2017年9月21日木曜日

夢と希望は必要か?


 「夢と希望は必要か?」


 “夢” については、別に必要ないですね。特に “夢” を持た

ずに生きている人は沢山います。「夢を持つ」というのは、

近代になって、(化石燃料のおかげで)社会に余裕が生まれ

て来て可能になった “娯楽” の一種じゃないでしょうか? そ

れに、場合によっては、 “夢” を持つことで人の生き方が窮

屈になる様な気もしますから、「夢を持つ」ことをもてはや

すのは、どうも考えが浅い様に思います。(ケンカ売ってる

なぁ~。ヤバイかなぁ・・。まあ、いいか。)



 “希望” は、必要かどうかというより、持たずにおれない

でしょう。

 病気になったら「治りたい」と願うだろうし、仕事は上手

く行って欲しいと思うし、子供が生まれたら「しあわせに生

きて欲しい」と望むでしょう。人はごく自然に “希望” を持

って生きて行きます。いや、“希望” を持たずして生きては

行けないでしょう。



 と、ここまで来て「忘れてた!」と思ったのですが、“夢”

と “希望” は何が違うのかということを、検証しなければな

りませんでした。唐突ですが、何が違うのでしょう?



 “夢” も “希望” も、「望み」ということです。一緒だと言

ってもいいのだと思います。ですが、世間での言葉の使われ

方から私が受ける印象では、“夢” にはエゴがたっぷり滲み

込んでいる気がします。対して、“希望” にはせいぜい半分

ぐらいしかエゴは滲み込んでいない様に思います。(あくま

でも個人の感想です  便利な言葉だなぁ



 何故、そんな風に思うのかというと、“夢” という言葉が

使われるのは、仕事や遊びなどで高レベルの事を達成した

いといった時で、「生活する」ということからは離れていま

す。

 一方で “希望” の根底にあるのは、「日常が平穏に過ぎて

欲しい」、「辛さ・苦しさを味わいたくない」という、人間

として当然の想いです。「仕事が上手く行く様に・・」と願

うのも、トラブルを避けたいという事であって、平穏を望む

思いです。(ここに、「仕事の発展」という様な望みが入っ

て来ると、“夢” にシフトして行くことになります)

 「平穏を望む」というのは、自然な生存欲求から来るもの

ですから、“希望” にはエゴの影響はそれはほど強くはない

でしょう。しかし “夢” には大抵、エゴのエネルギーが満ち

ています。(ガンジーやマーチン・ルーサー・キングの様な

「エゴではない夢」を持つ人は、ごく稀です。これらの人が

持つ “夢” は、「誓願」とか「祈り」と呼ぶ方が相応しいで

しょう)

 “夢” という言葉で語られるのは、ほとんどの場合「個人

の欲」です。(以前にも書いたなぁ。「I have a no   
 
dream」(2017/4 )という回も、合わせてお読み下さ





 という事で、“夢” と “希望” に区別がつきました。

 “夢” は不要です。

 “希望” は、必要でも不要でもなく、「あるものはしょう

がない」という感じでしょうか。

 そして、「夢と希望は良いものか?」ということなんです

けれども、「“夢” は不要」という事になったので、「良

い」も「悪い」もありません。“夢” には、お引取り頂きま

す。さようなら。


 では、「希望は良いものか?」ということですが、「良

い」というよりも、やはり「必要なもの」という位置づけに

止まるんじゃないでしょうか?

 「良い・悪い」ではなく、中立的なものでしょう。

 “希望を持たずして生きては行けない” と書きましたが、

「食べる物が欲しい」「寒さをしのぎたい」「痛みを取り除

きたい」といった思いを持たなければ、人は生きては来れな

かったでしょう。ですから、そういった生存欲求のレベルか

ら大きく外れなければ、“希望” に異議を立てる必要はな

い。

 けれど、そこにエゴの影響が濃く表れて、生存欲求が “快

感欲求” とでも言う様なものになって来た時には、問題を起

こし始めるでしょうから、「悪い」ということになるでしょ

うね。その見極めは難しいですが。


 “夢は持つな! 希望と語り合え”
  
 そんな感じでしょうか。
             

 “夢” の立場が無くなりました。

 ナムアミダブツ、ナムアミダブツ・・・・。

 迷わず、往生して下さい。



 何気なく、面白がって「ナムアミダブツ」と書いたんです

が、“南無阿弥陀仏” って、「(夢といったような)自分の

勝手な考えは持たずに、阿弥陀仏にすべてお任せします」と

宣言する言葉ですから、ここに書くのにピッタリなんですね

ぇ・・・。あら、まあ・・。


 “夢” には、往生してもらいましょう。

 それが、わたしたちの “往生の道” ですね。

 そして、本当に持つべき “夢” ですね。


 《 人として持つべき “夢” は

       「“夢” を持たないこと」である 》

 

 (こういう結論になりました。悪気はないのですが・・)
  



 

 
 

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