2017年9月1日金曜日

「強くなれ」って言うな!


 「死にたい」と思う子供たち・・・。

 子供たちに限らず、「死にたい」と思う大人たちも大勢い

ますが、そんな人たちがつぶやく「死にたい」という言葉

は、普通 “弱音” ととられます。そして、周りから返って来

る言葉・扱いは、「強くなれ」とか「強くなって欲しい」。

あるいは「負けないで」、「くじけないで」といったことで

占められることでしょう。まあ、端的に言うと「強くなれ」

に尽きるんでしょう。


 「死にたい」←「強くなれ」


 ほんとにそれでいいんでしょうか?

 「強くなれ」という言葉が与えられるということは、「死

にたい」と言う人は、 “弱い人” とみなされているわけです

ね。やっぱり「死にたい」人は “弱い人” なんでしょうか?

 そして、「強くなれ」という言葉はよく使われる言葉だと

思いますが、〈強さ〉とはいったい何なんでしょう?


 とっかかりとして、「〈強さ〉とは何か?」ということか

ら考えたいと思うんですが、「〈強さ〉とは、生き続ける

力」だと言えるでしょう。また「生き残る力」とも言えま

す。

 そう考えると、「死にたい」なんて言う人間は、「生き続

ける力」が乏しい様ですから、「弱い」ということになって

も仕方がなさそうです。

 けどですね、「弱い」は「強い」との比較なんですね。

 「強い」人間がいるから、その比較として「弱い」人間が

表れる。絶対的な〈強さ〉も、絶対的な〈弱さ〉も存在しま

せん。それと、ひとりの人間には様々な面がありますから、

ある部分で〈弱い〉とみなされる人が、他の部分では〈強

い〉ことも多いでしょう。誰にでも「得手不得手」はありま

す。


 〈強い〉と言われる人は、ある状況において〈強い〉ので

す。〈弱い〉と言われる人は、ある状況において〈弱い〉の

です。「強くなれ」と言う前に、その “弱い人” が置かれて

いる状況の事をどれだけ分かっているのか?


 A君が、B君をいじめていました。

 ところが、ある時 C君が B君の味方について、A君に反撃

し始め、立場が逆転。A君の方がいじめられる側になってし

まった。

 そもそも、A君の家庭には問題があり、それを解決する力

など持つはずもない A君は、自分の苦しさを吐き出す為にB

君をいじめていたのでした。

 逆にB君 C君からいじめられた A君は、家にも学校にも居

場所が無くなり、自殺してしまいました。


 C君という味方を得た B君は、A君より強くなり、そもそ

も「家庭の中で弱いから、外で強くしていた」A君は、 B君

強くなった為に死んでしまった・・・。


 B君が強くならなければ、A君は自殺しなかったかも知れ

ません。B君も辛いけれど耐えて、なんとか日々を生き抜い

たかも知れません。


 「 B君のせいで(責任で) A君が死んだ」とか、

 「 A君の自業自得だ」とかいう話をしてるんじゃありませ

ん。〈強さ〉〈弱さ〉というものは、状況のバランスの問題

であって、個人の能力・資質の事ではないということです。


 〈強さ〉が「生き残る力」であるとすれば、“弱い者” は

死ぬのです。

 “弱い者” を押しのけて「生き残る」事は、〈強さ〉なん

でしょうか? 人間にとって〈強さ〉とは、そんなことなん

でしょうか?
 

 B君に悪気は無かったでしょう。ただ身を守っただけで

す。逆に A君をいじめたのも、〈強く〉身を守ろうとしただ

けかも知れません。「生き残ろう」と言うより、「生き続け

よう」としただけかも知れません。

 なんにしろ、パワーバランスは変わり、A君は死んだ。


 “弱い人” に「強くなれ」と言う時、〈強く〉なった時、

 それは別の所に “弱い人” を生んでいるだけかも知れませ

ん。


 「〈強さ〉とは、他人(ひと)も生かすことだ」

 なんて言えれば、カッコイイですが、そんなこと並大抵じ

ゃありません。そんな〈強さ〉を持ってる人は滅多にいませ

ん。

「多くの恵まれない人々の為に、私財を投じて尽くしている

人が、実はそのせいで家庭崩壊」みたいな事になったりしま

す。やっぱり普通にわたしたちが〈強さ〉と言う時は、「自

分が生き続けること」でしょう。つまりそれは、〈エゴ〉の

〈強さ〉ということです。「競争や闘争に勝て」ということ

です。
 

 「いや、いや、自分が “耐える力” をつければいいのであ

って、人に勝つ為ではない。そういう意味で強くなればいい

んだ」

 そう思われるかも知れませんが、B君が “耐える力” をつ

けたとしたら、A君は別のターゲットを探すことになるでし

ょうし、それが出来なければ自分の苦しみに潰されてしまう

かも知れません。A君にとっては、B君の〈弱さ〉は自分を

支えてくれるものです。だから、B君が強くなることは A君

を苦しめる事になります。


 「じゃぁ、B君は A君にいじめられていろというのか!そ

もそも、いじめる A君が悪いんじゃないか!」


 そうですね。そもそも、B君をいじめる A君が問題です

ね。けれど、A君は家庭の中で苦しんでいるんです。もしか

したら、親にいじめられているかも知れません。さらにもし

かしたら、その親は会社でいじめられているかも知れませ

ん。さらにもしかしたら、親をいじめる会社は取引をしても

らってる大企業にいじめられているのかも知れません。

 大きな「いじめの連鎖」というか「圧力の連鎖」が、最も

〈弱い〉A君と B君のところに集中しているのかもしれない

んです。それならば、A君も被害者と言えます。


 こういう “ちからのドミノ倒し” とも言える「圧力の連

鎖」がある場合、〈強さ〉で対抗すれば、その時に一番 “弱

い者”が犠牲になります。また、それで終わりにもなりませ

ん。いちばん “弱い者” が居なくなれば、次に “弱い者” が

犠牲になります。

 そして、〈強さ〉が必然的に “弱い者” を生むのを目にし

た者たちは、自分が「弱く」なり、次の犠牲者になるのを怖

れて「強く」なろうとします。そうして〈エゴ〉のぶつかり

合う、殺伐とした人間関係が拡がって行きます。


 そう考えると、「強くなれ」という励ましなり、叱咤激励

なりは、その状況によって程度の差はあれ、犠牲者を生み続

けるか、〈エゴ〉のぶつかり合う緊張関係を生み出すかにな

ります。それでも「強く」なった方がいいんでしょうか?


 「また屁理屈をならべて、イライラする事を言ってる」

 と思われそうですが、「弱い者が苦しむのは仕方ない」

「世の中は弱肉強食だ」なんて思う人は、たまたま自分の 

“弱い部分” が表に出ない状況に置かれて強気になってるだ

けで、状況が変われば “最弱者” になってしまうかも知れま

せん。その時、「弱肉強食だ」なんて言えるでしょうか?


 「死にたい」と言ってる人に、「強くなれ」と言うことは

“その場しのぎ” に過ぎません。「強く」なれたとしても、

その〈強さ〉が次の問題を生み出すことになってしまうので

す。では、どうすればいいのか?


 「賢くなろう」と言ってあげたい。

 人を出し抜いたりする様な「賢さ」ではありません。

 状況を上手く処理する様な〈知恵〉を持つという事です。

 “弱い者” が「弱いまま」に生き抜く〈知恵〉は無いのだ

ろうか?

 〈弱さ〉は、人を生かせないのだろうか?

 長くなったので、続きはこの次に。




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