2017年9月26日火曜日

「生存競争」が必要らしい。


 以前はよく山へ出かけた、ということを前に書きました。

 この夏はあまりにも暑すぎて、とても山へ登ろうという気

にはなれなかったけれど、「暑さ寒さも彼岸まで」。やっと

涼しくなって来たので、山へ行こうかなと思っています。


 前にも書きましたが、山(自然)には嘘が無い。

 何も隠し事が無い。

 忖度も懐疑も無いし、競争も無い。

 それが、暮らしの中で、いつも他人の考えを読むことを迫

られるしんどさから解放してくれる。



 独りで行くのが一番いい。

 誰かと行くのなら、まったく気を使う必要のない人とにし

なければいけない。そして、出来るだけ目的を持たずに。

 目標なんて、もってのほか。

 ゆっくりと歩き、気分の良い所を見つけて、小一時間ほど

昼寝をしたら、適当な時間に帰る。


 最近、「トレイルランニング」と言うのか何かしらないけ

れど、山を走り回る「目的志向」の人間が増えて、山の空気

がバタバタ震えるので迷惑している。何をしようと自由だ

し、文句を言う筋合いも無いので、気にしない様に努めてる

が、あんなことは街の中の、人間の縄張りでやってもらいた

いものだ。どうせ、「何時間で走れた」とか自己満足した

り、人と較べたりするのだろう。山の中に競争を持ち込まな

いでもらいたいんだけどね。空気がギスギスしてしまう。

 (えらく悪口を言ってますが、モチロン、人の自由です)


 それはともかく、山の中には “競争” は無いのです。

 「生存競争」と言うけれど、自然界には「生存競争」など

無い、と私は見ています。

 そう思い始めたのは、もう二十年以上も前でしょうか。



 ある日、山の中でひと息ついている時に、何気なく上を見

ると、木々の樹冠が、隣の木と大きな隙間をつくることな

く、且つ重なることなく、見事なモザイク模様を描いていま

した。

 「植物はより多くの光を求めて、早く上に伸びようと生存

競争を繰り広げる」という決まり文句をよく聞きますが、

「あんなのウソだな」と、その時思いました。

 生存競争なんかしていない。

 “それぞれの能力と性質に応じて、空間を分け合っている

だけ” だと。


 その、「樹冠の作るモザイク模様」が生存競争の結果だと

言えば、それでも理屈は通る。そう見れば、そう見える。

 けれど、あの景色を見ると、私にはそう思えない。

 伸びるのが遅くて、他のものの日陰になり枯れてしまって

も、それがその場所で、その植物に相応しい役割だったのだ

と考える。

 あれ以来、他の生き物の姿を見ても生存競争には見えな

い。

 ジガバチが毛虫をくわえて運んでいても、ヒヨドリがセミ

を食べていても、ライオンが逃げ遅れたシマウマの喉に噛み

ついていても、盛りのついた野良ネコが睨み合っていても、

それは生存競争ではなく、“それぞれの能力と性質とに応じ

た役割を果たしているだけ” なんだと。



 「それを “生存競争” と言うんだよ」



 そんな声が聞こえそうですが、さっきも書いた様に、そう

とも言えます。それが間違いとは言えません。

 けれど、そうでは無いとも言えます。結局は、どう見るか

という話しになります。

 私は “生存競争” とは見ません。

 私からみれば “役割分担” です。

 
 同種間でも、異種の間でも、ある局面で優位に立つ者が居

るのは確かです。まったく同じものは、この世に存在しない

ので、比較すればどちらかが優位になるのは当然です。その

当然の事が、あらゆる場所で起っているというだけで、その

事にことさら「競争」というストーリーを持ち込む必要は無

いのでは。


 泥の上に石が落ちれば、泥の方がへこみます。

 “硬さ” で較べれば、石の方が硬いので、当然泥がへこみ

ます。でも、泥は場所を移動しただけで、消えて無くなった

訳では無いし、「それがどしうした?」という話でもありま

す。

 ライオンがシマウマを食べたら、食べられたシマウマは、

ライオンの身体の一部になったり、糞になって排泄されて細

菌や虫の食料になって、菌や虫の身体の一部になったりしま

す。シマウマにあった物質とエネルギーは、「泥」の様に場

所を移動したのです。「シマウマ」という形式から、別の形

式に変わったのですが、それを「競争」と見るのは、もう古

臭いストーリーなんじゃないかな。
 

 あの、見事な “樹冠のモザイク模様” を見て、生存競争に

見えるなら、感性がどうかしている。

 あのモザイク模様は、わたしたちの肺や、身体中に張り巡

らされた毛細血管の様に見える。その毛細血管同士は生存競

争の結果として、その場所に在るのでしょうか? 

 違うでしょうね。それぞれに役目を担って、その場所に落

ち着いたのでしょう。

 森の木々を見て、さまざまな生き物を見て、私は自分とい

う〈個体〉の中で起きている事と同じに見えます。



 何も、競争なんかしていない。

 競争しているのは、人間同士だけ。

 いや、人間の意識の中だけかも知れない。

 「勝った」とか「負けた」とかの、人間社会のせめぎ合い

の結果も、「それぞれの役割による〈必然〉」だと考えた方

が良いのかも知れない。

 人間だけが「余計な事」を考えて、図に乗ったり、嘆いた

り、しているだけなんだと。



 「競争」というモノの見方。

 「競争」に意味や価値をもたせるストーリー。

 人間は、もういいかげんに、そんなことから脱却できない


んだろうか?


 「自分の存在意義」や「生命の存在意義」が分からないこ

とから生まれる、〈焦燥〉とか〈不安〉といったものをねじ

伏せたいが為に、人は “〈世界〉の中に「競争」というスト

ーリーを見る” という策を生み出したのでしょう。

 「競争が存在していて、そこで優位に立てるということ

は、その者に価値がある(意義がある)という証明になる」

 それが、わたしたちが〈世界〉の中に「競争」を見てしま

う理由でしょう。


 競争したがったり、競争を観たがったりする人は、自分が

何故生きているのか分からない事が、恐ろしくてしょうがな

い人じゃないでしょうか。

 「競争」に意味を持たせ過ぎるあまり、「共生」していれ

ば済んでしまう所にも「競争」を持ち込んで、世の中を引っ

掻き回してる。そんなことが、あまりにも多すぎる。

 それに「生」と「死」も、「生存競争」という見方をはず

して観てみれば、少し冷静な目で見られるんじゃないかなと

思う。

 人間って、アタマが悪いね。

 (私も人間のひとりだ。・・・ため息が出るね・・。)









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