。そのアタマによる
「思い上がり」なり「錯覚」なりを、身体に分からせる。そ
の為に伊勢神宮や出雲大社に代表される「神社」というもの
がある。
「“人” より前に、この世界はある」。それは当然、人の
として存在する。その世界を「神様」と呼び、怖れを持って
接することで、身の程に合わせた、実際的な生き方から、は
み出さないようにするのだと。そのことを、日本人は古代か
ら、骨身に滲みて知っているのだろう。
「“神(自然)” をないがしろにすれば、身を滅ぼす」と。
人は古代から、アタマ優位、アタマ主導の生き方をしてき
たのでしょう。そして、それによって何度も痛い目に合って
来たのでしょう。そのため人間以前からの存在を、「神様」
として畏れ敬う様になった。
アタマ優位の害を知り、アタマを下げ(アタマの影響力を
下げる)、自分を立てない様にする。それによって、自然に
自分を生きられるようになるのでしょう。
ところが、「神様」に頭を下げながら暮らしていても、い
つのまにか〈自分を「神」とする人間〉が出てくる。そこ
に、より良い暮らしを生み出すものが在るように思い、人々
は従うのだが、その度に大きな災厄を生み出して、人は我に
返り、あらためて「神様」に頭を下げる。
その繰り返しを日本人は続けて来た様に思います。
現代においては、“エネルギー”(化石燃料と電気)とそれ
が形を変えた “経済” が、「神」となっている様で、人々は
その前にひれ伏し、従います。それがより良いものをもたら
す様に見えるので・・・。
何度もアタマに誤られながらも、その一方で「神様」を祀
近頃、パワースポットが人気で、伊勢神宮はその中でも最
高のパワースポットとされるので、若い子達も訪れるのでし
ょうが、あの「宮」の前で、ほんとうに「アタマ」を下げた
のなら、パワーを得られるでしょう。それは、「神様」につ
若い子達や、外国人までが神宮に訪れて、「わけも分から
ず」頭を下げる。それは、「わけの分かったもの」がもたら
してくれた事が、決して本質的な幸福ではなかったと、みん
ながうっすらと感じ始めたからかも知れません。
みんなが、そんなにハッキリと意識して、神宮を参るわけ
ではない。でも、その意識の底には「今の在り方は、何かお
かしい」という感覚があるのでは?
「外宮」「内宮」ともに、「正宮」には『お願い事はせ
ず、ただ謙虚な気持ちでお参り下さい』とありました。
ほんとに、ただアタマを下げるだけなのです。
日本中に数知れないほど「神社」がありますが、その多く
は ”御利益” を謳います。ところが「神宮」は、御利益を求
めてはいけない。ただ、奉るだけ。
『日本書紀』には、「神宮」のことが書かれているわけで
すが、実質的には「なにか分からない」まま、日本人は「神
宮」を守り続けて来たのです。
「なにか分からない」ものに、ただただ頭を下げることを
二千年も続けて来た・・。これはもの凄い事だと思います。
そして、日本人の智慧だと思います。
「思い上がっちゃいけないよ」と。
(私は、特に “ナショナリスト” じゃないですよ。念のた
め)
2017年6月30日金曜日
みんなちがって みんないい ?
さんの有名な詩の一節ですよね。
ひとつひとつの命が、比較を越えたところにある、絶対の
存在だということで、私もそれに対して異論はありません。
まど・みちおさんの詩も、同じ様な思いが貫かれています。
ですが、ほんとに「みんなちがって みんないい」のか?
この言葉を初めて聞いた時から、ほんのわずかな違和感が
どうしてもぬぐえずに来ました。今日は、それを考えてみよ
うと思います。
私が引っかかってしまうのは、「みんないい」という部分
です。
“存在” として「みんなちがって みんないい」は、OKな
んです。しかし、人間として「みんな」に対した時に、果た
して「みんないい」という思いに落ち着けるのか?
人間の中には、冷酷な者や狡猾な者や、邪悪としか呼べな
い様な者が実際にいます。そのような者に、自分の尊厳を損
なわれる立場に陥ってしまった時、「みんないい」という自
分を持ち続けられるのか?
人間以外でも、怖い病気を運ぶ生き物や、危険な生き物に
対して、「みんないい」と肯定できるのか?
そこのところの消息を明らかにしなければ、「みんなちが
って みんないい」と、私は言う事ができない。
蚊が飛んできたら、「ぱちん!」と叩き潰してしまいま
す。
育てている野菜を食い荒らす虫を見つけたら、つまみ獲っ
て殺してしまいます。
さらに極端な話、もしも、私が誰かに殺されそうになった
としたら?
もしも、私の家族が誰かに殺されそうになったとしたら?
「みんないい」などと思っている場合じゃない。
自分や家族を守る為に、相手を殺すしか手段がないのな
ら、私は殺すでしょう。
私は〈暴力〉を否定します。
自分が〈暴力〉を振るうこと、自分に〈暴力〉が振るわれ
ることを否定します。
それが、「肉体的な」暴力でも、「精神的な」暴力であっ
ても同じです。〈暴力〉は阻止します。その為の方法が、相
手を殺すしか残っていないのなら、相手を殺します。それ
は、〈暴力〉を阻止する手段であって、〈暴力〉では無いと
思うからです・・。本当にそれしか残っていないのであれ
ば・・・。
その時、私が否定するのは〈暴力〉です。
私を殺そうとする「相手」ではありません。〈暴力〉という
「行為」です。
〈暴力〉という「行為」を、阻止しょうとした結果、相手
が死ぬことになるというだけです。相手を否定したわけでは
ありません。相手に〈暴力〉を振るうわけではありません。
詭弁でしょうか?
しかし、この様に考えれば、例え自分の尊厳が損なわれよ
うとする時にも、「みんないい」が可能です。
否定されるのは、「行為」か「その行為を生む思考」であ
って、その「存在自体」ではないからです。
「罪を憎んで、人を憎まず」と言いますね。
「罪を犯させないために、罪を償わせるために、相手を殺
すしかない」。でも、相手の「存在自体」は憎まない。否定
しない。それは、可能だと思います。(私が実際にそう出来
るかどうかは、別にして・・)
「罪を憎んで、人を憎まず」というのは、「なんでもかん
でも人を許せ。無罪放免にしろ」ということでは無いですよ
ね。「罪」は「罪」ですから。(単純に「法律上の罪」とい
う事ではないですよ)
「罪を償わせる」為には、その「罪」を犯した「存在自
体」に働きかけざるを得ません。
その「存在自体」は許せても、そうするしかありません。
その為、見かけ上は「人を罰する」「人の行為を制限する」
ことになります。でも、その「存在自体」は許します。
『みんないい』です。
なぜ、罪を犯しても「存在自体」は許すのか?「いい」の
か?
《 誰も、罪を犯すつもりで
生まれて来るわけじゃない 》
と思うからです。
「よーし!今度生まれたら、空き巣に入って、金や宝石を
盗みまくるぞー!」とか、「生まれたら、テロリストか連続
殺人犯になって、何十人も殺すぞ!」とか思って生まれて来
る人はいません。いると思いますか? そんな運命を望む人
間がいると思いますか? いるはずありませんよ。
生まれて来てみたら、自分の持って生まれた資質と、自分
を取り巻く状況によって、止むに止まれず罪を犯してしまう
のです。罪を犯したら、償うしか仕方がありませんが、「存
在自体」に罪は無いのです。罪を犯さない様にすることは出
来ないのです。
親鸞聖人が、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人を
や」と説いたのは、「“罪を犯す定めに生まれた人間の(魂
の)苦しみ” を阿弥陀仏が知らぬわけがない。だから、悪人
こそ救うのだ」と確信していたからでしょう。
「みんなちがって、みんないい」
親鸞聖人もそう言うでしょう。
金子みすずさんのピュアな言葉や、まど・みちおさんのあ
たたかいマナザシから始まった話が、とんでもなく重たい話
になってしまいました。でもこれで、私も「みんなちがって
みんないい」と言う事が出来ます。でも、厳密には少し表現
を変えたいのです。
「みんなちがって みんな・そのものはいい」
これじゃぁ、詩にはなりませんけどね。
《 人も、どんな生き物も、木も、草も、石ころも、
雨粒も、なにもかも、みんなそれぞれ、そこに、
そのままに、ある。
ただ、それらの〈動き〉だけが、人をして
苦悩させ、歓喜させ、狂気させ、嫌悪させ・・・
絶望させる・・・。
それは、人が離れるべきものであると同時に、
静かに抱き締められることを待っているのだろう 》
苦も、楽も、怒りも、喜びも、悲しみも、恐れも、「自
分」という “あるがまま” の中に、抱き止めて、溶かし去っ
てしまえたら・・・・。
(最後は、けっこう “詩” になっちゃいましたね)
2017年6月28日水曜日
まど・みちおさん と げんばく
が、以前はテントやシュラフを担いで、キャンプにもよく出
かけました。
荷物を全部自分で担ぐ、という事をやっていると、ムダな
物は持って行く気にはなれません。「ムダな物は、ムダにエ
ネルギーを消費するだけだ」ということが、文字通り骨身に
滲みるからです。ですから、「出来るだけ軽く、かつ快適
に、けれど最低限の楽しみは残して」という考え方に、自然
と成ります。今どきの言い方をすれば、「断捨離」ですね。
「自分の力だけで、自分に必要な物を運んで行く」
例え2~3日分の物でも、衣・食・住を自分で担ぐのです
から、そういう行為は、「等身大の自分」というものに気付
かせてくれます。
自分に出来ることは、どの程度か?
自分に本当に必要な物は何か?
そういう経験を何度も繰り返していると、「一日を気分良
く暮らす為に、大した物は必要じゃない」ということが分か
ってきます。ほんとに良い経験でした。
何も「“禁欲主義” に身を投じる」とか、「清貧」とかい
ったことではなくて、「本来的に、大した物は要らないん
だ」ということが分かるんですね。(それで仙人の様に暮ら
せるわけではないんですけどね)
そうした事を続けているうちに、「物を持つことは
〈悪〉」みたいな考えになっていたんですけど、ある時、詩
人の まど・みちお さんのことを知って、「いわずにおれな
い」(集英社 be文庫)という本を買ったんです。その中の
「ものたちと」という詩の中に、こういう言葉がありまし
た。
たとえすべてのひとから みはなされた
ひとがいても そのひとに
こころやさしい ぬのきれが一まい
よりそっていないとは しんじにくい
これを読んだ瞬間、私はしばらく固まってしまいました。
「ほんとだよ・・、そうだよ・・・」と思って。
人間の “心” や “身体” の事ばかり考える方に偏って、
「“物” は必要悪」といった 具合に捉えていたのですが、自
分の浅はかさを識らされたのでした。
“物” が無ければ人は生きて行けない。「石器時代」でさ
え、“石器” を使っていたわけですから・・・。
“物” 無しで、人が幸福を得ることができるか?
ムリでしょうね。
縄文人が、「火焔型土器」や「土偶」を作った時、そこに
は人間だけが得ることの出来る、“創造の喜び” があったで
しょう。そうでなければ、あんな余計な装飾を施しません。
《過剰は悪》と書いたりしていますが、「火焔型土器」の
過剰は決して〈悪〉ではない。“人間であることの喜び”でし
ょう。
人は、自分がクリエイティブであることに、喜びを感じる
と思います。何かを作り出せることに喜びを感じます。
それは、芸術作品や音楽や文学などだけではなく、DIYや
日常の料理や、物作りの仕事でも感じられます。さらに、ク
リエイティブとは無縁に思われる、掃除などでも感じられま
す。
「“掃除” がクリエイティブ?」
そう思われるかも知れませんね。
でも、“掃除” もクリエイティブです。なぜなら、私は
《 クリエイティブとは、
美しい状態を作り出せることである 》
と定義しているからです。
どんなに凄い物を作り出したとしても、それが「美しい状
態」を作り出せなければ、クリエイティブではありません。
何を以て ”美しい” とするかは決められませんが、「原
爆」を “美しい” とする人は居ないでしょう。もし居れ
ば、“狂人” とされても仕方がないですね。「原爆」は醜
悪で、クリエイティブの対極にある物です。(しかし、私
は原爆の「キノコ雲」や巨大な「火球」の映像には、美しさ
を感じてしまいます。そこに、自然法則が強烈に発現してい
るからです)
何故「原爆」は ”醜悪” で “クリエイティブの対極” なん
でしょうか?
「とてつもない恐怖」であるから、ということは間違いな
いですが、もうひとつには人間の「等身大の感覚」から遥か
にかけ離れているからです。「見えない」「感じられない」
領域にある物だからです。
“物” は生身の人間にとっては、“過剰” ですが、それが
「等身大」(個人が自分の力で作り出せるレベル)の範囲で
それを越えれば越えるほど、“物” は人から離れ、離れる
ほどに “不可解”な “不気味”な、 時として “醜悪“な、そし
て最後には “恐ろしい”物になる。
「原爆」を〈悪〉としても、まず批判を受けないでしょう
が(「まず」ですが)、「スーパーコンピューター」はどう
でしょう? テクノロジーの最先端ですが〈悪〉でしょう
か? 異論がでるでしょうね。でも、普通のひとにとっては
(もしかすると専門家にとっても・・)、やはり “不可解”
で “得体の知れない” 物です。人間が制御し切れるのか?
人間の歴史の結果として、今の高度なテクノロジーと、そ
れによってもたらされた様々な “物”。それを今さら否定し
ても仕方がない、でも、“人が「等身大」で生み出す喜び ”
が「クリエイティビティ」の基礎になければ、その先には大
きな不幸が待っている様に思うのです。
たとえばすべてのひとから みはなされた
ひとがいて そのひとに
こころやさしい すーぱーこんぴゅーたーが いちだい
よりそっているとは しんじにくい ( かな?)