2017年9月13日水曜日

「生き甲斐」と上西小百合


 《 「生き甲斐」によってしあわせになるのではない

   しあわせでいることが「生きる甲斐」なのだ 》



 「生き甲斐」という言葉を耳にすると、つい「ふん!」と

か思ってしまう。“小さな不愉快” が顔を出して来てしま

う。
 

 「仕事が生き甲斐」

 「子供が生き甲斐」

 「サッカーが生き甲斐」

 「旅行が生き甲斐」

 「インスタが生き甲斐」

 「○○○が生き甲斐」

  ・・・・・・・・・・・・・・・・。



 「生き甲斐」ってただの “依存症” のことなの?

 その程度のものなの?



 人が「生き甲斐」だと言っていることを、「ただの “依存

症”」だなんて、極悪非道の言い草ですね。(上西小百合の

サッカーファンに対する「言い草」と似ていますね。彼女の

真意は知る由もないですが、もしかしたら共通する部分があ

るかも知れません)

 でもね、「生き甲斐」って「それがあるから生きられる」

「それが無ければ生きられない」とか、「それが生きる支

え」とかいうもののこととして言われる訳でしょ?

 ある人や、物や、事に、自分の存在価値や存在理由を預け

てるなんて、人として「浅い」んじゃない?

 「浅い」というのが悪ければ、“何か” が欠けていて不安

なんじゃない?



 「仕事を愛してる」 

 「子供を愛してる」

 「サッカーを愛してる」

 「旅行を愛してる」

 「インスタを愛してる」 というのならイイんですよ。

 そこには “依存” は無い。

 人は自立して始めて、「愛する」ことが出来るのですか

ら、「愛してる」というのなら、それに寄りかかってはいな

いはずです。(「愛」の意味を分かっている場合ですけど)
 

 「仕事が生き甲斐」という場合。「この仕事が失くなった

ら生きて行けない」わけですが、「仕事を愛してる」という

場合は、「仕事を存在させる為に、自分は生きる」だったり

するわけです。仕事に支えられるのではなく、仕事を支える

事に喜びがあるわけですね。

 「サッカーが生き甲斐」という場合。「好きなチームが失

くなったら人生灰色」みたいなことですね。「サッカーを愛

してる」場合は、「好きなチームが失くなりかけたら、その

存続の為に力を尽くす・・、結果がどうであれ・・」という

ことだったりします。サッカーやチームの為に、何か出来る

事が嬉しいわけです。(人によっては、そういう意味で「生

き甲斐」という言葉を使う人もあるかも知れませんね)



 そういう “依存的対象” という意味合いで、私は「生き甲

斐」という言葉を捉えているので  みんながそんな風に使

っているので  「ふん!」と思ってしまうのです。



 「生き甲斐なんて、持つな!」



 というのが、私の姿勢です。



 なぜなら、仕事も、子供も、サッカーも、旅行も、インス

タも、あらゆる人も物も事も、「生きる」ことより小さいこ

とだからです。「生きる」ことより下位の次元にあるものだ

からです。

 「甲斐」という言葉は、「意義」とか「価値」というニュ

アンスで使われるものだと思いますが、「生きる」という

“人の本質である事” が、それよりずっと小さなものに支え

られるなんて、あるべきことではないのです。

 そんな小さなものに支えられなければならない「自分」と

は、何なんでしょう?

 そんな小さなもので支えることが出来るなんて、「自分」

ってその程度のものなんでしょうか?

 それって、ほんとに「自分」なんでしょうか?



 イヤなこと言ってるのは分ってるんです。

 でも、「○○が無ければ生きて行けない」なんて、「自

分」を冒涜してるんじゃないでしょうか?

 「自分」を見失っているんじゃないでしょうか?

 「自分」を見失っているから、「○○を失う」ことが耐え

られないんじゃないでしょうか?

 「自分」を見失っているから、「○○」に「自分」を投影

して、心の拠り所にしなければならないんだと思いますよ。

(上西小百合の「他人に自分の人生乗っけてんじゃねーよ」

には、そういう含みがあるのかもね。と思ったりしますが、

それならもうちょっと優しく言ってあげるべきだよね。政治

家って「何を言えるか?」「何を感じさせられるか?」がす

べてなんだし、それは人を元気付けることでなければならな

いはずだからね。その辺を踏まえられるのなら、彼女に一票

入れてもいい。選挙区じゃないけど・・)


 そりゃぁね、生きてると色々としんどい事があるから、ち

ょっと自分を喜ばせて、なぐさめて、元気付けてくれるもの

を持つのは良いとは思いますし、必要でしょう。けれど、

「生き甲斐」とまで言い出すと、「それは違うでしょう」と

思うんですよ。

 あくまでも自分に重心を置いた上で、他者に関わらなけれ

ばならないと思います。


  ということで、最初に書いた言葉が《「生き甲斐」によ

ってしあわせになるのではない しあわせでいることが「生

き甲斐」なのだ 》というわけなんですが、どういうことか

というと、「しあわせでいられないなら、生きている甲斐な

んてないでしょ?」ってことです。

 しあわせであることが、「生き甲斐」「生きる値打ち」じ

ゃないですか。しあわせに生きられないのなら、生きること

はただバカバカしいだけです。
 

 ドライブに例えれば、「楽しく進む」ことが「しあわせに

生きる」ことで、乗っているクルマが「子供」や「仕事」や

「サッカー」だったりするんです。一緒に進んで行くんで

す。(子供や仕事やサッカーを「利用する」ということじゃ

ないですよ)

 クルマはそれぞれ好きな物に乗ればいい、大事なのは「楽

しく進む」ことです。

 それなのに、自分の乗っているクルマがすべてだと思った

り、「楽しく進む」ことを忘れてクルマを飾ったり誇ったり

に腐心する。

 もしも、乗ってるクルマが壊れたのなら乗り換えればい

い。クルマにこだわっていては「進め」ない。

 「いや、わたしはこのクルマを愛してる」というのであれ

ば、修理してもいい。「楽しく修理する」のなら、それも

「楽しく進む」ことに含まれる。



 「しあわせでいること」とは、「楽しく進んで行くこと」

であって、「しあわせを感じさせるものを持つこと」ではな

い。



 まず、しあわせであること。(自分に落ち着くこと)
 
 そこを起点に、仕事なり、子供なり、サッカーなりに関わ

って、喜びの時間を持てばいい。


 前に『結婚してもしあわせになる方法』に、こう書きまし

た。

 「結婚何をしてくれるかではなく、結婚何をしてやれ

るか」だと。



 わたしたちは生きているので、何かに関わり続けます。

 その関わった事が「自分」をしあわせにするのではなく、

その事に「しあわせに関わる」のが、「生きる甲斐」なんで

す。



 《 人間には何の義務も無いが

       もし義務があるとすれば

         「しあわせを生きること」だろう 》




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