2017年9月28日木曜日

コーヒーは底から混ぜましょう。


 昨日、「時間は存在しない」とか 言ったり、“永遠” とい

う概念を定義し直してみたりとかしたんですが、中身の合理

性とか説得力とかは別にして、あんな事をただのオッサンが

曲がりなりにも話を出来るんだから、“今” は凄い時代です

ねぇ。


 私なんて、科学とか哲学とか宗教とかを、専門的に学んだ

ことなんて有りませんからね。そこら辺に居る市井の人間で

すから、それがこんな事を考えてるなんて、明治時代とかじ

ゃ有り得ない事だと思うんですよ。

 一般の人間が哲学書を読んだり、科学の知識を得たりする

ことはほとんどなかったはずです。そういう素地がなけれ

ば、私なんかより遥かに頭が良い人でも、「永遠とは・・」

なんて考えようが無い。宗教的知識と体験から、「永遠」に

ついて深い洞察を持っていたとしても、それを表明する方法

はごく限られていたはずです。

 それが今や、基礎教育が充実し、知識はあふれ返り、イン

ターネットまであって、ウィキペディアを開けば、自宅に居

て高度な専門知識も目に出来る。(高度過ぎて理解できない

ことが多いですが)


 私がこんな事を考えられるように、多くの人達が人間の根

源的な疑問だとか、本質的な問題について深く考えられる状

況になっている。これは、人類史上かってないことです。私

でさえ考えて、こんなブログを書いている。世の中にはもっ

と出来のイイ人がいっぱいいるわけだから、そういう話が、

もっと世の中で前に出て来てもよさそうなもんです。

 教育が行き渡り、知識が手に入れやすくなった今。考える

のなら、「人間とは?」とか「生きるとは?」とか「しあわ

せとは?」という事がまず始めに来るべきで、それを明らか

にして、それを踏まえた上で、経済や国の事を考えるのが筋

だと思うんですが、そうはならない。


 何の為の教育?

 何の為の知識?

 何の為のインターネット?

 何の為のグローバル化?

 いつまでも遊んでないで(金儲けという遊びも含まれ

る)、根本問題を片付けたら? そうしたら、ほんとに遊べ

るんじゃない。

 とは言うものの、どうにもならないよね。


 インターネットは、遊びと金儲けにあふれてる。

 大部分は、競争とフラストレーションと自己顕示欲と自己

満足の掃き溜め。(このブログも自己満足なのはたしかだ

ね・・・)

 養老孟司先生が、「コンピューターは、脳の機能を外に出

した物」と言っていましたが、ネットの中身の大部分がそう

いうものだということは、元の「わたしたちのアタマの中

身」がそうだということです。

 ネットの大まかな姿は、わたしたちの平均的な人間像を表

わしているんですね。


 気が滅入って来ますが、社会がどうなるかなんてことは、

社会全体の集合無意識が決めることだと思うので、私にとっ

ては、しょせん話のタネでしかありません。大事なのは、個

人レベルの話です。

 社会の話をいくら議論したところで、カップのコーヒーの

上の方(社会)を、スプーンでぐるぐる掻き混ぜている様な

もので、底の砂糖(個人)は沈んだままです。

 「個人にとって、本当に大切なことは何か?」ということ

をなおざりにしている限り、社会は “苦い” ままでしょう。
 

 というわけで、わたしたちは、個人的にさっさとしあわせ

になっちゃうより仕方がなさそうです。

 社会が良くなるのなんて、待ってたら日が暮れる。いや、

人類が滅びる。


 《 世の中が平和になったら、

      人々に平和が訪れるのではない

   一人一人が平和になって

      はじめて、世の中に平和が訪れるのである 》


 ということですから、個人が自分のしあわせに集中するこ

とが、社会に貢献する事でもあるのです。

 (「しあわせ」と言っても、社会との関係性に依らない

  「しあわせ」ですが)



 はて? 今日は、これ、なんの話なの?





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