2017年8月19日土曜日

意識について Ⅳ


 意識についてもう一つ。いちばん肝心なことを。



 「私は、ほんとうに存在しているのだろうか?」



 前にも、『荘子』の中にある「胡蝶の夢」の話を引き合い

に出しましたが、「今、ここで、こうしている “私” は本当

に “私” なんだろうか?」「 “私” とはいったい何だ?」。



 「胡蝶の夢」をあらためて説明しておきます。


 ある日、荘子は自分が蝶になった夢を見て、目が覚めた。

 目覚めた荘子は、思った。

 「今、自分は荘子だと思っているけれど

  もしかしたら、これは蝶が荘子の夢を見ているのかも

  知れないぞ」


 という話ですが、これは論理的には否定し切れないんです

ね。

 わたしたちは、〈意識〉で自分を自分だと認識しているわ

けですが、その〈意識〉が自分のものだということは証明で

きない。

 もしかしたら、今このブログを見ていると思っているあ

なたは、2056年のフランスの病院で、昏睡状態のまま何年

も眠り続けている私かも知れないですからね。

 こんな冗談も、あらためて考えてみると「無い」とは言い

切れなくて、すこしばかり変な気分になりますよね。

 “わたし” とは、何でしょう?

 何故、“わたし” がある(と思う)のでしょう? 

 “わたし” は本当に “ある” のでしょうか?



 “わたし” というのは、前回書いた様に “〈宇宙の意識〉

の拍動” といったものです。その “わたし” は本当に “ある”

のでしょうか? どうして、 “ある” と思うのでしょうか?


 「我思う、故に我あり」と言われれば、なるほど「そう」

でしょう。でも同時に、「“我” と思う故に、“我” 疑わし」

と言えるかも知れません。


 私は男ですが、普通は男であることを意識しません。

 だって男なんですから、そんな当たり前の事実をいちいち

考えたりしません。

 ところが、わたしたちは「わたしであること」をしょっち

ゅう意識しています。「わたしは!わたしは!」と事あるご

とに言いつのったりして、“わたし” を立てようとおおわら

わです。先日も引退レースで足を痛めて、途中棄権したウサ

イン・ボルトが、「私は今まで何度も、自分自身を証明して

きた」とインタビューに答えたそうですが、何故わたしたち

は「わたし!わたし!」と “わたし” にこだわるのか?

 “わたし” が怪しいから、殊更「わたし」と言わなければ

ならないんじゃないの? “わたし” が紛れもなく “ある” の

なら、何も言う必要はないだろうし、“わたし” を見せつけ

たりする必要もないでしょう。“わたし” って、ものすごく

危ういものなんじゃないんでしょうか?

 でもまぁ、わたしを “わたし” と思っている〈意識〉があ

ることは確かですね。〈意識〉が無かったら・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・少なくとも、私やあなたにとって「世界」は無い。


 ですから、わたしが “わたし” と思える、「母体」となる

〈意識〉は間違いなく存在するといえますね。

 (そんな当たり前のことを、わざわざ言わなくてもよさそ

うなもんですが、こうしながら私は、 “わたし” という個人

持ちの〈意識〉を、〈宇宙の意識〉の一部に “降格”    

“わたし” から見れば   させているんです)


 わたしたちは、当然ながら自分の目で見て、自分の耳で聞

いて、自分の手で触れて、でしか世界を感じられません。私

があなたの目で世界を見たりする事は出来ませんから、どう

しても自分が世界の中心だと感じてしまいがちです。それ

が、わたしたちの “バカ” のはじまりです。なにせ、“わた

し” はとっても危うい存在ですからね。(控えめに言ってま

す)


 “わたし” は世界の中心ではありません。

 こんなあやふやな物が、世界の中心であるわけがありませ

ん。はっきり言って、“わたし” は脳の生み出した “お話” に

過ぎません。“わたし”、 を生み出した脳と、それが収まっ

ている身体は(今のところ)存在していますが、“わたし” 

という “真実” は存在していない。


 “わたし”とは、〈世界〉と〈意識〉の間にギャップが生ま

れたために、脳が苦し紛れに作り出した「仮想世界の住人」

に過ぎません。それは、〈世界〉と〈意識〉の間のギャップ

が埋まったら、廃棄されるべき物です。ところが、“わた

し” がいつまでも居座る為に、いつまで経っても〈世界〉と

のギャップが埋まりません。必要にせまられて脳が生み出し

た “わたし” でしたが、それに頼っているうちに、自分より

大きな存在になってしまつて、振り回されているんです。

 それはまるで、「起業する時に頼った友人が、気付いたら

経営者然として会社を牛耳っている」ようなものですね。

 「これは・・・、一体・・誰の会社なの・・・・・」


 そのような状況ですから、

 「わたしは、何の為にここにいるの?」

 「わたしは、誰なの?」

 「わたしは、何?」

 という思いが湧きあがって来るのは、当然ですね。

 (「牛耳っている」“わたし” も、「わたしは、何?」と

嘆く “わたし” も、実はどちらも同じ “わたし” なのがメン

ドウなところですが)


 “わたし” を廃棄しない限り、わたしたちに「安らぎ(し

あわせ)」は訪れません。


 《 アタマが悪さをする事を「アタマが悪い」と言う 》

わけですが、「アタマ」が犯した、最初で最大の「悪さ」が

“わたし”(エゴ)を生み出した事です。

 まあ、致し方ないわけではあるのです。人類誕生以来、

“わたし” によって生き続ける事が出来たというのは間違い

無いでしょうから。でも、その数万倍 “わたし” によって地

獄を創り出して来たことは確かです。もうそろそろ「大人に

なったら、“わたし" を処分する」というかたちを、“人間の

生き方” として普遍化させなければならないのでは? 

(どうやって普遍化させたらいいのか知りませんが。ハハ

ハ。)


 ウサイン・ボルトは「自分を証明して来た」と言う。

 その「自分」は 、“証明する必要があった「自分」” です

ね。でも、それ以前から “証明する必要のない「自分」” が

在ったはずなんです。在るはずなんです。

 その「自分」は何処へ行った?

 トラックのスタートラインに、置き去りになったのでは?

 ジャマイカの道端で帰りを待っているのかも知れません。

 ボルトが “ウサイン・ボルト” になった事は、それでイ

イ。しかし、「自分」を置き去りのままにしていては、「自

分」が可哀相だろう・・・。


 彼の「自分」は何処に居る?・・・・・・。

 私の「自分」は何処に居る?・・・・・・。

 あなたの「自分」は何処に居る?・・・・。


 「自分」は何処にも居ない。


 そして、〈自分〉は「自分」(の世界)の外に居る。







2017年8月15日火曜日

意識について Ⅲ

 
 〈意識〉は何の為にあるのか?


 よくまあ、こんな大それたことを書こうとするもんです。

われながら、大胆で無神経で恥知らずだなぁ、と関心してい


ます。別に守る物はありませんからね。こんなことも書けち

ゃいます。

 では、始めましょう。


 〈意識〉の中の、「思考」と「情緒」については、前回ま


でに書いた事で、「何の為に」という説明にもなっています

から、それで良しとしておいて、「命」について考えます。


 「命」は、「思考」「情緒」の外側に広がっているもの


で、“宇宙全体の生命の自律性” といったものです。〈宇宙

全体の意識〉と呼んでいいのだと思います。

 その中で、個々の生命の持つ〈意識〉は “〈宇宙全体の意


識〉の拍動” の様なものです。


 話が大層で観念的だと思われるでしょうから、“科学っぽ


く” 説明してみますね。




 わたしたちの〈意識〉は、脳を中心とした神経ネットワー

クの中に生まれ、活動しています。

 〈意識〉が活動する為には、五感や身体の内部からの情報


(刺激)がなければなりません。情報が神経系に入って来な

ければ〈意識〉の活動は起こらないでしょうし、「〈意識〉

が在る」必要がありません。

 「何も起こらなければ、〈意識〉はする事が無い」

 何も入力されなければ、パソコンの画面は止まったままで


すよね。わたしたちの〈意識〉も同じです。五感と身体の中

からの情報が入って来て初めて、〈意識〉が生まれます。

 私が考えてみてもらいたいのは、“五感” と “身体” から入


って来る情報の事なんです。

 わたしたちは “五感” で、光・音・温度・味・匂い・圧

力・湿度などを感じて、「暑い」とか「くさい」とか「痛

い」とか意識を持つわけですね。そして “身体” の中から

も、いろいろな情報が伝えられて、「胃が痛い」とか「頭が

痛い」とか「腹が減った」という様な意識を持ちますが、こ

の“身体” の中からの情報も、実は外界からの入力が時間差

で違う形に変換されたものです。

 「スマホを見すぎて、首が凝った」→「頭がいたい」

 「半日、何も口にしていない」→「腹が減った」

 「車の排ガスを吸い過ぎた」→「肺ガンになった」

と、いったことです。

 ですから、〈意識〉に入って来る情報は、結局 “身体” の


外からやって来るんですね。

 情報というのは、わたしたちの “身体” を刺激することで

しかもたらされませんが、例えば「風が頬をなでる」といっ

た時に、「風」という物理的な刺激が、「頬」に触れた瞬間

に電気パルスとなって脳へ伝えられます。この時、わたした

ちは「自分」と「風」を切り離して考えているのですが、そ

れはわたしたちが、「“自分” は “自分以外のもの” とは別に

存在している」としか考えていないからに過ぎないんです。

 こんな思考実験をしてみて下さい。


 1.あなたの人差し指を第一関節から切り取ります。

 2.その人差し指を 1m 離れたテーブルの上に置きます。

 3.優秀な外科医とエンジニアに頼んで、人差し指とあなた

  の手の神経にブルートゥースを取り付け、信号が送られ

  るようにします。

 4.外科医に、(もうあなたの身体の一部ではない)人差し

  指を触ってもらいます。


 結果はどうでしょう?

 あなたは、外科医が指に触れた事を感じるはずです。たぶ


ん今の医療技術なら、実際に出来る事でしょうね。

 この時、あなたの身体と人差し指は、もう別のものです


が、情報が伝わってきたために、一体感を感じてしまいま

す。「わたしの人差し指だ」と。

 であれば、わたしたちが外界から受けるどんな刺激も、


「自分の一部だ」と感じられるのではないでしょうか?  

電気パルスという形式ではないというだけです。

 そう考えると「わたしたちの身体と世界は、ひとつに繋が


っている」と言っても、あながちおかしな話とはいえない。

 この宇宙全体が、物質と磁場・引力などで複雑に繋がり合

っています。その無限のネットワーク全体が、〈生命〉であ

り〈意識〉であると言ってよいのではないでしょうか。 

(あなたと私も、空気やインターネットやなんやかんやで繋


がっている一つの存在ですね。「気持ち悪い?」。無理もな

いですが・・・)


 「自分の身体と世界を繋がったものと看る」という処理プ


ログラムを、わたしたちは普通採用していないので意識でき

ない、というだけで、「自分と世界は繋がった一体のもので

ある」というのが、真実なんではなかろうか?


 実のところ私は、「自分と宇宙がひとつになった」感覚を


持ったことがあります。

 随分前の話ですが、ある日、通勤途中に、木立の間に見え


隠れする朝日を見ながら歩いていました。すると突然、意識

が停止したようになって、自分の身体が宇宙いっぱいに広が

ったような感覚になったんです。ほんの2~3秒でしたが、

普段、自分の身体を「自分」だと感じている様に、世界全体

を「自分」だと感じたんです。そして、涙が出て来ました。

嬉しくも悲しくもないのに・・・。(朝日がまぶしかっただ

けかも知れませんが)

 脳科学者のジルボルト テイラーさんが、脳卒中を起こし

た時に感じたのと同じ感覚だろうと思います。

 私の場合は、木立の間から射す “朝日の光による断続的な


刺激” によって、脳の言語野などの、論理的処理を行う部分

の活動が一時的に止まってしまったのでしょう。

 これは、「論理的に考えられなくなった為に、妄想が生ま


れた」のではなくて、「普段、論理的思考によってさえぎら

れている感覚が、意識された」と考える方が素直だと思いま

す。

 わたしたちは “個体としての自分” と “世界” を、からだ


の表面で区分けし、言葉を使って「思考」する為に、「命」

を感じることが出来なくなっているのです。けれど、その意

識が無くなってしまえば、自分と世界の区別は無い。


 ということで、「自分(個体)と、世界(宇宙)は一体」


ということになりました。ですから、私やあなたに〈意識〉

が在るという事は、〈宇宙全体〉にも〈意識〉が在るという

ことになります。それを逆に言えば、わたしたちの〈意識〉

は “宇宙全体の意識の一部” ですね。

 宇宙自体が〈意識〉を持っています。「何の為に?」

 そんなこと知りませんよ。わかりませんよ。

 分かる訳がない。


 でも、こう思うことにしています。

 《 わたしたちが〈意識〉を持っているのは

   「存在する」という至福を感じる為だろう 》


 そうでもなければ、何の為に〈意識〉なんか持つ必要があ


るでしょう。

 ロクでもない事が次から次へと起り、嬉しい事や楽しい事

も、あっという間に過ぎ去ってしまう。

 確かな事は、「自分(意識)は、今、ここに存在してい


る」という事だけ。

 そして、「自分と世界が一体」ならば、死んだとしても、


それは “〈存在〉の形式の変化” に過ぎない。

 だったら、いつでもどこでも「しあわせ」でいなければ、


〈意識〉を持っていることに何の価値が有るでしょう?

 
 屁理屈でも、やせ我慢でも、ヤケクソでもいい。

 本当は、根深い妄想かも知れない。それでも
 

 「今、ここに在ることがしあわせだ!」

 そう、言ってしまいたい。

 そう言ってしまおう!


 《 宇宙の始まりから終わりまで

           何もかもがしあわせだ 》



 〈意識〉の中で、「アタマ(思考)」に惑わされず、


「命」と感じ合い、しあわせで在ること。

 それが、人として在ることの真の “価値” ではないんだろ


うか。



   

2017年8月12日土曜日

意識について Ⅱ


 前回、〈意識〉についていろいろ書いている内に、何を書

こうとしていたのか忘れてしまいました。最初に言おうとし

た本題が何処かへいってしまったのです。で、前のブログを

読み返してみて思い出しました。「意識の不思議」について

書きたかったのです。では、意識の不思議について・・。


 〈意識〉ほど不思議なものはありません。

 不思議でしょ? 

   そんなこと別に考えませんか? 

 考える事があるはずです。そういう事を考えない人は、こ

んなブログなんか、バカバカしくて見たりしませんからね。

 〈意識〉ほど不思議なものはありません。

 なにが不思議か? 

 何故〈意識〉があるのか? 何の為にあるのか? というこ

とが根本的な “不思議” です。


 〈意識〉が生まれたメカニズム。

 〈意識〉が存在する意義。 

 というものは、誰にもわかりません。せいぜい自分の気の

済む様な理由を考えて(あるいは誰かに考えてもらって)、

一応「それで良し」とするだけです  たいがい “神” が出

て来てしまいますね。


 「不思議」という言葉は、「考えが及ばない」ことですか

ら、考えるだけムダみたいですけど、「考えに考えて、答え

が出ない」(というより、答えが無い!)作業は、〈意識〉

の在り方に今までとは違った部分が出来てくるので、全然ム

ダではなく、「社会の役に立つ」様なことを考えるより、ず

っとマシです。〈禅の公案〉みたいなものですね。

 では、何故〈意識〉はあるのか? 〈意識〉は何の為にあ

るのか? を考えてみます。


 〈意識〉が生まれたメカニズムは、もちろん分かりません

が、 ひとつ確かなのは、人間の本能は壊れていて(不完全

で)、そのままでは生きて行けないので、〈意識〉で補うこ

とで環境に適応しなければならないということです。以前に

も書いたことが有りますが、“感覚的” にも “言語的” にも、

学習に依存しなければならない部分が非常に多い。その必要

にせまられて〈意識〉が生まれたのだと思います。

 もし〈意識〉を生み出せていなければ、現生人類は滅び去

っていたかも知れません。


 〈意識〉の中で、「思考」の部分が何故生まれたかについ

ては、前回書きましたから省略するとして、「情緒」の部分

はどうか?

 もともと「情緒」は、「危険」を“不快”とし、 「安全」

を “快” としてラべリングすることで 、生存率を高めるため

にあるものでしょう。そこに「思考」が加わったことで、喜

び、怒り、悲しみといった「抽象的な危険・安全」に対して

もラべリングし、細分化するようになって、今のわたしたち

の「情緒」となったでしょう。

 では〈意識〉の中の「命」は何故生まれたか?


 そもそも私が今回「命」と呼んでいるものは、適当な表現

を思いつかないので、仮に「命」と言っているわけですが、

これを「心」とか「魂」とか「本能」とか言っても、まぁ良

いわけです。でもそれじゃあ何かしっくり来ないので「命」

としました。ここで言う「命」とは、個体の生命に止まら

ず、宇宙全体の生命活動が持っている “自律性” というよう

なものです。(言葉に出来ないので、苦し紛れに “自律性”

ということにしましたが、・・・分かってもらえる自信があ

りません)


 わたしたち人間も他の生き物も、あらゆる物質の循環の中

にあります。私の身体にも、あなたの身体にもあらゆる元素

が含まれていて、それらはキャベツやトマトや、魚や豚や鶏

や鉄のフライパンなど、さまざまなものを巡ってわたしたち

の身体に固定されます。さらに、わたしたちの排泄物や剥が

れ落ちた皮膚などは他の生物に取り込まれ、生命の循環の中

を動いて行きます。

 生物だけにとどまらず、あらゆる物が生命活動で繋がって

いますから、〈個体〉ごとに生命を切って考えることは、不

幸なことじゃないかと思います。

 わたしたちひとりひとりの「生きよう」とする衝動は、生

命全体の自律性の顕れであって、わたしたちの「命」は〈全

生命〉の拍動のようなものだろうと思うのです。(分かり難

いなぁ・・・仕方ないけど)


 で、何が言いたいかというと、〈意識〉の中の「命」は個

人のものではないと・・。

 もともと生命全体にあるもので、生物の個体になったら自

ずとセットになって来るものだ、ということを言いたいんで

す。わたしたち一人一人が生まれる時に、〈宇宙全体の意

識〉の一部が、個体によって仮に区切られるのだと。

 わたしたちが生まれた時に「命」が生まれるのではなく、

もともとあるのだと。では、いつから?

 宇宙の始めからです。 

 



 「何故〈意識〉が生まれたか?」 についてはこれで止め

ておきます。これ以上は考えようがありませんからね。

 答えは出ていませんが、始めから「答えが無い」のは分っ

ている事です。答えを求めているのではなくて、「考えてみ

る」ことで、今までとは違う立ち位置に立とうとしているの

です。「アタマ」から「命」の方へ。



 「〈意識〉は何の為にあるのか? 」については、次回。



(今回書いている途中で、「抽象的な危険」という言葉が生

まれました。誰かが使っていたりするかも知れませんが、こ

ういうキーワードが生まれて来て、考えが整理しやすくなる

のが物を書く喜びなんだよね。

 近いうちに「抽象的な危険」で、ブログを一本書きましょ

う。)

2017年8月10日木曜日

意識について Ⅰ


 毎回、口から出まかせを書いては、ひとりで喜んでいるわ


けですが、今回は、私のこの喜んでいる 〈意識〉 について

考えてみます。

 自分では、「ついにこの話に手を出す事になったか・・」

という感じです。これを書いちゃうと “最終回” という感じ

になるくらいの大命題ですからね。

 人類にとって、“生命の誕生” と “人間の意識” ほど不思議

なものはありません。

 どちらも、「何故生まれたか?」という問いに対して、誰

一人として納得のゆく答えを出した者はいませんし、「生命

とは何か?」、「意識とは何か?」ということに対しても、

最終的な答えは出ていません(出る可能性もありません)。

そんなことにちょっとばかりとはいえ手を出そうとしている

のですから、身の程知らずも極まっています。(「ただの

人」だから、平気で “身の程知らず” が出来るわけですが)

 と、予防線を張ったところで、〈意識〉 の話です。


 何が不思議と言って〈意識〉 ほど不思議なものはありま

せん。

 「これは一体なんだ?・・・?」

と毎日思います。


 《 「意識」とは、社会が脳の中に浸潤して来たもの 》

とは、以前書いたんですが、この「意識」は、わたしたち

の 〈意識〉 の表面に在って、普段自分で意識している「意

識」 のことです。

 今回書こうとしているのは、その「意識」と、「意識」を

意識している “意識” に加えて、言葉を使わない〔 意識 〕

の三つをまとめた 〈意識〉 についてです。


 まずは、〈意識〉の在り方を整理します。


 「意識」=言葉を使い、日々の出来事を認識して統御し、

      論理的な判断を下す、社会的なパート。


  “意識” =言葉を使い、「意識」の判断に対して情緒的

      な重み付けをする、個人的なパート。 


 〔意識〕=言葉を使わず、自身と環境を感覚で認識して

      いる、生命のパート。


 〈意識〉=上記の三つを合わせた、意識の全体。


 これが、私の考える〈意識〉ですが、分かり難いので、

 「意識」=「思考」

  “意識” =「情緒」

 〔意識〕=「命」

 と(一応)しておきましょう。


 普段のわたしたちの感覚だと、「思考」が世界そのものの

様に大きくて、その中に「情緒」があり、さらにその中に

「命」がある(ようだ)、という感じだと思います。です

が、本当はこの逆だと考えた方が良いでしょう。

 「思考」を、少し大きめの 「情緒」 が取り囲んでいて、

その周りに、世界そのものの「命」が拡がっているのだと。


 ここで、わたしたちにとって要となるのは、「情緒」で

す。「情緒」は、今生きているわたしたち “個人” そのもの

で、通常はこれを起点にわたしたちの意識活動が行われてい

ます。


 「情緒」の周縁部にはワーキングメモリがあって、入って

来る情報をそこで処理しているようです。

 わたしたち人間は、情報の多くを〈言葉〉で処理する様に

なっています。たぶん農耕を始めた頃から “文化・文明” が

急速に発展し、ワーキングメモリで処理する情報の大部分

が、「社会」からものになっていった為でしょう。

 それ以前は、日々を生きる為には五感で捉える情報の方が

重要であって、〈言葉〉は「五感で捉える情報」を仲間同士

で受け渡す為のツール、あるいは “神” や “精霊” と交信す

るためのものであり、「社会」というものの形は今よりもず

っと曖昧で、〈言葉〉はまだ「道具」という域を出ていなか

っただろうと想像します。

 人が農耕を始めたことで人口は増え、優良な耕作地に人が

密集し、「社会」が大きな意味と力を持ち始めた。沢山の人

が密集して暮らす為、そこにはおのずと複雑な約束事が生ま

れた事でしょう。

 そして、その約束事が、生きて行く上で重要な課題となっ

て来たため、人のワーキングメモリに載せられる情報の多く

を〈言葉〉が占める様になり、その傾向は文明の発展ととも

に進み、いつしかわたしたちの〈意識〉は「思考」でいっぱ

いになってしまったのでしょう。〈言葉〉によって作られ動

かされて行く「社会」が、「情緒」にとって何よりも大きな

存在と成り、「社会」がまるで “世界” そのものの様になっ

てしまったのだと思います。

 
 人類が誕生して数百万年。〈言葉〉を持たない時から、人

は「五感からの情報」に頼って生きて来ました。今、わたし

たちが存在しているということは、〈言葉〉を使わずとも人

間は “生きて来られた” ということです。

 当時の、「情緒」の周りのワーキングメモリに載って来る

情報は、目・耳・鼻・口・皮膚から入って来る “即物的” な

ものだけで、それは自分を取り巻いている “環境” からのも

のと、自分の身体の中から発されるものだけです。これらの

情報に対して、わたしたちの先祖は本能的な(本能ではな

い!)対応をしていたでしょう。

 「蚊に喰われたら、そこを掻く」

 「蛇を見たら、後ずさりして警戒する」

 「果物を見つけたら、口に入れる」

 「疲れたら、休む」

 そういった行動が、生きて行くことのすべてで、怖れ・怒

り・悲しみといったものもあったでしょうが、それらは短時

間で過ぎ去る物だったでしょうね。

 その頃の人間の〈意識〉は、「情緒」と「命」だけで出来

ていた。仲間同士の意思の疎通は、勘や雰囲気で行われてい

たことでしょう。ところがある時、そこに〈言葉〉とともに

「思考」 が生まれた。何故か? これは永遠に分からない事

でしょうが、私はたぶん、人が「自分もいつか死ぬ」と気付

いたからだとみています。

 大脳の容量があるレベルを超えた頃、ある日ひとりの仲間

が死んだ。それを目の当たりにしたひとりが、「自分もいつ

か死ぬ」ことに気が付いてしまった。それは、人が初めて

“個体” というものに気付いた瞬間でもあった。“個体” それ

ぞれに、一人々々それぞれに「死」は訪れ、この世界から居

なくなる・・・。

 底知れない不安・恐怖・絶望が頭のなかに膨れ上がり、狂

い死にしそうになった瞬間、その不安・恐怖・絶望を位置付

け、コントロールする為に、脳は〈言葉〉を生み出し、「思

考」し始めたのではないか? そして、その不安や恐怖を一

人で抱え続けることには耐えられないので、他の仲間に伝え

ようとしたのでしょう。仲間たちの脳容量も、同じように十

分なレベルであったため、程なくして〈言葉〉というものは

拡がって行ったのでしょう。

 もちろん、これは私の想像でしかなく、何の根拠もありま

せんが、そういうシナリオが有りうるんじゃないかなと思っ

ているんです。

 そうやって、「思考」(知恵)というものを持ってしまっ

た人間は、不安と恐怖に支配される様になった。アダムとイ

ブが「知恵の実」を食べて、楽園から追放された様に・・。

 〈言葉〉を持って以来、不安と恐怖をコントロールする為

に、〈言葉〉を使って様々な思考体系を作り出し、社会を統

御し、宗教を生み出し、哲学し、科学し、思想を持ち、なん

とか、やがては死んでしまう “自分” というものの虚しさを

消そうとして来たのでしょう。

 「情緒」と「命」だけの時には無かった抽象的な恐怖は、

〈言葉〉によって生まれ、不完全ながら〈言葉〉によってコ

ントロールされて来ました。〈言葉〉は「両刃の剣」です。

 〈言葉〉を持たない時代の人間は、しあわせだったことで

しょう。ただし、それは「知らない事による “しあわせ”」

であって、「しあわせであることを知らない」ということで

もあります。〈言葉〉を持ったわたしたちは、「知ったこと

によって不幸になった」のですが、「不幸(恐怖)」の本質

を見極めることが出来れば、「自分がしあわせであることを

知る」ことが出来るのだと思います。

 
 「社会」を持ち、膨張し続けた「思考」は個人が対応出来

るレベルを遥かに超え、「情緒」は「思考」に掛かりっきり

になってしまい、まるで「思考」が世界のすべてだと感じる

様になってしまった。

 「命」は、〈意識〉の片隅に追いやられ、普段はほとんど

顧みられることが無い。

 「情緒」は、「思考」から廻ってくる情報に “快・不快”

“喜び・悲しみ・怒り" などのレッテル貼りをする事に忙殺

され、時折「命」の側から上がって来る情報も、いったん

「思考」の中に廻してから処理する癖がついている。

 「身体の具合が悪い」→「休む」 ではなく、

 「身体の具合が悪い」→「仕事が有る」→「休めない」

といった具合に。  
 

 そんな〈意識〉の中の「思考」優先の在り方が、人間に何

をもたらして来たかは、今までに何度となく書いてきました

から、ここではふれませんが、「思考」優先の〈意識〉は 

“喜び” を生み出すことはあっても、“安らぎ” を生み出すこ

とは出来ません。


 《 人は “喜び” には飽きるが

            “安らぎ” には飽きない 》  


 圧倒的に、「思考」が “世界” だと見做されている現状か

ら、もっと「命」の方へバランスを移して行かなければ、個

人はしあわせになれないままだろうし、人類は自ら滅んでし

まうだろうなと思います。


(次回へつづく)

 

2017年8月8日火曜日

アタマが悪い まとめ Ⅱ


 二度目の「まとめ」です。

 放ったらかしてると自分でわけが分かんなくなって、収拾

がつかなくなっちゃうので。

 さて、面白い言い回しは有ったでしょうか。



 《 すべての生命は風土に殉じ
       すべての存在は時代に殉じる 》

                   「時代に殉ずる」



 《 みんな、止むに止まれず生きている 》

             「止むに止まれぬじんせいよ」



 《 事実は小説より疑なり 》   「真実はいくつ?」



 《 すべての物は勾配によって動く
   温度の勾配、圧力の勾配、重力の勾配・・・
   人の世が動くのは、差別の勾配による 》

                「格差社会を生むもの」



 《 わたしたちは
   自分に満足し、今に満足することを取り戻さなければ
      死ぬまで “経済の捨て駒” で
              いなければいけません 》

              「今のままではいけない?」



 《 人を利用する人間と
   人を攻撃する人間には、なってはならない 》

          「 “道徳” って教育するものなの?」



 《 「できることはできるし
    できないことはできない」
              それだけのことでしょ? 》

                    「愛のムチ?」



 《 アタマが悪さをすることを、アタマが悪いと言う 》

  (前回と重複しますが、「テーマ」としてあらためて)

                   「しっかり歩く」



 《 「生まれて死ぬだけ」仲良くしたら?
                 まずは自分と 》

 《 「人並み外れた努力ができる」ってことが
                才能なんですよ 》

            「努力にまつわる幻想について」


 《 どんな自分であっても、自分を生きるしかない 》

             「生まれ変わったって・・・」



 《 悪とは「自他を損なうこと」
             「自他を利用すること」 》

                「諸悪莫作 衆善奉行」



 《 わたしたちは
   手段と目的を取り違えるのを得意としている 》

 《 世界は無意味です。おあいにくさま。
             そして、おめでとう! 》

                  「無意味な人生?」



 《 人生に意味を求めることに、意味は無い 》

 《 みんなそれぞれ「自分」がある
      それ以上の「価値」はないのです 》

                    「人生の意味」



 《 人にはストーリーが必要であり
   言葉に出来ないことはストーリーに組み込めない 》

 《 言葉は、人間の持病 》

               「自分というストーリー」



 《 異常は日常の中に擬態している 》

                 「やる気スイッチ OFF」



 《 勘ぐりは下衆 》        「勘ぐりは下衆」



 《 クリエイティブとは
        美しい状態を作りだせる事である 》

            「まど みちおさん と げんばく」


 《 誰も、罪を犯すつもりで
           生まれて来るわけじゃない 》

 《 人も、どんな生き物も、木も、草も、石ころも、
      雨粒も、何もかも、
   みんなそれぞれ、そこに、そのままに、ある。
   ただ、それらの〈動き〉だけが、人をして苦悩させ
   歓喜させ、狂気させ、嫌悪させ、絶望させる・・・。
   それは人が離れるべきものであると同時に、
   静かに抱き締められることを待っているのだろう 》

           「みんなちがって、みんないい?」



 《 ちょっと、落ち着いたら? 》

            「思い上がっちゃいけないよ。」


 《 「仕方がない」という言葉を、否定する態度は
   前向きだとも言えますが
   それ以上に、傲慢で強欲という毒を持っています 》

                「九州の大雨に考える」


 《 食物連鎖のピラミッドを立てて考えるから

   ヒエラルキーが生まれる
   これを寝かせて考えなければいけない
   事実、食物連鎖は地球上に
   ほぼ水平に広がっている 》

      「ピラミッドを寝かせてみれば。弱肉強食?」



 《 “身体” にとって “エゴ” は
            とてつもない厄介者です 》

             「フンコロガシにあこがれる」



 《 人間はそれぞれに “いびつ” である
   決まった型に押し込むと、死んでしまう事がある 》

         「ナット キング コールと “不寛容社会” 」



 《 「人は生まれ変わる」なんて考えは “妄想” です
    “妄想” と一緒になっている “魂” は
      「妄想する魂(霊)」、つまり “亡霊” です
   この世の “亡霊” のままでいるのは
           悲しい事だと思いますが・・・ 》

              「亡霊のまま、生きて死ぬ」



 《 私にとっての「輪廻」とは
   「宇宙」という〈ひとつの魂〉の中を
   「自分」という意識が
   無限に「自分」を探していることです
   「愚かだから輪廻する」というより
   「輪廻すること自体が愚か」なんです 》

                  「輪廻という “愚” 」


 《 地獄のほとんどは、「疑い」によって出来ている 》

                 「“疑い” という」地獄」



 《 完璧なんてあると思うな
   もしもあったら、まぐれ当たりだ 》

                「世の中はでっち上げ」


 「まとめ Ⅰ」に較べたら、あんまりパッとしませんね

(「較べるな」って言ってんのに・・・)。

 本文を読まないと理解し難いのが多くなってる様です。

 ブログを書いてる内に、「ふっ」と出てきた言葉が多いか

らでしょうね。

 でも「食物連鎖のピラミッド・・・」とかは気に入ってい

ます。

 どれかひとつでも、あなたのモノの見方を機嫌が良い方に

シフトさせられる言葉があったら、望外のしあわせです。


 

2017年8月7日月曜日

世の中はでっち上げ。


 人は何故疑うか?


 言葉を使うからだと思います。

 言葉は真実を隠します。

 現実を覆って見えなくします。

 生(なま)のものを加工して変えてしまいます。


 言葉で捉えることによって、物事の一部(時には全部)が

隠されたり、削られたりしてしまいます。そのことを、感受

性の強い者は無意識に感じ取り、「腑に落ちない」「納得で

きない」と疑いを持ったりします。感受性の鈍い者であって

も、ひとつひとつの言葉の不具合が組み合わさると、実際的

な問題が出て来るので、「異常(おか)しいんじゃない

か?」と疑いを持ち始めます。


 言葉が “疑い” を生みます。

 言葉によって世界は “疑い” に覆われます。

 さらに人は、“疑い” を取り除こうとするのに言葉を使う

ので、世界はより一層 “疑い” に満ちて行きます。 

 言葉によって “疑い” の満ちた世界には、安住の場所が在

るはずもありません、人はそこから逃れようとしますが、そ

の為に、また言葉を使って策を練るので、事態はひたすら悪

くなって行きます。


 とはいえ、世の中の多数派は言葉の世界にどっぷりと浸か

っているので、言葉が “疑い” を生んでいるなんて思いもし

ません。「疑わしいのは、人だ」と考えています。人をし

て “疑わしい存在” にさせているのは、言葉を使うからだと

は気付きません。


 人は日々幾度となく、何万回となく、言葉の隙間から真実

を見ているのですが、それが真実であることが分からない。

それは逆に無思考の狂気の世界に見える。ほんとは、言葉の

世界の方が狂気の世界なんですが・・・。


 人は言葉を離れることによってのみ、真実を捉えることが

できます。

 ですが、短い時間ならともかく、四六時中言葉から離れて

いては私たちは生きて行けません。

 ですから、やはり言葉を「信じない」という身構えで生き

るしかないのかなと。

 「信じない」では、何も立ち行かなくなるでしょうから、

「怪しむ」「そういうことにしておく」と言った方が良いで

しょうか。言葉はすべて方便であって、「間に合わせ」でし

かない。


 「結局、疑ってるんじゃないか! “疑い” から自由になっ

ていないじゃないか!」


 そうですね。疑ってるようにも見えますね。でも、疑って

いるのではありません。

 人間の世界は、「常に不完全だ」と考えているだけです。

 「ちょっと気を許すと、すぐにとんでもないバカを始め

る」「少々問題があっても大禍なく過ぎれば上出来だ」ぐら

いに考えています。


 言葉は不完全。

 人間は出来損ない。

 世の中はでっち上げ。


 《 完璧なんてあると思うな

       もしもあったら、まぐれ当たりだ 》


 と言ったところです。


 「誰それが『ああ言った、こう言った』」とか。

 「俺はこう思う」「あいつの言う事はおかしい」とか。

 言葉なんかを真に受けて、人間同士がいがみ合うなんてバ

カらしいし、言葉に乗せられて、しなくてもいい、する必要

も無い事に必死になるなんて後世の恥さらしだと思います。

 関西弁で言うと、人間は「要らんこと-しい」(余計なこ

とをする奴)です。

 その「要らんこと」を考えさせる元凶が言葉ですから、ほ

んとに言葉には気を付けなければ身を滅ぼします。下手をす

れば、世界を滅ぼします。


        と、私は言葉で考えてみました。

 (このブログもでっち上げ 💓)
 

2017年8月6日日曜日

「疑い」という “地獄”

 
 政治家や官僚の不正疑惑とか、芸能人の不倫疑惑だとか、

毎日の様にマスコミが騒ぎ立てる。

 わたしたちも日常的に、友人・知人が「自分の事を嫌って

いるんじゃないか」とか、「子供が知らないところで悪さを

しているんじゃないか」とか考える。

 ヒマを持て余すと、「アメリカ政府は、地球に宇宙人が居

る事を隠している」やら「世界はフリーメイソンによって、

支配されている」やら、言い出す。

 人間は、何故、こんなに疑うことが好きなんだろう?




 まあ、無理もない部分もある。

 世の中は、“嘘” と “隠し事” に満ち満ちていますからね。

 人を信じて、何度となく酷い目に合いながら育つのですか

ら、疑う事が習い性になって不思議じゃない。

 とはいうものの、ちょっと度が過ぎちゃいませんか?

 状況によっては、疑う事にメリットがある場合もあるでし

ょうが、今の世の中を見ていると、疑う事によって個人にも

社会にもデメリットをもたらしている事の方が多い様に感じ

る。「疑う事の恐ろしさ」というものを、もう少し意識して

おかなければいけないんじゃない?
 

 「疑い」というものは、とても恐ろしい。

 「疑い」は地獄を生み出す。

 《 地獄のほとんどは、「疑い」によって出来ている 》

 と言っても間違ってはいないでしょう。
 

 何が、それほど恐ろしいか?

 その一つに、疑う方も疑われる方も「一度芽生えた “疑

い” を、完全に消し去ることは、不可能に近い」ということ

があります。特に、人間関係の中での「疑い」は、まず消す

ことは出来ないばかりか、何十年でもくすぶり続け、下手を

すれば、さらに大きくなってしまいます。


 最近、「チカンの冤罪」を怖れる男性が増えている様です

が、あれなんかも、満員電車の中で「チカン」の疑いを掛け

られた時、その疑いを晴らすことの困難さを考えると身の毛

がよだつからでしょう。


 もう一つは、「疑い」の中から、不安・怒り・嫉妬といっ

た、ネガティブな感情が次々と生まれて来ることです。

 「疑い」から、喜びや安らぎが生まれる可能性はゼロで

す。疑った瞬間に、人は不幸へ真っ逆さまに落ちてゆく。



 とはいうものの、何ひとつ「疑い」を持たない人が生き延

びて行くことは、たぶん不可能でしょう。先にも書きました

が、世の中は “嘘” と “隠し事” に満ちています。何も疑わ

ない人がスンナリ生きて行ける程、世の中は “品行方正” に

は出来ていない。「疑わなければ地獄に落とされる」かも知

れない。

 「疑えば地獄に落ちる」

 「疑わなければ地獄に落とされる」
 

 「じゃぁ、どうしろと言うんだ」
 

 「信じなければいい」と思います。



 「おい。ふざけてんのか」

 という文句が飛んで来そうですが、こんな風に書くのは仔

細あってのことです。


 どんな仔細があるのかというと、“疑う”=”信じない” で

は無いと考えているからです。

 “信じない” は、”疑う” と “信じる” の間にある、ニュー

トラルなものだと思っているのです。
 

 人が「疑う」時、その人は自分を信じています。

 “自分” を、“自分の考え” を、「正しい」と思えばこそ人

を「疑う」事が出来ます。人を「疑う」より前に、自分を

「信じる」「正しい者とする」からこそ、「疑い」を持てま

す。


 その自信は何処からくるのでしょう?

 なに故、自分に自信が持てるのでしょう?
 

 別に、自分に自信があるから人を疑うのでは有りません

ね。むしろ自分に自信が無いからこそ、人を疑います。

 人を疑う事で、「自分はその逆の立場の人間だ」と思える

し、自分が “自分の信じたい側の人間” だと、自分自身と

周囲に示すことが出来る。人を「疑う」事は、自分を正当化

する為の詐術、あるいは幼稚な自己保身でしかありません。


 《 勘ぐりは下衆 》とは以前書きました。



 「疑う」事は、人を不幸にします。でも、人として様々な

危険から身を守る為には「疑う」事も必要です。


 ということで、「信じない」様にしましょうというわけで

すが、「他人を信じない」という事ではありません。「他人

も自分も信じない」様にするのです。


 人は皆出来損ないです。嘘つきです。隙あらば欲望に負け

ます(隙だらけです)。自分が大事です。ろくなもんじゃあ

りません。他人を信じられないのに、なぜ自分は信じること

が出来るんですか?

 そもそも自分が疑わしいのに、それを棚に上げて他人を疑

う資格があるのでしょうか?


 「お互いに出来損ないだよね」

 そういう腹の括り方をしていれば、「人を疑う」なんて面

倒臭くてやってられません。結果、不安・怒り・嫉妬といっ

たイヤな思いから距離を置くことが出来ます。さらに、「信

じない」ことが物を考える基本であれば、考えなしに動いて

騙されたり、ケガをしたりする事が減ります。何よりも、人

が可愛く見えてきます。(自分も含めて)人を許せるように

なります  お互いにろくなもんじゃないんですから。 


 そして、人とその世の中が気楽に見られるようになりま

す。

 人は出来損ないですから、人がやってる “世の中” も出来

損ないで当たり前です。ちょっとやそっと馬鹿な事があった

ところで驚くに足りません。(かなりバカな事でも、苦笑い

して溜め息ついて「やれやれ」と・・・)
 

 「じゃぁ、『何も信じるな』と?」



 いいえ。信じたい時は信じていいです。

 ただし自分の為にではなく、「思いやりの意味」で・・。

 (疲れたので、続きはこの次に)