2017年9月18日月曜日
やっぱり、アタマが悪い。
《 頭が悪さをすることを、「アタマが悪い」という 》
それをメインテーマにして、理解してもらい難いであろう
ことを、口から出まかせに書き綴って来て、今回で百回目に
なります。
もっと早くネタ切れになりそうな気がしていたのだけれ
ど、意外と続けて行けそうです。
とは言っても、書いてる事は基本的に同じ様なことで、そ
ういう意味では、すでにネタ切れしてますが・・。
「アタマが悪い!アタマが悪い!」と言い続けて、「アタ
マ」を目の敵にしているのですが、そう考えているのが私の
「アタマ」な訳ですから、自分で自分の足をすくってるよう
な形であって、どうしても説得力に欠ける。
詐欺師が『詐欺に引っかからない方法』というDVDでも
勧めているようなもので、胡散臭いことこの上ない。
わたしたちの「アタマが悪い」ことは間違いないのだけれ
ど、「アタマ」にも、少しは為になる余地がある。「考え過
ぎない様に “考える”」ことは出来ますし、「不愉快になる
事は考えない様に “考える”」ことも出来ます。そうやっ
て、「アタマの悪さ」から「自分」を守る上で、誰かの役に
立つかも知れないし、私自身への戒めにもなるので、このブ
ログを続けているわけです。
しかし、私が書いていることを理解して、さらには「面白
い」とか「気が楽になった」とか思ってくれる人がいるので
しょうか?
いる。と、思っています。
誰一人として理解してくれないことを、延々と言い続ける
人間は、精神病院に入れられてしまいますし、それを行動に
移せば、刑務所に入らなければならなくなるでしょう。
幸いにも、私は塀の外でパソコンに向かっています。
こういった考えを持ちながら生きて来ましたが、人から特
に非難されることも無く過ごしてきました。(あまり、おお
っぴらにしてこなかったということもありますが・・・)
時には、話をしていると、深く納得してくれたり、「目か
らウロコが落ちた」といった驚きを見せてくれたり、自分の
苦しさの理由に思い当たって泣く人もいました。
ですから、行き詰まりを感じている様な人には、けっこう
共感を持ってもらえる自信はあります。ただ、多くはないで
しょうね。私が言っていることは、まず、社会的な自分を否
定することから始まりますから、恐怖感や不快感を伴いま
す。
「行き詰まりを感じている」としても、あまり程度の酷く
ない行き詰まりなら、自分を否定することの恐怖感が大きく
て、私の話に対する共感より、不快感の方が勝ってしまうで
しょう。一方、「生きているのが辛い・・」という様な強い
行き詰まりを感じている人ならば、「はっ」と、目を開かせ
る言葉が、このブログに一つぐらいはあるでしょう。なぜな
ら、「行き詰まり」というものを感じさせるのは、「脳の中
に浸潤して来た “社会”」だけで、それ以外のものがわたし
たちに「行き詰まり」を感じさせることはありません。
私は一貫して、“社会” と “わたしたちの中の社会” を否定
しているので、「“社会” に取り囲まれて行き詰ってる人」
にとって、このブログの話は “社会” という壁を壊すツール
には成るはずだからです。
わたしたちの脳(意識)の中に、“社会” はありとあらゆ
る形で浸み渡っていて、手を変え品を変えては、わたしたち
を “社会” の道具にしようと誘導します。そして、その根は
とても深い。
ですから、そんな “社会” に対抗する為には、あの手この
手と策を講じなければなりません。
伝えにくい話を、馴染みにくい言葉を使って、拙い表現に
自分でも何を言っているのか分からなくなりながらも、ああ
だ・こうだと書き続けているのは、「アタマを大人しくさせ
るのに使えるものは、何でも使っちゃえ!」とヤケクソにな
って面白がっているからです。「数打ちゃぁ、当たるだろ
う」という物量作戦とも言えますね。
人によっては、たった一言が決定的な一撃となって、その
人の中の “社会” を木端微塵にしてしまうかも知れません。
別の人にとっては、ある言葉が “社会という壁” に小さな
穴を開ける役に立って、少し明かりを得られるかも知れませ
ん。
ある人からすれば、「何言ってんのかワカンナイ。バカじ
ゃねえの?」と思われて終りでしょう。(こちらの方が、圧
倒的多数でしょうね。「文章として分かり難い」という、私
の能力の問題もありますし)
どんな受け取り方をされるか?それはケースバイケース、
時の運、ご縁、であって、私の与り知らぬところです。
以前のブログでも書きましたが、私は自分が何故こんな事
をしているのか分かりません。
考えても、思い浮かぶことは、表面的な理由でしかありま
せん。
自分が望んでいるのか、望まれているのか?
自分の為になるのか、誰かの為になるのか、何にもならな
いのか?
自分にとって正しいことが、他人にとっても正しいとは限
らない。でも、人は誰も、自分にとっての “正しさ” に依っ
て生きて行く他はない。
それで、“人生、おおむね御機嫌” で過ごせたら、「ラッ
キー!」って、手を叩いて終れる。
“人生、なんだかんだと不機嫌” に過ごしたら、「ちくし
ょー、しくじった」と取り返しのつかない涙を流して終わら
なければならない。
どちらにしても、その時その時の自分の「正しさ」にすが
って、わたしたちは生きて行く。
私は、最後に「ラッキー!」と言いたくて、誰かにも言っ
てもらいたくて、「アタマが悪い」と言い続ける。
( ホントに「ラッキー!」と言えるのだろうか・・?
まぁ、そういうことにしておこう )
《 「勝った者が、最後に笑う」のではなく
「最後に笑っちゃえば、勝ち!」でしょ!
というか、「勝ち」も「負け」も
“そう思うだけ” のことだから 》
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