2017年9月13日水曜日

「生き甲斐」と上西小百合


 《 「生き甲斐」によってしあわせになるのではない

   しあわせでいることが「生きる甲斐」なのだ 》



 「生き甲斐」という言葉を耳にすると、つい「ふん!」と

か思ってしまう。“小さな不愉快” が顔を出して来てしま

う。
 

 「仕事が生き甲斐」

 「子供が生き甲斐」

 「サッカーが生き甲斐」

 「旅行が生き甲斐」

 「インスタが生き甲斐」

 「○○○が生き甲斐」

  ・・・・・・・・・・・・・・・・。



 「生き甲斐」ってただの “依存症” のことなの?

 その程度のものなの?



 人が「生き甲斐」だと言っていることを、「ただの “依存

症”」だなんて、極悪非道の言い草ですね。(上西小百合の

サッカーファンに対する「言い草」と似ていますね。彼女の

真意は知る由もないですが、もしかしたら共通する部分があ

るかも知れません)

 でもね、「生き甲斐」って「それがあるから生きられる」

「それが無ければ生きられない」とか、「それが生きる支

え」とかいうもののこととして言われる訳でしょ?

 ある人や、物や、事に、自分の存在価値や存在理由を預け

てるなんて、人として「浅い」んじゃない?

 「浅い」というのが悪ければ、“何か” が欠けていて不安

なんじゃない?



 「仕事を愛してる」 

 「子供を愛してる」

 「サッカーを愛してる」

 「旅行を愛してる」

 「インスタを愛してる」 というのならイイんですよ。

 そこには “依存” は無い。

 人は自立して始めて、「愛する」ことが出来るのですか

ら、「愛してる」というのなら、それに寄りかかってはいな

いはずです。(「愛」の意味を分かっている場合ですけど)
 

 「仕事が生き甲斐」という場合。「この仕事が失くなった

ら生きて行けない」わけですが、「仕事を愛してる」という

場合は、「仕事を存在させる為に、自分は生きる」だったり

するわけです。仕事に支えられるのではなく、仕事を支える

事に喜びがあるわけですね。

 「サッカーが生き甲斐」という場合。「好きなチームが失

くなったら人生灰色」みたいなことですね。「サッカーを愛

してる」場合は、「好きなチームが失くなりかけたら、その

存続の為に力を尽くす・・、結果がどうであれ・・」という

ことだったりします。サッカーやチームの為に、何か出来る

事が嬉しいわけです。(人によっては、そういう意味で「生

き甲斐」という言葉を使う人もあるかも知れませんね)



 そういう “依存的対象” という意味合いで、私は「生き甲

斐」という言葉を捉えているので  みんながそんな風に使

っているので  「ふん!」と思ってしまうのです。



 「生き甲斐なんて、持つな!」



 というのが、私の姿勢です。



 なぜなら、仕事も、子供も、サッカーも、旅行も、インス

タも、あらゆる人も物も事も、「生きる」ことより小さいこ

とだからです。「生きる」ことより下位の次元にあるものだ

からです。

 「甲斐」という言葉は、「意義」とか「価値」というニュ

アンスで使われるものだと思いますが、「生きる」という

“人の本質である事” が、それよりずっと小さなものに支え

られるなんて、あるべきことではないのです。

 そんな小さなものに支えられなければならない「自分」と

は、何なんでしょう?

 そんな小さなもので支えることが出来るなんて、「自分」

ってその程度のものなんでしょうか?

 それって、ほんとに「自分」なんでしょうか?



 イヤなこと言ってるのは分ってるんです。

 でも、「○○が無ければ生きて行けない」なんて、「自

分」を冒涜してるんじゃないでしょうか?

 「自分」を見失っているんじゃないでしょうか?

 「自分」を見失っているから、「○○を失う」ことが耐え

られないんじゃないでしょうか?

 「自分」を見失っているから、「○○」に「自分」を投影

して、心の拠り所にしなければならないんだと思いますよ。

(上西小百合の「他人に自分の人生乗っけてんじゃねーよ」

には、そういう含みがあるのかもね。と思ったりしますが、

それならもうちょっと優しく言ってあげるべきだよね。政治

家って「何を言えるか?」「何を感じさせられるか?」がす

べてなんだし、それは人を元気付けることでなければならな

いはずだからね。その辺を踏まえられるのなら、彼女に一票

入れてもいい。選挙区じゃないけど・・)


 そりゃぁね、生きてると色々としんどい事があるから、ち

ょっと自分を喜ばせて、なぐさめて、元気付けてくれるもの

を持つのは良いとは思いますし、必要でしょう。けれど、

「生き甲斐」とまで言い出すと、「それは違うでしょう」と

思うんですよ。

 あくまでも自分に重心を置いた上で、他者に関わらなけれ

ばならないと思います。


  ということで、最初に書いた言葉が《「生き甲斐」によ

ってしあわせになるのではない しあわせでいることが「生

き甲斐」なのだ 》というわけなんですが、どういうことか

というと、「しあわせでいられないなら、生きている甲斐な

んてないでしょ?」ってことです。

 しあわせであることが、「生き甲斐」「生きる値打ち」じ

ゃないですか。しあわせに生きられないのなら、生きること

はただバカバカしいだけです。
 

 ドライブに例えれば、「楽しく進む」ことが「しあわせに

生きる」ことで、乗っているクルマが「子供」や「仕事」や

「サッカー」だったりするんです。一緒に進んで行くんで

す。(子供や仕事やサッカーを「利用する」ということじゃ

ないですよ)

 クルマはそれぞれ好きな物に乗ればいい、大事なのは「楽

しく進む」ことです。

 それなのに、自分の乗っているクルマがすべてだと思った

り、「楽しく進む」ことを忘れてクルマを飾ったり誇ったり

に腐心する。

 もしも、乗ってるクルマが壊れたのなら乗り換えればい

い。クルマにこだわっていては「進め」ない。

 「いや、わたしはこのクルマを愛してる」というのであれ

ば、修理してもいい。「楽しく修理する」のなら、それも

「楽しく進む」ことに含まれる。



 「しあわせでいること」とは、「楽しく進んで行くこと」

であって、「しあわせを感じさせるものを持つこと」ではな

い。



 まず、しあわせであること。(自分に落ち着くこと)
 
 そこを起点に、仕事なり、子供なり、サッカーなりに関わ

って、喜びの時間を持てばいい。


 前に『結婚してもしあわせになる方法』に、こう書きまし

た。

 「結婚が何をしてくれるかではなく、結婚に何をしてやれ

るか」だと。



 わたしたちは生きているので、何かに関わり続けます。

 その関わった事が「自分」をしあわせにするのではなく、

その事に「しあわせに関わる」のが、「生きる甲斐」なんで

す。



 《 人間には何の義務も無いが

       もし義務があるとすれば

         「しあわせを生きること」だろう 》




2017年9月12日火曜日

エゴサイド・ライフサイド


 わたしたちは、いったい “何を” 生きようとしているの

か?


 「生きるのに “何を” もへったくれも無いだろう。人間と

して生きるんだよ」というのが、大方の考え方かなと思うん

ですが(そういうふうに決めつけておきます)、この「人間

として」が曲者ですねぇ。

 人間にもピンからキリまでありますからね。

 釈迦やキリストから、あなたや私。エジソンに徳川家康、

アイゼンハワーにヒトラーにプーチンにガンジー。

 「人間として」って、一言で済ませられることではなさそ

うです。

 どんな「人間として」生きるのか? 生きたいのか?


 釈迦やキリストのような “生” を望むのと、ヒトラーのよ

うな “生” を目指すのでは、まさしく「天国」と「地獄」の

違いです。

 こんな両極端なことではなくても、方針としてはどちら寄

りを望むのか?


 釈迦やキリストが生きたのは、“何を” ではなくて、“生” 

そのものでしょう。余計なものは “何” も無い。

 方や、ヒトラーが生きたのは “何” か?

 極限まで肥大した “エゴ” ですね。

 当時のドイツ国民のエゴを吸収し、そのエゴの波動をまた

民衆にフィードバックし、さらにエネルギーを増したエゴを

改めて取り込む・・・。そうして、巨大な “エゴ” として生

き、仕事を果たした。

 仕事とは? 

 “エゴ” の仕事は、他者を「否定すること」ですね。

 ですからヒトラーは「否定」しました。ドイツ人の総力を

結集して。


 「ヒトラーが生まれてドイツ人を扇動した」と見るのが、

まぁ当たり前の見方で、普通に歴史を捉えるにはそれでいい

と思うんですが、私は「ドイツ人がヒトラーを生んだ」と捉

えます。もっと言えば、「世界がヒトラーを生んだ」と思い

ます。


 当時のドイツの事はよく分かりませんが、そこには大きな

危機感と閉塞感があったと思われます。

 どんよりと不安と怒りがたちこめ、民衆の胸底には強い 

“怖れ” が拡がっていたことでしょう。そこに一人のチョビ

髭の小男が現れた。

 民衆たちに “怖れ” がなければ、「口だけは達者な、ちょ

っとアブナイ男」として見られて、それで終わりだったので

しょう。

 しかし、民衆は自分たちの “怖れ” に対抗するために、こ

の小男の「口の上手さ」に乗った。

 自分達の “怖れ” を払拭するための「依り代」として、彼

らは自分達のエゴをヒトラーに集約した。「赤信号、みんな

で渡れば怖くない」。

 その後は、「敵を作って、それを否定することで自身の存

在意義を確認し、自己満足する」という、お決まりのコー

ス。興奮している間は、“怖れ” から目をそらしている事が

出来ます。


 と、ここまでは「ドイツ人がヒトラーを生んだ」というこ

とですが、そもそも「ドイツ人の中に拡がっていた “怖

れ”」はどこから来たのか?

 それはもちろん、彼らを取り巻く環境(状況)から来たの

です。

 国と国・民族間の軋轢、天候や病気などの自然から感じる

不安、経済問題・・・。

 ドイツ国内にとどまらず、国を越えて様々な圧力が加わ

り、それに感応して “怖れ” を増幅させる要素が、当時のド

イツ国民の中にあったのでしょう。

 「世界がヒトラーを生んだ」のです。すくなくともヨーロ

ッパが・・・。


 話が大きくなり過ぎましたが、ヒトラーの道は「エゴの

道」。“エゴサイド” です。

 方や、釈迦やキリストの道は「生の道」。“ライフサイド”

です。


 世の中はすべて “エゴサイド” です。そこに居ると、まか

り間違えばヒトラーのように「エゴの依り代」に祀り上げら

れて悲惨な人生を生きる事になる場合もあります。(祀り上

げた方も愚かですが)

 “エゴサイド” に居るのなら(普通に暮らすのなら)、自

分や他人のエゴにコントロールされてしまわない様に、十分

な注意をしなければなりません。

 「人間として ”自分”を 生きている」つもりが、「“エゴ” 

を生きているだけ」になりかねません。最悪、“その他大勢

のエゴ” に振り回されることになります。


 「人間として、より良く生きたい」のであれば、“ライフ

サイド” に寄って行くしかない。

 では “ライフサイド” は何処か?

 “ライフサイド” は個人の中にあります。心臓は自分の中

で動いているでしょ?


 母親のおなかの中で、一つの卵として始まったあなたは、

何度かの細胞分裂を繰り返した後、心臓を造り、トクトクと

全身に血液を送り始めます。なんだかんだといろんな事を考

えて、怖がったり、得意になったり、怒ったりする脳が出来

るのはずっと後です。ヒトの発生から見ても、心臓が先で

す。

 このドクドクと脈打つエネルギーと、それに動かされ、そ

れを支えている身体が 、”何を”生きようとしているのか?


 アタマは “後からやって来た" くせに出しゃばり過ぎてい

るのです。

 “後からやって来た” から、十分に準備され、練り上げら

れていたのなら良かったのでしょうが、残念ながらわたした

ちは、〈意識〉が未完成のまま生まれてしまいます。

 その上に、〈意識〉の不完全さ故に自意識というものが生

まれ、自意識は自分(自意識自身)を守る為に、〈意識〉が

完成することを怖れます。


 自意識が「〈意識〉の完成」を怖れるのは何故か?

 世界と〈意識〉が完全に対応しきれていない(折り合いを

つけられていない)不完全な部分に自意識が生まれるので、

〈意識〉が完成してしまうと自意識の居場所がなくなってし

まうのです。

 自意識、つまり “エゴ” は、自分が存在し続ける為に、自

分以外が「不完全」であることを求めます。“エゴ” の外に

あるものと折り合いをつけることを拒みます。

 「“エゴ” の外にあるもの」

 それは、“世界” と “自分の身体” です。

 “エゴ” は「自分が完全である」としたいので、“世界” と

“自分の身体” を「不完全」なものとしたがります。なの

で、「否定すること」が仕事になります。


 「世界は不完全だ!」と、自然にも社会にもケチをつけま

す。

 「この身体は不完全だ!」と、化粧したり、鍛えたり、整

形したり、タトゥーを刺れたり、医者にいじってもらった

り、勉強したりします。

 そうやって、必死で他者を否定し、自分の居場所を確保し

ようとします。

 何十億という人間が、自身を否定し、お互いを否定し合っ

ているのです。時折、ヒトラーの様な存在が生まれるのも不

思議ではありませんね。


 “エゴサイド” から完全に離れるのは、十分な条件をあた

えられた人でなければ出来ませんし、その様な人はごく稀に

しか現れません。

 だからといって、そんなバタバタと慌ただしく、苛立たし

い場所に、あまりどっぷりと浸かるものではないでしょう。

 なるだけ “ライフサイド” に寄って、〈自己〉に親しむ方

が、生きている甲斐があると思うんです。

 だって、“エゴ” は「社会」と〈意識〉の間に生まれるも

のですが、所属先は「社会」の方ですから、“エゴ” 主体に

生きると〈自己〉を生き損ねます。

 〈自己〉を生き損ねたら、「自分」に生まれた甲斐はない

ですよね。
 

 《 わたしたちは “何” を生きるか?

   わたしたちは〈自己〉を生きるのである 》





2017年9月10日日曜日

ボクらはみんな生きている けど、「生きなければならないの?」




 ぼくらはみんな生きている 生きているから歌うんだ


 小学校の “うたの本” に載っていたし、 毎日の様に校内

放送で流れていた。

 今の小学生も知っているのだろうか?


 ぼくらはみんな生きている。


 ぼくらはみんな、生きたい。

 人間に限らず、どんな生物だって生きたい。

 それを「望む」というより、「生きたい衝動」というもの

がある。生き続けようとする。

 それがなぜかは知る由もないけれど、少しでも長く生きよ

うとしている。

 けれども人間に限っては、自ら命を絶つ事がある。

 生物としては狂ってる、と言えそうだ。

 とは言うものの、そんなに生きなければならないのか?

 どのみち死は避けられない。

 どうせ死ぬのに、なぜ生きる?

 
 この夏も、うちのキンモクセイから十数匹のセミが羽化し

た。

 捕まえようと手を伸ばすと、さっと飛び立つ。

 そこには「生きたい」という衝動がある。

 その一方で、寿命の尽きかけたセミが、地面でバタバタと

羽根を動かす姿を何度も目にした。

 私は、その姿から「生きたい!」という衝動の様なものは

感じなかった。

 「まだ死んでないから、動いてしまう」だけの様に思え

た。

 仰向けになって動かないから、死んでいるのだと思ってい

ると、いきなりバタバタと羽根を動かすのでビックリさせら

れる。そして、しばらくじっとしていたかと思うと、またバ

タバタと飛ぼうとする。

 そんなことを数時間も繰り返しながら、やがて本当に動か

なくなってしまう。

 そんなセミの中に自分が入った気になってみる。


 飛ぶ力も、木にしがみつく力もなくなり、地面にポトンと

落ちる。

 セミに意識があるのなら、もうこの時には死期がせまった

ことを知るだろう。

 バタバタと羽根を動かしてみるが、それは木に戻りたいか

らではない。尽きかけた命のエネルギーが、動かないことで

溜まり、その溜まったエネルギーが自動的に開放されている

だけだと思う。

 そんな、エネルギーの停滞と解放を繰り返しながら、呼吸

の間隔は段々と長くなってゆく(セミに肺は無いけれど)。

 ながく、ゆっくり、浅くなってゆく息が、止まる時が来

る・・・。

 息が止まり、自ら動くことはもう無い。

 確かに、もう動かない・・・。

 それをわたしたちは「死んだ」と言う。


 何時間かすると、どこからともなくアリが集まって来る。

 羽根を根元から外したり、脚を引っ張ったり、寄ってたか

って運び去る。

 数日のうちに、セミの身体はアリの身体に組み替えられ

る。セミはアリに生まれ変わる。


 一匹のセミは死んだが、その分のアリたちが生まれた。

 命は姿を変えて続いて行く。


 そんな姿を見ていると、個体にとって、生きる事は他動的

なものだと思わざるを得ない。

 「生きたい!」という衝動は、一匹のセミの中に生まれる

ものではなくて、生命界全体から一匹のセミに注がれるもの

に思える。
 

 枝先に産み付けられた小さな卵から孵り、木を降りて土に

もぐり、木の根に取りついて樹液を吸い続け、数年をかけて

て成長し、その時が来れば地上に出て、空を飛び、子孫を残

す。そして、ほんの2~3週間で死んで行く。

 その営みを遥かな太古の昔から繰り返して来た・・・。


 一匹のセミは、セミという命の在り方の、一匹分を、一匹

分として全うするだけではあるけれども、それは生命界から

託された “絶対の一匹分” であることは疑い無い。他に代わ

りは無い。


 羽化に失敗して死ぬこともあるだろう。ヒヨドリに喰われ

てしまったり、蜘蛛の巣にかかってしまったりして、子孫を

残せずに終わることもあるだろう。無数のセミたちの中に

は、子孫を残せる者と残せない者があるけれど、それぞれは

全体として命を繋げてゆく営みの中では、等価であると言え

る。

 ただ託された命をそのままに生きることがすべてであっ

て、そこに成功も失敗も達成も挫折も無い。


 一匹のセミは “一匹のセミ” として。

 一本のキンモクセイは “一本のキンモクセイ” として。

 一匹のアリは “一匹のアリ” として。

 一人の人間は “一人の人間” として。

 生命界の一端を、宇宙の一時を 、“絶対の自己” として全

うする。

 「“ただ自己を生きる事” が、成されるべきことなんだろ

うな」と思う。


 セミたちは「ただ生きる」だけ。

 人間も「ただ生きる」だけだと思う。

 しかし、人間の場合は「生きること」「生き続けること」

が欲望であったり、義務と見なされていたりする。

 「生きたい」という欲望はともかく、「生きなければなら

ない」という義務はあるのだろうか?

 わたしたちは、「生きなければならない」のだろうか?
 

 戦争などになると、自分が生き残る為に、同じ人間を殺さ

なければならない。そこには「生きたい」という欲求と衝動

が働く。時には、自分一人が生き残る為に、何人もの人間を

殺さなければならない事もある。そこまでして、人は「生き

なければならない」のだろうか?


 競争と闘争の社会にあっては、自分が生き残る事は、他者

が死ぬことを意味する  社会的に、あるいは実際に。

 「生きなければならない」義務があるのなら、負けた者は

単なる “敗者” ではなく、「義務を果たせなかった “人でな

し”」になってしまう。これは、ちょっと酷い・・。承服し

かねる。


 「生きなければならない」のは、競争と闘争の社会の中で

は、エゴの欲求であって、義務では無い。

 経済優先の今の世界で、「生きなければならない」と思わ

されるのは。社会のプレッシャーからのものであって、生命

界からのものではないだろう。
 

 「生きなければならない」という想いに、 “悲壮感” や 

“絶望感”  が纏いつくのであれば、それは社会のプレッシャ

ーだと思っていいだろう。そんな「生きなければならない」

は、無視していい。


 「無視していい」というのは、「死んでいい」と言ってい

るわけでは無い。

 「生きなければならない」という考えを、消してみる事で

す。

 それを消した時、果たして自分は「死のう」と思うだろう

か? 命はどう流れて行くだろうか?


 「生きなければならない」という想いが浮かぶ時は、わた

したちが厳しい局面に立たされている時でしょう。

 もしかしたら、生きる事に強い執着を見せなければ死んで

しまうかも知れません。

 ところが、「生きなければ」という “足掻き” が返って自

分を自分で追い詰め、さらなる窮地へ嵌まり込んでしまう事

もよくあるでしょう。


 「“生きなければならない” ことはない」


 「生きなければならない」なんて思っているのは、人間だ

けですよ。

 人間だけが、生きる事を大事(おおごと)にしてしまって

いる。

 そりゃぁ、セミだって、オケラだって、ミミズだって、ア

メンボだって、生きてる限りは「生きたい!」と思っている

でしょう。

 でも、その「生きたい!」はシンプルなものでしょう。

 込み入ったものでは無い。

 ましてや「生きなければ!」なんて芝居がかったことは考

えやしない。(アブラゼミがそう言ってました!)

 「生きているから、生きている」

 ただ、そんなことでしょう。


 「生きなければ」なんて思ってしまうわたしたち人間は、

余計な事を考えて、「生きること」を台無しにしているのだ

と思うんです。

 いったい、何を「生きよう」としているのでしょうか?




2017年9月6日水曜日

「弱いまま」で生きて行く


 〈弱さ〉は人を生かせないのだろうか?

 という話を書くはずだったのに、前回はそこまで辿り着き

ませんでした。

 改めて、「〈弱さ〉は人を生かせないのだろうか?」につ

いて、都合のいい理屈をひねり出してみたいんですが、そん

なこと出来るのでしょうか?


 〈弱さ〉そのものが人を生かすことはできないでしょうね

ぇ。例えば、赤ちゃんは弱い者の代表でしょうが、当然、自

力では生きられません。誰かに助けてもらわなければどうし

ようもありません。

 〈弱さ〉が人を生かすとしたら、「助けたい」という気持

ちを他者に起こさせるという部分でしょうか。


 道端に赤ちゃんが置き去りにされていて、周りに自分以外

誰も居なかったら、そのまま捨て置いて去って行ける人は、

まずいないでしょうね。少なくとも今の日本では。

 こんな場合の〈弱さ〉は人を生かす面がありますが、実際

の世の中は、競争の中で比較され、区別され、時には差別さ

れ、「弱い者」は「強い者」が満足を得る為のダシにされま

す。


 「強い者」は、自分に〈強さ〉を求める人ですから、競争

に参加し「強い者」になろうとします。あるいは自分に有利

な状況を見てとると、そこに競争意識を持ち込んで自分の

〈強さ〉を発揮して、「自分は強い・・・」と満足します。

「強い者」には「弱い者」が必要です。



 比較し、相対化しなければ〈強い〉も〈弱い〉もありませ

んから、「強い者」(〈強さ〉を求める者)は比較し、競争

できる状況を求めます。

 そして世の中では誰もが比較し、競争することを刷り込ま

れていますから、程度の差こそあれ、皆が〈強さ〉を求めて

います。「強くなれ」とか「負けるな」とかいう言葉や、無

言のプレッシャーがそこら中にあるのは、そのせいです。

 そして必然的に、その時その時に、その場所その場所で、

「強い者」と「弱い者」が生まれます。

 「強い者」はひと時の満足を得、「弱い者」は挫折、敗北

感を得ます。

 またその副産物として、「強い者」は “お金” や “賞賛” 

を得たりすることが多いので、実際に生活する上で有利な状

況が生まれて「生きられる」ことにもなりますね。


 では「弱い者」はどうか?

 就職試験で「負けて」、職を得られなかったら・・・。

 挫折し、敗北感を覚え、周りに落胆されたりした挙句に

“お金” を得る手段も手に入らない・・・。最悪です・・。

 最悪です・・が、それで「生きられないか?」というとそ

んなことはまずありません。別の仕事ぐらいあるはずです

し、「全くお金が稼げなくて生活できない」なんて事にはな

りません。もしなっても日本には生活保護もありますし、行

政以外でも「なんとか生きさせよう」と(イヤイヤながらで

も・・・)手助けしてくれる人があるものです。

 “自分の望んだ様には「生きられない」” かも知れません

が、「生きられない」事はないでしょう。


 〈強さ〉が必要とされるのは、“自分の望む様に生きたい

場合” であって、「強くない」からといって「生きられな

い」わけではありません。

 “自分の望む様に生きたい” のであれば、〈弱さ〉はその

人を「生かす」事は出来ませんが、その人そのものは「生き

られる」はずです。


 「〈弱さ〉は人を生かせないのだろうか?」


 〈弱さ〉は人を生かせませんね。

 そして、〈強さ〉も人を生かすわけではありませんね。

 〈強さ〉は、世の中で強い立場に立つ為には役に立つもの

ですが、「人が生きる事」そのものには、無関係な様です。

 強かろうが弱かろうが、わたしたちは生きられる様です。

 それが、“望んだ様に” かどうかは、また別の話なんでし

ょう。


 幼くして死んでしまったり、暴力を振るわれて死んでしま

ったり、感染症に侵されて死んでしまったり・・・。

 わたしたちは誰もそんな事は望みません。そんな “望まな

い” 事を避けるのであれば〈強さ〉は必要ですが、そんな時

の〈強さ〉は、自分自身が持ち得るものでしょうか?


 生まれたばかりの赤ちゃんが、まずい状態で、生死の境を

彷徨っている・・・。そんな赤ちゃんが発揮できる〈強さ〉

があるなら、それは持って生まれて来たものであって、意識

して持てるものではないですよね。

 暴力にあって命の危険がある時、それに対抗出来る〈強

さ〉があるかどうかは、相手の〈強さ〉との相対的な関係で

あって、相手の方が強ければ殺されてしまうので、結局

“運” 次第です。(武道の達人であっても、相手がマシンガ

ンを持っていたら OUT です)

 感染症にしたって、どうやって〈強い〉免疫力を持てばい

いのか? 強い病原体には勝てません。


 結局、「生きよう」として〈強さ〉を求める必要は無いと

思いますね。

 〈弱さ〉を厭うことも無用で、自分のあるがままの力で、

自分のあるがままにいきてゆけばいいんでしょう。

 自分に無いものは無いし、得られないものは得られない。

そのままで、それが自分というものですよ。 


 〈強さ〉を発揮して、何かを成し遂げて、喜びを手に入れ

ても、それは脳の中のドーパミンやらアドレナリンやらの快

感物質に操られている様なもんです。

 嬉しいのは結構ですが、


 《 〈強さ〉は娯楽でしかありません 》


 「生きる」というわたしたちの本質とは関係ありません

ね。



 「〈弱さ〉が人を生かせないのだろうか?」という都合の

いい理屈はありませんでしたね。

 でも〈弱さ〉も〈強さ〉も、「生きること」には関係ない

ことが分かって良かったです。

 


 途中で、「  強い立場に立つ為には役に立つ  」と

“立つ” が三回も出て来たところがありましたが、〈強さ〉

は、「立つ」「立てる」という事に必要なんですね。

 何を「立てる」のか?

 毎度おなじみの「自分」ですね。〈エゴ〉を「立てたい」

のですねぇ。 




2017年9月4日月曜日

「強くなって」何をする?

 
 前回は、子供の「いじめ」に絡めながらの話に終始してし


まいましたが、「いじめ」に限らず人間社会の問題は、“パ

ワーバランスの悪さ” と “否定すること(されること)” で

出来ています。

 子供のケンカから、ママ友の揉め事、夫婦喧嘩、国同士・


民族同士の争いまで、すべてがそうです。

 どんな場合でも、まず始めに一方がもう一方を否定すると


ころから始まります。

 そして、否定する側は「否定する為」に、否定される側は

「否定されない為」に(「 “自分を否定する相手を” 否定す

る為に」) “力” を発揮します。そうなれば当然、揉めま

す。

 そのまま揉め続ける事もあるでしょうが、一方の “力” が

強ければ、そちらが勝って一応の決着がつきます。あくまで

「一応」です。“否定” は残りますから、内側ではくすぶり

続けています。フタをしただけで、中を覗けばまだ揉めてい

ます。結局、 “力” では解決出来ません。

 “力” には、「問題を抑え込んでおくこと」しか出来ませ

ん。

 ここまで書いてくると、問題の根本は “否定する事” にあ

って、“パワーバランス” は問題の状況に影響しているもの

だということが分かってきます。

 “否定する事” が他人を苦しめ、“否定される事” で自分が

苦しめられます。「自分で自分を否定する」という器用な事

も上手です。わたしたちは “否定すること” で問題を抱える

のですね。

 「強くなれ」と励まされて強くなれたとしても、問題にフ


タをしただけか、問題が移動しただけに過ぎません。

 “万物の霊長” である人間にしては、お粗末な対応ではな


いでしょうか。 

 「強くなれ」っていうのは “弱い者” に手を貸す〈智慧〉  

なり〈品性〉なりが無い者が言うセリフでしょうね。


 やはり根本的な解決を目指す方が良いでしょう。

 それには、わたしたちの「否定したがる性分」をなんとか


すべきだと思います。

 
なぜわたしたちは「否定したがる」のか?

 いったい、何を「否定したい」のか?


 病状の良く似た、二人のガン患者がいるとします。

 ひとりは、抗がん剤による治療をすることにしていて、も


うひとりは放射線治療を選びました。この治療方法の違いを

お互いが知った場合、ふたりとも次のように思い、一抹の不

安を覚えるのではないでしょうか?

 「病状は変わらないのに、治療法が違うなんて・・・。あ


っちの治療法の方が良いのだろうか?」

 治療法が適切でなければ、命に係わります。ふたりとも、

自分の選んだ治療法を信じたいが為に、「わたしの選んだ治

療法の方が適しているはずだ・・」と思いたくて、相手の治

療法の有効性を(完全にではなくとも)否定したくなるでし

ょう。

 この例と同じ様なことを、わたしたちは日常的に行ってい


ます。

 わたしたちは自分の考えを「正しい」と思っています。

 自分が「正しいとは思えない考え」は、生きて行くことに


危険をもたらすと感じるので、採用できません。

 なので、自分と違う “考え方” “価値観” に出会うと、それ


は自分の考えの「正しさ」を揺るがすことになるので、自分

の生命の継続に不安をもたらします。

 当然、わたしたちは自分と違う “考え方” “価値観” を否定


せずにいられません。否定しなければ不安を拭えませんか

ら。


 わたしたちが「否定する」のは、「自分と違う考え方・価


値観」であり、わたしたちが「否定したがる」のは、「不安

を消したいから」です。

 しかし、そんなに必死になって他者を否定しなければなら


ないなんて、わたしたちが後生大事にしている「正しさ」っ

て、なんと揺らぎやすいものなのでしょう。

 ほんとに「正しい」「有効な」ものなら、他人がどんな行


動を執ろうが、何を言おうが心を乱される事は無い筈です。

 “誰かの一言” や “誰かの振る舞い” で簡単に揺さぶられて


しまう様なものを、「正しい」なんて思っていては、いつま

で経っても安らぐ事は出来そうにありません。

 何ものにも揺さぶられることの無いものが、本当の「正し


さ」と言えるのではないでしょうか。


 けれど「何ものにも揺さぶられることの無いもの」なん


て、そう容易く手に入れられるものでもありません。

 それが何なのか?

 どうやって手に入れればいいのか?

 その鍵は、わたしたちが普段「正しい」としているもの


が、ちょっとしたことで「揺らいでしまう」ものだというと

ころにあります。

 ちょっとしたことで「揺らいでしまう」ような(他人の言

動に怒りや挫折を感じる様な)自分の考えは、「正しい」と

は言えないのだから、その様な感情が湧いてくる時には、そ

れに対応する「自分の考え」を疑って距離を置く、最終的に

はその「考え方」は使用しないことにする。(「否定」して

よいのは、この場合だけです)

 そうやって、さまざまな局面で、不愉快な感情をもたらす


「自分の考え」を削除していけば、「正しいと思っていた」

考えがすべて無くなる事になります。その結果、何が残るの

でしょう?


 少なくとも「正しいと思っていたこと」(ほんとは「正し

くなかったこと」)は無くなったのですから、残っているの

は「正しい可能性のあること」ですね。

 それとも何も残らないのでしょうか? 


 どちらにしても、「正しいと思っていただけのこと」が巻


き起こしていた “不愉快さ” からは解放されます。その時、

人は何を見るのか?


 体験してみなければ、わかりませんね。

 わかりませんけれど、“不愉快さ” は消えているのですか


ら、“愉快” である可能性は高いでしょう。

 あるいは、“愉快” でも “不愉快” でも無い、 “何か” 。

  何だと思います?


 人は誰でも、「自分は何の為に生きてるんだろう?」と考


える事があると思います。「そんなの考えたことも無い」と

いう人がいれば、その人は相当 “困った人” だと思われま

す。(確率はとても低いですが、“悟りをひらいた人” かも

しれません)

 「何の為に」と思うのですから、普段自分がしている事が


「何の為」か分からないのですね。

 働くのはお金の為。

 お金を稼ぐのは、生活する為。

 生活するのは、・・・生きる為・・?

 以上終り。

 答えが出て来ません。


 「いえ。わたしが働くのは、仕事が好きだから」

 何故、好きなのでしょう?

 「楽しいから」

 何故、楽しいのでしょう?

 「好きだから」・・・?

 
 どんな種類の事でも、「何故?」と質問を 5回も畳み掛け


られると、世界最高の頭脳でも、答えに窮するか、誤魔化さ

ざるを得なくなります。人間の「考え」って、その程度のも

のです。

 その程度のものですから、「何の為に生きてるのか?」な


んて問いに、確信の得られる答えなんてそう易々と出るはず

もありませんね。そして、「何の為か分からない」生活に戻

り、「何の為か分からず」生きて行きます。


 「何の為か分からず」生きているので、生きて行く基盤と

なる “自分の考え・価値観” は「間に合わせ」のものです

し、下手をすると、大きな問題を生み出しかねないもので

す。


 「何の為に生きているのか」という問いは、人が幸福に、


充実して、安心して生きて行く為に何よりも大切なものであ

るはずなんですが、誰もが納得する答えを得られぬままに、

後回しにして生きて行きます。それは、自分が何の競技に出

ているかも知らずに、トラックを走り続けている様なもので

はないでしょうか?

 「速く走るの?」

 「ゆっくりでいいの?」

 「この向きでいいの?」

 「ゴールはどこ?」

 「いつまで走るの?」

 「そもそも、走るものなの?」


 「何の為に生きるのか?」

 という問題を、日本の仏教では「一大事」という言い方を


したりします。

 文字通り「一番大事な事」というわけです。他の事は些事


であって、これを解決しない事にはどうにもならない。「死

ぬまで “お茶を濁して” 終り」ということになってしまう。

 わたしたちが普段考えている事は、取るに足りない “些


事” であって、自分自身に根差していない。

 だからこそ人それぞれに言い分が違ったりして、常に揺れ

ている。

 自分を揺さぶる人を “否定” する。


 人が大人になってしなければならないのは、この「一大


事」に向き合う事だと思うんですが・・・。

 大袈裟に言うと、誰もがこの「一大事」に真剣に向き合わ

なければ、人はゴタゴタに巻き込まれ続けるし、世の中は平

和になりませんよ。


《 本当の自信を持っている人は、他者を非難しません 》


 「何の為に生きるのか?」

 という問いに対し、昔からいろんな人が、その人なりの答


えを残しています。

 誰の言葉だったか忘れてしまったんですが、私の好きな言


葉を一つ挙げておきます。


 《 死ぬるまでは、生きる也 》
   ~死ぬまでは、生きる~



 「なんじゃ、そりゃぁ?」

 って、感じですよね。

 でも、分かる時には分かるのです。





2017年9月1日金曜日

「強くなれ」って言うな!


 「死にたい」と思う子供たち・・・。

 子供たちに限らず、「死にたい」と思う大人たちも大勢い

ますが、そんな人たちがつぶやく「死にたい」という言葉

は、普通 “弱音” ととられます。そして、周りから返って来

る言葉・扱いは、「強くなれ」とか「強くなって欲しい」。

あるいは「負けないで」、「くじけないで」といったことで

占められることでしょう。まあ、端的に言うと「強くなれ」

に尽きるんでしょう。


 「死にたい」←「強くなれ」


 ほんとにそれでいいんでしょうか?

 「強くなれ」という言葉が与えられるということは、「死

にたい」と言う人は、 “弱い人” とみなされているわけです

ね。やっぱり「死にたい」人は “弱い人” なんでしょうか?

 そして、「強くなれ」という言葉はよく使われる言葉だと

思いますが、〈強さ〉とはいったい何なんでしょう?


 とっかかりとして、「〈強さ〉とは何か?」ということか

ら考えたいと思うんですが、「〈強さ〉とは、生き続ける

力」だと言えるでしょう。また「生き残る力」とも言えま

す。

 そう考えると、「死にたい」なんて言う人間は、「生き続

ける力」が乏しい様ですから、「弱い」ということになって

も仕方がなさそうです。

 けどですね、「弱い」は「強い」との比較なんですね。

 「強い」人間がいるから、その比較として「弱い」人間が

表れる。絶対的な〈強さ〉も、絶対的な〈弱さ〉も存在しま

せん。それと、ひとりの人間には様々な面がありますから、

ある部分で〈弱い〉とみなされる人が、他の部分では〈強

い〉ことも多いでしょう。誰にでも「得手不得手」はありま

す。


 〈強い〉と言われる人は、ある状況において〈強い〉ので

す。〈弱い〉と言われる人は、ある状況において〈弱い〉の

です。「強くなれ」と言う前に、その “弱い人” が置かれて

いる状況の事をどれだけ分かっているのか?


 A君が、B君をいじめていました。

 ところが、ある時 C君が B君の味方について、A君に反撃

し始め、立場が逆転。A君の方がいじめられる側になってし

まった。

 そもそも、A君の家庭には問題があり、それを解決する力

など持つはずもない A君は、自分の苦しさを吐き出す為にB

君をいじめていたのでした。

 逆にB君 C君からいじめられた A君は、家にも学校にも居

場所が無くなり、自殺してしまいました。


 C君という味方を得た B君は、A君より強くなり、そもそ

も「家庭の中で弱いから、外で強くしていた」A君は、 B君

が強くなった為に死んでしまった・・・。


 B君が強くならなければ、A君は自殺しなかったかも知れ

ません。B君も辛いけれど耐えて、なんとか日々を生き抜い

たかも知れません。


 「 B君のせいで(責任で) A君が死んだ」とか、

 「 A君の自業自得だ」とかいう話をしてるんじゃありませ

ん。〈強さ〉〈弱さ〉というものは、状況のバランスの問題

であって、個人の能力・資質の事ではないということです。


 〈強さ〉が「生き残る力」であるとすれば、“弱い者” は

死ぬのです。

 “弱い者” を押しのけて「生き残る」事は、〈強さ〉なん

でしょうか? 人間にとって〈強さ〉とは、そんなことなん

でしょうか?
 

 B君に悪気は無かったでしょう。ただ身を守っただけで

す。逆に A君をいじめたのも、〈強く〉身を守ろうとしただ

けかも知れません。「生き残ろう」と言うより、「生き続け

よう」としただけかも知れません。

 なんにしろ、パワーバランスは変わり、A君は死んだ。


 “弱い人” に「強くなれ」と言う時、〈強く〉なった時、

 それは別の所に “弱い人” を生んでいるだけかも知れませ

ん。


 「〈強さ〉とは、他人(ひと)も生かすことだ」

 なんて言えれば、カッコイイですが、そんなこと並大抵じ

ゃありません。そんな〈強さ〉を持ってる人は滅多にいませ

ん。

「多くの恵まれない人々の為に、私財を投じて尽くしている

人が、実はそのせいで家庭崩壊」みたいな事になったりしま

す。やっぱり普通にわたしたちが〈強さ〉と言う時は、「自

分が生き続けること」でしょう。つまりそれは、〈エゴ〉の

〈強さ〉ということです。「競争や闘争に勝て」ということ

です。
 

 「いや、いや、自分が “耐える力” をつければいいのであ

って、人に勝つ為ではない。そういう意味で強くなればいい

んだ」

 そう思われるかも知れませんが、B君が “耐える力” をつ

けたとしたら、A君は別のターゲットを探すことになるでし

ょうし、それが出来なければ自分の苦しみに潰されてしまう

かも知れません。A君にとっては、B君の〈弱さ〉は自分を

支えてくれるものです。だから、B君が強くなることは A君

を苦しめる事になります。


 「じゃぁ、B君は A君にいじめられていろというのか!そ

もそも、いじめる A君が悪いんじゃないか!」


 そうですね。そもそも、B君をいじめる A君が問題です

ね。けれど、A君は家庭の中で苦しんでいるんです。もしか

したら、親にいじめられているかも知れません。さらにもし

かしたら、その親は会社でいじめられているかも知れませ

ん。さらにもしかしたら、親をいじめる会社は取引をしても

らってる大企業にいじめられているのかも知れません。

 大きな「いじめの連鎖」というか「圧力の連鎖」が、最も

〈弱い〉A君と B君のところに集中しているのかもしれない

んです。それならば、A君も被害者と言えます。


 こういう “ちからのドミノ倒し” とも言える「圧力の連

鎖」がある場合、〈強さ〉で対抗すれば、その時に一番 “弱

い者”が犠牲になります。また、それで終わりにもなりませ

ん。いちばん “弱い者” が居なくなれば、次に “弱い者” が

犠牲になります。

 そして、〈強さ〉が必然的に “弱い者” を生むのを目にし

た者たちは、自分が「弱く」なり、次の犠牲者になるのを怖

れて「強く」なろうとします。そうして〈エゴ〉のぶつかり

合う、殺伐とした人間関係が拡がって行きます。


 そう考えると、「強くなれ」という励ましなり、叱咤激励

なりは、その状況によって程度の差はあれ、犠牲者を生み続

けるか、〈エゴ〉のぶつかり合う緊張関係を生み出すかにな

ります。それでも「強く」なった方がいいんでしょうか?


 「また屁理屈をならべて、イライラする事を言ってる」

 と思われそうですが、「弱い者が苦しむのは仕方ない」

「世の中は弱肉強食だ」なんて思う人は、たまたま自分の 

“弱い部分” が表に出ない状況に置かれて強気になってるだ

けで、状況が変われば “最弱者” になってしまうかも知れま

せん。その時、「弱肉強食だ」なんて言えるでしょうか?


 「死にたい」と言ってる人に、「強くなれ」と言うことは

“その場しのぎ” に過ぎません。「強く」なれたとしても、

その〈強さ〉が次の問題を生み出すことになってしまうので

す。では、どうすればいいのか?


 「賢くなろう」と言ってあげたい。

 人を出し抜いたりする様な「賢さ」ではありません。

 状況を上手く処理する様な〈知恵〉を持つという事です。

 “弱い者” が「弱いまま」に生き抜く〈知恵〉は無いのだ

ろうか?

 〈弱さ〉は、人を生かせないのだろうか?

 長くなったので、続きはこの次に。