2017年9月10日日曜日

ボクらはみんな生きている けど、「生きなければならないの?」


 ぼくらはみんな生きている 生きているから歌うんだ


 懐かしいなぁ。小学校の “うたの本” に載っていたし、 

毎日の様に校内放送で流れていた。

 今の小学生も知っているのだろうか?


 ぼくらはみんな生きている。


 ぼくらはみんな、生きたい。

 人間に限らず、どんな生物だって生きたい。

 それを「望む」というより、「生きたい衝動」というもの

がある。生き続けようとする。

 それがなぜかは知る由もないけれど、少しでも長く生きよ

うとしている。

 けれども人間に限っては、自ら命を絶つ事がある。

 生物としては狂ってる、と言えそうだ。

 とは言うものの、そんなに生きなければならないのか?

 どのみち死は避けられない。

 どうせ死ぬのに、なぜ生きる?

 
 この夏も、うちのキンモクセイから十数匹のセミが羽化し

た。

 捕まえようと手を伸ばすと、さっと飛び立つ。

 そこには「生きたい」という衝動がある。

 その一方で、寿命の尽きかけたセミが、地面でバタバタと

羽根を動かす姿を何度も目にした。

 私は、その姿から「生きたい!」という衝動の様なものは

感じなかった。

 「まだ死んでないから、動いてしまう」だけの様に思え

た。

 仰向けになって動かないから、死んでいるのだと思ってい

ると、いきなりバタバタと羽根を動かすのでビックリさせら

れる。そして、しばらくじっとしていたかと思うと、またバ

タバタと飛ぼうとする。

 そんなことを数時間も繰り返しながら、やがて本当に動か

なくなってしまう。

 そんなセミの中に自分が入った気になってみる。


 飛ぶ力も、木にしがみつく力もなくなり、地面にポトンと

落ちる。

 セミに意識があるのなら、もうこの時には死期がせまった

ことを知るだろう。

 バタバタと羽根を動かしてみるが、それは木に戻りたいか

らではない。尽きかけた命のエネルギーが、動かないことで

溜まり、その溜まったエネルギーが自動的に開放されている

だけだと思う。

 そんな、エネルギーの停滞と解放を繰り返しながら、呼吸

の間隔は段々と長くなってゆく(セミに肺は無いけれど)。

 ながく、ゆっくり、浅くなってゆく息が、止まる時が来

る・・・。

 息が止まり、自ら動くことはもう無い。

 確かに、もう動かない・・・。

 それをわたしたちは「死んだ」と言う。


 何時間かすると、どこからともなくアリが集まって来る。

 羽根を根元から外したり、脚を引っ張ったり、寄ってたか

って運び去る。

 数日のうちに、セミの身体はアリの身体に組み替えられ

る。セミはアリに生まれ変わる。


 一匹のセミは死んだが、その分のアリたちが生まれた。

 命は姿を変えて続いて行く。


 そんな姿を見ていると、個体にとって、生きる事は他動的

なものだと思わざるを得ない。

 「生きたい!」という衝動は、一匹のセミの中に生まれる

ものではなくて、生命界全体から一匹のセミに注がれるもの

に思える。
 

 枝先に産み付けられた小さな卵から孵り、木を降りて土に

もぐり、木の根に取りついて樹液を吸い続け、数年をかけて

て成長し、その時が来れば地上に出て、空を飛び、子孫を残

す。そして、ほんの2~3週間で死んで行く。

 その営みを遥かな太古の昔から繰り返して来た・・・。


 一匹のセミは、セミという命の在り方の、一匹分を、一匹

分として全うするだけではあるけれども、それは生命界から

託された “絶対の一匹分” であることは疑い無い。他に代わ

りは無い。


 羽化に失敗して死ぬこともあるだろう。ヒヨドリに喰われ

てしまったり、蜘蛛の巣にかかってしまったりして、子孫を

残せずに終わることもあるだろう。無数のセミたちの中に

は、子孫を残せる者と残せない者があるけれど、それぞれは

全体として命を繋げてゆく営みの中では、等価であると言え

る。

 ただ託された命をそのままに生きることがすべてであっ

て、そこに成功も失敗も達成も挫折も無い。


 一匹のセミは “一匹のセミ” として。

 一本のキンモクセイは “一本のキンモクセイ” として。

 一匹のアリは “一匹のアリ” として。

 一人の人間は “一人の人間” として。

 生命界の一端を、宇宙の一時を 、“絶対の自己” として全

うする。

 「“ただ自己を生きる事” が、成されるべきことなんだろ

うな」と思う。


 セミたちは「ただ生きる」だけ。

 人間も「ただ生きる」だけだと思う。

 しかし、人間の場合は「生きること」「生き続けること」

が欲望であったり、義務と見なされていたりする。

 「生きたい」という欲望はともかく、「生きなければなら

ない」という義務はあるのだろうか?

 わたしたちは、「生きなければならない」のだろうか?
 

 戦争などになると、自分が生き残る為に、同じ人間を殺さ

なければならない。そこには「生きたい」という欲求と衝動

が働く。時には、自分一人が生き残る為に、何人もの人間を

殺さなければならない事もある。そこまでして、人は「生き

なければならない」のだろうか?


 競争と闘争の社会にあっては、自分が生き残る事は、他者

が死ぬことを意味する  社会的に、あるいは実際に。

 「生きなければならない」義務があるのなら、負けた者は

単なる “敗者” ではなく、「義務を果たせなかった “人でな

し”」になってしまう。これは、ちょっと酷い・・。承服し

かねる。


 「生きなければならない」のは、競争と闘争の社会の中で

は、エゴの欲求であって、義務では無い。

 経済優先の今の世界で、「生きなければならない」と思わ

されるのは。社会のプレッシャーからのものであって、生命

界からのものではないだろう。
 

 「生きなければならない」という想いに、 “悲壮感” や 

“絶望感”  が纏いつくのであれば、それは社会のプレッシャ

ーだと思っていいだろう。そんな「生きなければならない」

は、無視していい。


 「無視していい」というのは、「死んでいい」と言ってい

るわけでは無い。

 「生きなければならない」という考えを、消してみる事で

す。

 それを消した時、果たして自分は「死のう」と思うだろう

か? 命はどう流れて行くだろうか?


 「生きなければならない」という想いが浮かぶ時は、わた

したちが厳しい局面に立たされている時でしょう。

 もしかしたら、生きる事に強い執着を見せなければ死んで

しまうかも知れません。

 ところが、「生きなければ」という “足掻き” が返って自

分を自分で追い詰め、さらなる窮地へ嵌まり込んでしまう事

もよくあるでしょう。


 「“生きなければならない” ことはない」


 「生きなければならない」なんて思っているのは、人間だ

けですよ。

 人間だけが、生きる事を大事(おおごと)にしてしまって

いる。

 そりゃぁ、セミだって、オケラだって、ミミズだって、ア

メンボだって、生きてる限りは「生きたい!」と思っている

でしょう。

 でも、その「生きたい!」はシンプルなものでしょう。

 込み入ったものでは無い。

 ましてや「生きなければ!」なんて芝居がかったことは考

えやしない。(アブラゼミがそう言ってました!)

 「生きているから、生きている」

 ただ、そんなことでしょう。


 「生きなければ」なんて思ってしまうわたしたち人間は、

余計な事を考えて、「生きること」を台無しにしているのだ

と思うんです。

 いったい、何を「生きよう」としているのでしょうか




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