2017年9月24日日曜日

「性格」が悪い!


 毎回々々、揚げ足取りみたいなことを書いているわけです

が、実のところ、私は揚げ足を取ろうなんて考えていませ

ん。「揚げた足」を取るより、軸足を取る方がより完全に相

手を倒せますから、私は「軸足を取る」ことを主眼に置いて

ます。(ほんと、性格悪いよねぇ~)


 「アタマの悪さ」に対抗するためには、一見「性格が悪

い」ように思われる言動が要求されます。

 なぜなら「アタマの悪さ」は、世の中の常識に無自覚に従

う事で現れますから、それに対抗していると、世の中の常識

に逆らうことになってしまって、結果、「性格が悪い」とい

う評価を頂くことになります。

 もっとも普段の生活の中では、私は「すごくイイ人」で通

っています。だって、このブログに書いてある様なこと無遠

慮に言い散らしたら、死屍累々の惨劇になります。みんなそ

れなりに落ち着いて暮らしてらっしゃるわけですから、他人

の考えに、安易に手を突っ込んではいけません。ご縁の無い

人には、何も言いません。そういう “常識” には、うるさい

んです。
 

 で、本当のところ、私の性格は「イイのか」「悪いの

か」?

 それは他人が判断することで、私には決められませんが、

この “性格” というもの自体が、この先、意味を失って行き

そうに思います。


 なんの事かと言いうと、あと数十年すると “性格” と言う

言葉と概念が使われなくなって来るんじゃないだろうかと思

うんです。


 近年、脳の中の変化を外から測定する技術が発達して来

て、脳の生理学や認知科学の知見がどんどん膨らんでいま

す。さらに、鬱病や発達障害などの研究も進んで、脳の状態

が人の思考・情緒・行動とどんな対応関係にあるかが、どん

どん分かって来ています。

 その結果、いままで “性格” と捉えられていた「個人の性

質」が、脳の “先天的” あるいは “後天的” な障碍や、発達

の偏りに理由がある場合が、認められる様になって来たから

す。


 例えば、「冷酷」「無神経」「自己中心的」な “性格” の

持ち主とされている人の脳を調べてみた時に、前頭葉の倫理

観に関係する部分に障碍や発達の未熟さがあったら、その人

の「冷酷さ」「無神経さ」「自己中心的な態度」は、“性格”

という精神面での問題ではなくて、脳の機能不全という身体

的な問題と見た方が妥当になります。


 右手の親指が生まれつき無いという人に、「箸は右手で持

つものだ!」などと非難してもあたらない様に、脳の倫理観

を司る部分に障碍がある人を、「あんたは冷酷で、無神経

で、自己中心的だ!」と責め立てても、あまり意味をなさな

いでしょう。

 そもそも、「温かで」「気遣いがあって」「人を思いや

る」ために必要な身体的条件が欠けているのですから、責め

られたところで、本人にはまずどうしようもないし、責めら

れる意味を理解することさえ出来ないかも知れない。彼にと

っては、「温かさ」「気遣い」「思いやり」などというもの

は、この世に存在していない可能性が高いのだから。


 他の “性格” についても、同様の事が有り得ます。

 「積極性」だとか「繊細さ」だとか、「協調性」や「決断

力」、「真面目さ」や「根気」、それにさまざまな「セン

ス」など、それらのことが、ある人に、どの程度発現するの

かは、その人が持って生まれた脳の特性に、大きく影響され

るはずです。

 もちろん、脳は使えば使うほど、その使った部分の処理能

力が上がりますから、「足りない」と思う部分を努力で補う

事が出来ます。ですが、あまりにも欠損や不具合があると、

カバーしきれません。「無いものは無い」「出来ないものは

出来ない」。


 こういう事を書くと、「優性思想」や「選民運動」に繋が

りそうですが  すでに「デザイナーズベイビー」という考

え方は生まれていますね。「バカなことするなぁ~」と思い

ますけど  事実として受け止めて行かなければならないと

思います。

 そして、“性格” というものの捉え方を考え直さなければ

ならないでしょう。


 性格が「良い」「悪い」とか、「歪んでる」とか「偏って

る」などと言って、「性格を直せ!」やら「性根が腐って

る!」とか叱られたりする。叱るのは「本人が直そうとしな

い事に問題がある」と思っているからですが(言う側が、自

分の “支配欲” を満たしたいだけだったりもしますが・・)

直そうにも直せなかったり、何がいけなくて叱られているの

か、理解出来てさえいない場合があるわけです。


 “片付けられない子” がいるとして、その原因が脳の障碍

にあったら、片付けられる様になる見込みはまず無い。「な

んで、片付けないの!」と怒る親の方はストレスが溜まるば

かりだし、怒られる方の子供は、ただ辛いだけでどうしてい

いかも分からない。お互いに何も良い事がありません。そん

な時に「もしかしたら、この子には “片付ける能力” 自体が

欠けているのかも知れない・・」と考える視点があったら、

無用な “悩み・苦しみ” を味あわなくても済みます。

 だから、脳の障碍や発達の不足、逆に発達過剰などの生理

的な事情が、人のパーソナリティーや能力に、決定的な影響

を与える事があるということが分かって来た以上、それを踏

まえた上で人と関わる方が、人と人との間に無用な衝突を生

み難く、お互いに楽だと思うし、今後そういう考え方は拡が

って行くと思う。


 実際、「多動性障害」の子供に対してでも、昔は「落ち着

きのない子」という見方をするだけだったのが、今は「多動

性障害があるから、落ち着けないのね」という理解が得られ

るようになって来たので、当人も配慮のある接し方がしても

らえるし、親や教師も付き合い方に余裕が持てる様になって

来ている様です。


 その様に、いろいろな脳の個人差(わたしは、その人の

〈脳の癖〉と呼びたいですが)を認め合って人間関係が持た

れる様になって行けば、“性格” という、個人の努力の量を

含ませた言葉は使われなくなって行くだろうと思います。

 もし、そうならないのなら、それは「人に優劣を付け、自

分より劣る人間を見つけて心理的な安定を得たい」という、

しみったれた根性を、わたしたちが払拭出来ないという事な

のでしょう。(その、「しみったれた根性」が脳の個人差に

よるものだったら、ゴメンナサイ)


 外国の事はよく分かりませんし、どこにも程度の差はあれ

存在するでしょうが、日本は「均質化」の圧力が強い国だろ

うと思います。「同調圧力」とも言われますが、さまざまな

事に〈暗黙の基準値〉を設けて、そこに「合わせよう」「合

わせさせよう」というプレッシャーが強い。

 それが、“社会的モラルの高さ” などの良い面を生んでい

る所もあるけれど、“どうしてもその基準値に合わせられな

い人” を、「全人格的に否定する」という場面がよくある。

 誰もが、お互いに〈暗黙の基準値〉にプレッシャーを感じ

ているので、自分が有利な場面では、「基準以下」の人間を

スケープゴートにして、自身の「基準以下」の部分が目立た

ないようにするのでしょう。


 だれにでも、得意な事と苦手な事がある。

 出来る事と出来ない事が有る。

 そんな当たり前のことを、なぜ無視しようとするのでしょ

う?


 出来ないことを、無理して出来る様にする必要は無いし、

苦手な事をすべて無くすなんて出来るわけが無い。

 (小学校の頃、給食の牛乳が飲めなくて、昼休み中

  先生の前で黙って牛乳を睨んでいた同級生を思い

  だします。今なら、虐待だよなぁ。)


 それぞれが、自分の出来る事、得意な事で周りの人や社会

と折り合いを付けて行けばいいし、そうする以外ないでしょ

う?


 苦手な事を、無理してがんばっても、がんばらせても、効

率が悪いし、本人も辛いだけ。なのに、何故そんなことをや

ってるのでしょう? 何を求めているのでしょう?

 《 適材適所 》という言葉が日本にはあって、教育の現場

や組織の中でも結構使われているはずなのに、現実は《 配

材不適所 》のゴリ押しが横行している。


 人間の標準的な適応度は高いので、どんな仕事でもある程

度はこなせるものです。だから《 適材適所 》にこだわり過

ぎると、物事が上手く運びませんし、やったら出来る事を

「出来ない」で済ませてしまうことにもなりかねません。

 ですが、そんなことは少しやらせて見れば、すぐに分かる

ことです。なのに「出来そうもない」と分かって来ても、さ

せ続けて、「なぜ出来ない!」とバカにしたりする。


 なんなんでしょうね。

 人を見る目が無いのか? 

 対応が面倒くさいのか? 

   サディストなのか?

 いずれにせよ、「性格悪いよ!」


 ね! 人の性格を、ああだこうだと批判してる人間は、自

分も同じ目で見られてしまう。どっちも損です。


 “性格” なんて言葉は、廃棄するか、使い方を考え直し

て、《 適材適所 》で「出来る人が、出来る事をする」よう

にして、“お互い様” で楽に暮らせればいいのにね。

 そうしたいと思いません?




 性格の事ではないけれど、《古井戸》という昔のフォーク

デュオ(加奈崎芳太郎と仲井戸麗市=後にRCサクセション

に加入)の「お前と俺」という曲の中に、こんな詞がありま

す。


   信ずることが 愛ならば

   信じすぎることは 裏切り


 仕事や学校なんかの人間関係には関係ないけれど、夫婦や

親子、友人の間であれば、似たような事が言えるんじゃない

かな?

 求めすぎてはいけないんですよ。




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