2017年12月20日水曜日

ビットコイン~また、やってら。


 ビットコインのことが、しばしば話題になる。

 私には全然関係ない話で他人事だけど、まぁ、人は歴史か

ら学ばないということを改めて確認する事柄ではあります。

 日本でバブルがはじけたのは、たった三十年ほど前だし、

リーマンショックはついこの間。ほんの少し歴史を振り返れ

ば、ビットコインの盛り上がりは “狂乱” だと分かるはずな

んだけど、やってる連中は自分のアタマの中のアドレナリン

やらドーパミンやらに陶酔して、もう後戻りが出来ないんだ

な。乱痴気騒ぎが終るのは、もうすぐだろうけど。


 金を儲けるということについて、随分昔(平成6年)に新

聞に投書したものが採用された事がある。今読み返しても古

くなっていないので、ちょっとここに載せてみよう。


 相変わらずの不況で、誰もが物価が下がること、収入が増

える事を望んでいるが、よく考えてみるとそんなことはあり

得ない。

 そもそも物には値段はなく、物の値段とはそれに関わった

人の手間賃だから、ある人の給料が上がればその人の関わる

物の値段が上がり、それを買う人は値上がりした分だけ自分

の給料が上がらねばならない。そうなると、その分また物価

が上がる。そうして物価と給料は同じだけ上がり続ける。

「ご苦労さん」のいたちごっこだ。

 もし物価の上昇より収入の上昇の方が大きいというのな

ら、それは誰かが搾取されているからだ。日本が富むために

アジアが、欧米が富むためにアフリカや南米が、人間が富む

ために自然が、というように。

 他人を食ってでも物質的に栄える方が好きだと言うなら仕

方ないが、その強がりの裏で、われわれは疲れ切っていると

言うのが、正直なところではないだろうか。


 という文章だけど、人が他人より儲ける為には、誰かか

ら・何かから搾取しない限りはまず不可能だ。


 先日、ネパールの奥地の不毛の土地で稲作などの農業を成

功させ、貧しい地域を救った日本人のエピソードをテレビで

観たけれど、搾取せずに豊かになった奇跡的な例だろう。

 普通に農業を始める場合、田畑を広げても、果樹園を広げ

ても、もともとそこに棲んでいる生き物から、生息場所を奪

う事になる。それは搾取です。

 例えば、焼畑農業には二種類あって、ひとつは森を焼いて

畑にし、数年使った後に別の場所へ移動して、畑は森へ還す

というやり方で、ただ人間が移動して行くだけで、そこに搾

取は無い。

 もうひとつは、森を焼いて畑をどんどん広げて行く  ア

マゾンなどで行われている  やり方で、ひたすら森から搾

取し続けて行く。そして、人が増えるか、経済的に富を増や

すかしてゆく。そして同じ事が、人間同士の間で行われるの

が、いわゆる経済活動。


 権力や武力を握った者や、世渡りの上手い者が立場の弱い

人間の〈本来性〉を食い広げて、一方的に富んで行き、弱い

者は物理的に経済的に、あるいは精神的に住処を奪われてゆ

く。

 しかも、これは人間同士の間だけでは収まらず、必ず自然

破壊を伴う。

 「豊かになりたい!」という欲求は、〈余剰〉を生み出す

ことの陶酔に他ならないから。

 自然から収奪しなければ、〈余剰〉は生み出せないから。

 (先のネパールの例などを除いて)


 人間はエゴイスティックな喜びを得たいが為に、数千年前

から相も変わらず余計な事をして、自然と同胞を引っ掻き回

している。


 ビットコインで儲けて、ヘラヘラ笑っている連中をテレビ

で観ながら、「あぁ。人間だなぁ」と、こちらは「フッ」と

笑う。

 「ご苦労さん!」

 (ほんとの「ご苦労」はこれからだろうだけどね)




2017年12月18日月曜日

「不安」にお引取り願いたいのだが・・


 不安です。

 「何が?」と聞かれそうですが、ありとあらゆるものが不

安です。というか、“不安材料” です。

 不安ですねぇ。

 と言っても、私の事ではありません。

 人間一般についての事です。

 もちろん、私も不安です。前にも書きましたが、私は心配

性なので、よく不安になってしまいます。(そんな人間がよ

くもまぁ、こんなブログで分ったような事を書いてるもんで

す)



 人が不安を感じる時は、どういう時か?

 「嫌な目に合うのではないか?」

 「嫌な目に合わされるのではないか?」

 と、思ってしまう時ですね。



 「嫌な目に合うのではないか?」ということで、言い切れ

るんですが、「嫌な目に合わされるのではないか?」とあえ

て別に言うのは、人が不安に感じる事のかなりの部分に人間

が関わっているからです。

 人が関わらない不安というのは、災害や病気やケガという

事に限られていて、それ以外は、すべて人との関わりの中で

の不安です。さらに言えば、災害や病気やケガに対する不安

にも、人が大きく関わって来ます。

 地震や水害で家が壊れると、家のローンや修理費など経済

的な問題が持ち上がって来ますが、そこには当然人が関わっ

て来ます。

 病気やケガをしても、大きな病気やケガをしたら治療費が

心配になりますし、「自分が働けなくなったら、家族や従業

員が困る」という様に、自分と関わる人の事を考えて辛い思

いをしたりもします。

 結局のところ、人が関わらない不安というものは、それほ

ど多くはありません。

 不安を生み出す理由の大部分は、人との関わりです。

 そして、不安を生み出す原因は、自分のエゴと、自分に関

わる人間のエゴです。

 自分のエゴと、自分以外の人間のエゴは当然ながら別の物

です。離れています。この、“エゴとエゴの距離” が不安を

生み出します。


 熱愛中の恋人同士は、少し離れるだけで不安になります。

 そばに居たはずの子供の姿が見えなくなったら、親はすぐ

不安を覚えます。

 「恐い上司に明日も合わなければならない」と思うと不安

になるのは、自分と上司の考え方に距離がある(違う)から

です。

 お金が無くて不安になるのは、必要なだけのお金を持って

る自分  こうあってほしい自分  と実際の自分の間に距

離があるからです。



 こういった “距離” を無くすことがことが出来れば、不安

も消える事になります。でも、どうしたもんでしょう?



 恋人や家族の間の不安を無くすには、手を握ったり、肩を

寄せたりと、実際に身体をふれあって距離をなくすことで、

不安を解消出来る場合もあります。けれど、恐い上司の手を

握ったりすれば、状況はさらに悪化しそうですね。

 お金が無いのも、お金を稼ぐ以外どうにもなりません。ス

ーパーのレジ係のお姉さんの手を握っても、タダにはしてく

れません。警察に通報されてしまうでしょう。

 さて、どうしましょう?

 どうやって、“距離” を無くしましょう?



 “距離” があるのは、自分と相手が別の人間だからです

が、仲の良い家族の間では不安は生じません。家族といえど

も、自分とは別の人間だという事には変わりはないのに、何

故でしょう?

 わたしたちは、普通、家族のことを自分のアイディンティ

ティの構成要素として、自我の中に組み込んでいます。その

為、自分と家族の間に距離が出来ないんですね。だから不安

を感じない。

 だったら、他人のことも自分のアイディンティティの中に

組み込んでしまえば、距離が無くなり、不安を覚える事もな

くなるはずです。実際、友達や恋人や信頼できる仕事仲間な

どに対しては、その様にしているのです。

 ですから、それ以外の人に対しても同じように接すればい

いわけです。メデタシ、メデタシ・・・・というわけにはい

きませんね。



 友達・恋人・仲間であっても、家族であっても、そこに 

“距離” が生まれてしまう事があります。誰しも経験するこ

とです。

 自分と “同じ” だったはずの人との間に、考えの違いが露

呈した時。相手が自分の想定とは違う行動をとった時、その

人は自分から分離してしまい、自分とは別の人になります。



 近い人間との間でも、その様な事がよく起こるのに、それ

以外の人間を自分のアイディンティティの構成要素に組み込

むことは、非常に困難でしょう。では、自分が相手のアイデ

ィンティティに組み込まれるのは?



 許せないでしょうね。

 「なんで自分が相手の一部にならなければいけない?それ

も家族でもない人間の為に!」

 そう思うのが普通ですが、意外や意外、このパターンは結

構起こります。カルト集団の指導者と信望者の関係がそれに

当たります。宗教的集団や主君と家来、あるイデオロギーに

心酔した結社のリーダーとメンバーなどですね。

 こういったの人間関係の中では、リーダーや仲間や主義の

為に命さえ投げ出したりしますが、これらの人間関係は疑似

的な家族関係に見えます。親子の間の様に、距離がありませ

ん。

 ここでは、相手の為に自分を放棄している様にも見えます

が、心理的には、自分より強く大きい(と思える)相手の自

我に、自分を組み込むことで、自分が強く大きくなった様な

気になるんですね。大型トラックを運転するドライバーの様

なものでしょうか。

 なんにせよ、その相手がバカだったら、いずれは共倒れに

なります  バカを見抜けないということは、本人もバカと

いうことですが。



 やはり、自分を相手のアイディンティティに組み込むのは

辞めた方が無難でしょう。

 では、どうやって人との距離をなくすか?


 自分が無くなればいいのだと思います。

 無くなって、空気の様な存在になってしまえばいい。空気

の様になって、世界に遍満してしまえば、あらゆる物との間

に距離は無くなってしまう。

 距離は無くなるけれども、人の中に組み込まれてしまう事

は無い。

 人との距離が無くなることで不安は消え、自分が無くなる

ことで不安を感じる主体も無い。

 人との距離が無くなることと、自分が無くなることとは同

時に起きる。そして、一切の不安が消える。


 「また、それか・・・」

 そう、またこれです。

 同じ事ばっかり書いてます。

 自分のエゴが、不安の根源です。

 自分のエゴが、苦しみのもとです。

 アタマ(エゴ)が悪さをします。



 それしかないのです。

 自分のエゴを無くすという方針で行くしかない。

 それ以外の方法は世界征服しかないのです。(極端なこと

を言ってるように思うでしょうが、グローバル企業のCEOな

んかが考えている事は、結局そういうことだと思いますよ)

 誰も、他人の為に自分のエゴを無くそうなんて考えてはく

れませんからね。自分のエゴを何とかするしかないのです。

 自分の為には、自分のエゴを無くすことが、唯一の安らぎ

への道です。(きっと、カルト教団の教祖なんかは、こんな

事を言うのでしょう・・・。大丈夫か?・・・。)

 ・・・ちょっとアブナイ感じもしますが、やっぱりそうな

んですよ。

 わたしたちに最も悪さをするのは、やっぱり “自分のアタ

マ” なんです。

 他人とだけではなく、過去や現在の自分と、想像上の未来

の自分を較べて、その違いを嘆いたりします。その思考が距

離を生み出します。

 あれこれと考えて、さまざまな事を問題視して、アタマは

わたしたちに余計な事をささやきます。そのささやきに惑わ

されて、わたしたちは自分の周りの世界からはぐれてしま

う。

 このアタマを黙らすことが出来れば、わたしたちは周りの

人々や世界との  心理的な  距離をなくし、不安から解

放されるのです。



 では、どうするのか?

 「アタマはロクな事をしない」と、徹底的に自分に言い聞

かせ、常にそれを意識しておくこと。

 「また、アタマがバカなこと言い出した」

 「また、アタマがろくでもないこと考えてる」

 そんな風に、“アタマの傍観者” になって、アタマと距離

を置く。

 アタマが出しゃばって来るたびに、

 「主役はオマエじゃないよ」

 と、たしなめる。
 

 人との距離を縮め、世界を穏やかなものにするには、自分

のアタマと距離を置くしかない。

 少なくとも、自分の世界は、それで穏やかになる。

 個人に出来るのは、そこまでですね。




 

2017年12月15日金曜日

不老不死のお馬鹿さん


 《見るべき程のことは見つ》という平知盛の言葉にからめ

て前々回のブログを書きましたが、彼は享年三十四歳。もし

も、八十まで生きていたら、退屈で仕方なかったかも知れま

せん。

 私も「もうそんなに驚くような事はないなぁ」と思ってい

るのですが、世の中には「不老不死」なんてことを本気で望

んでいる人も居る様で、それには驚いてしまいます。(ほん

とは、「驚く」のではなくあきれているのですが)

 人間は、たぶん100年も生きたら、もう飽きてしまうだろ

うと思うんですが・・・、そう思いません?


 時代が変わって、世の中の出来事が変わって行けば、新鮮

な経験が出来ると思いますか?


 どんなに新しい経験をしたとしても、それを受け取るわた

したちの感覚と意識には、受け取る形式の限界がある様に思

うのです。


 気持ちよさも、驚きも、怖さも、その他の情動も、それぞ

れに感じるパターンの数に限りがある様に思います。

 気持ちよく感じるメロディーや和音のパターン、怖さや悲

しさを感じさせるシチュエーションの数。

 そういったものには、数に限りがあって、100年も生き

れば、ほとんど経験してしまっていて、どんなに新しい事が

起ろうが、過去に経験した事の類型の一つに過ぎず、新鮮味

が無くなっているだろうと思うのです。


 わたしたちの意識は、経験したことをどんどん整理してい

きます。カテゴリーに分けたり、さまざまにランク付けした

り、関連を記録したり・・。

 その結果、経験したすべては類型化されてゆき、歳をとれ

ばとるほど、新しい経験もそれまでに経験した事の類型とし

て、たいした刺激をもたらさずに処理されてしまうでしょ

う。その様になっているからこそ、わたしたちは経験を積む

程に、仕事でもプライベートでも、新たな出来事に落ち着い

て対処することが出来る様になります。


 ほんとうに「不老不死」になって、200年も生かされた

ら、心底飽きてしまって、「頼むから、もういいかげん死な

せてくれ!」と叫ぶのではないでしょうか。

 200年生きて飽きが来ない様なら、その人間の感受性はザ

ルの様に出来ていて、飽きない代わりに、喜びも感じられな

い事でしょう。そのような感受性なら、1000年生きよう

が、100000000年生きようが石ころが転がっているのと変

わりません。「『不老不死』をお求めなら、お好きにどう

ぞ!」と思いますね。


 「長生きしたい!」と切実に思う様な人は、自身の感性を

“閉じて” 生きて来た人ではないでしょうか。

 “何か” を怖れて、それを見ない様に、聴かない様に、触

れない様に、感性を “閉じて”生きて来た。

 その “何か” とは、〈生の真実〉というべき事で、それを

避けてきたために、「生きた」という実感が無い。だから、

長生きがしたい。長生きして、ほんとに「生きたい」か

ら・・。

 でも、そういう人が長生きしても、結局、感性は “閉じ

た” ままでしょうから、失望の時間が引き伸ばされるだけ

で、「ああ、長生きして良かった!」とは思えないままに死

ぬ事になる様な気がします。


 《見るべき程のことは見つ》というのは、出来事の数だけ

ではなくて、出来事の深さの事でもあると思います。


 《見るべき程のこと》とは何か?

 テーマパークや観光地やスマホの中にあるでしょうか?

 (おっと!自爆ネタだ)
 

 どこにあるかではありませんね。

  “《見るべき程のこと》を見る目” があるかどうかですね。




2017年12月13日水曜日

ムーミン谷で考える


 〈過剰〉=〈悪〉と、以前書きましたが(『アグレッシブ

の脅威』17/4 )、《過ぎたるは及ばざるが如し》とは昔か

ら言います。でも私は《過ぎたるは及ばざるより悪しき》と

思っています。

 人間は、なんでも、すぐに、やり過ぎます。

 やり過ぎて問題を作りだします。

 余計な事をしてしまうのです。



 他の生物と人間の違いとして、言葉を使うとか、火を使う

とか、直立二足歩行をするとか、いろいろ言われますが、私

が思うに人間の大きな特徴は〈余計な事をする〉ことでしょ

う。



 不必要な事をする。

 やり過ぎる。


 他の生き物は、生存と生殖の為の事以外はやりません。暇

な時には、飛んだり跳ねたりすることもありますが、それさ

えもせずに寝ている事がほとんどです。人間だけが変わって

います。

 生き物の目的  というより衝動でしょうか  が生存と

生殖であれば、人間のしている人間らしい行動は、ほぼ全部

〈余計な事〉です。

 ちょっとばかり気分が良かったりするけれど、ただそれだ

けの事で、エネルギーの無駄遣いです。


 子供の頃、アニメの「ムーミン」を観ていましたが、あの

中に〈ジャコウネズミ〉というキャラクターが居ました。

 〈ジャコウネズミ〉は哲学者で、彼の口癖は「ムダじゃ!

ムダじゃ!」でした。

 人間のする事はムダばっかりです。

 〈文化〉とされる事は、99.99%ムダです。



 スポーツもムダ。芸術もムダ。歌も踊りもムダ。学問もム

ダ。電車も車も飛行機も船もムダ。ビルもダムも高速道路も

ムダ。化粧もタトゥーもハンドバッグもスーツも指輪もピア

スもムダ。お寺も仏像も教会もムダ。スマホもパソコンもイ

ンターネットもムダ。仕事も恋愛も友情もムダ・・・・。何

もかもがムダ。

 〈ジャコウネズミ〉はそう考えています。そうとしか考え

られません。だからいつも不機嫌に、悲しそうに、吐き捨て

ます。「ムダじゃ!ムダじゃ!・・・」。

 そんな〈ジャコウネズミ〉の言葉をムーミン谷の住人は相

手にしませんが、馬鹿にしたり除け者にしたりはしない。

「彼の言う事は間違ってはいない」と、誰もが思っているか

らでしょう。けれど、こうも思っている様です。

 「間違ってはいないけれど、それだけではない」と。



 ムーミンの原作者 トーベ・ヤンソンさんによれば、ムー

ミン谷の住人は、〈バーレルセル〉だそうです。

 架空の生き物ですが、〈バーレルセル〉には、“存在する

もの” という意味があるそうです。



 ムーミン谷の住人は、「確かに、全部ムダだと思うけど、

自分たちも世界も存在してる。怒ったり、泣いたり、笑った

り、喜んだりする自分たちの生も存在している。それは疑え

ない。だから、笑ったり、泣いたり、ふざけたり、しあわせ

を感じたりしたいんだ」と思っている様です。



 「ムーミン」を貫くテーマは、“命・ユーモア・自然・不

思議” ということに集約されるでしょう。


 「ムダじゃ!」と言い始めれば、すぐに最終回答に行き当

たります。宇宙の存在自体がムダです。

 「ムダじゃ!」と言えば、もうそれで終わりです。

 〈言ってはならない真実〉という物かも知れません。

 ですが、それを言う人がいなければならない。〈真実〉は

知っておくべきです。〈真実〉から目を背けると、必ず問題

を生みます。その〈真実〉が重要であればあるほど、問題も

大きくなります。

 「人間のやることは、全部ムダ」

 そこから目をそらすべきではありません。

 それを踏まえた上での、わたしたちの〈生〉です。

 そのムダでしかないものを、ムダにしない為に人はどうし

たらいいのか?



 人間のやることはほとんどムダ。99.99%ムダ。私もそう

思っています。

 けれど、残りの0.01%にすべてをひっくり返す鍵があ

る。

 それは、ムダだと気付いていること。気付いている自分が

在ること。ムダに走り回ってる自分たちを笑ってしまえるこ

と・・。


 ムダな事しか出来ないのは人間の業。

 ムダな事を止めることが出来ないのがわたしたちの業。

 それならば笑ってしまおう!

 ムダに右往左往している “自分” と “世の中” を、野次馬

になって観ていてやろう!

 ムダに走り回ってる自分を遊んでしまおう!

 ムダな事ばっかりしか出来ない自分と世の中を泣こう。

 ムダな事ばっかりしか出来ない自分と世の中を許そ

う・・・。



 そうやって、ムダがほんとにムダだと分かった時、人は他

の生き物以上に自由になるんじゃないだろうか?

 本当のしあわせを知ることになるんじゃないだろうか?

 いや、本当にしあわせになるのだ。



 道元禅師の「正法眼蔵・弁道話」の中に《放てば手に満て

り》という有名な言葉がありますが、わたしたちは常に目的

意識を持ち、何かを手に入れようとしている。

 余計なもの、ムダなものと思わず、いつも何かをつかもう

としている。そして、何かをつかむとそれを放そうとはしな

いが、つかんでいると、つかんだ物しか手に出来ない。しか

し、そのつかんだ手を放すと・・・。

 全世界が掌の上にある。

 《放てば手に満てり》


 ムーミン谷のキーパーソン〈スナフキン〉は禅僧の様だ。

 余計なものに自縄自縛になってるわたしたちに、「手を放

し」「命と遊ぶ」ことを促す。

 ムーミン谷の住人のように、屈託なく、素直に、自然に、

「等身大の自分で世界に遊ぼう」と。





2017年12月11日月曜日

『見るべき程のことは見つ』


 気付くともう十二月になっていて、振り返るといつも、あ

っという間に時が過ぎている。今年もいろんなニュースを

見て、身のまわりでさまざまな出来事が起こったけれど、年

をとるにつれて、まわりで起こる出来事が類型化されてき

て驚かなくなる。

 「これは、あの時の、あの件に似てる」

 「あれは、いつぞやの、あれにそっくりだ」

 「あの人は、昔一緒に働いてた、あの人に似た性格だ」

 そんな風に、新たな出来事や人に出会っても、同じ様な経

験をしたことが多くなっていて、驚いたりするよりも、「ま

たか・・」という感覚になることの方が多い。自然現象も

人間のすることも、大抵、見聞きしたり経験したことがあっ

て、そこには細かい違いがあるだけで、世の中も人間のする

事もそれまで経験した事と本質的な違いは無い。



 物心ついた時には、もうテレビがあって、学校で色々な事

を学び、本を読み、インターネットが生活に入り込み、個人

の頭の中には入り切らないほど膨大な知識を取り込みながら

生きて来たわけだから、もう実体験と疑似体験を持ち過ぎて

いて、まったく新しいと思える事が現れて来ない。


 平 知盛は、〈壇ノ浦の戦い〉で『見るべき程のことは見

つ』と言って、自害した。三十四歳だった。

 知盛の人生は、私のような平凡な人生ではないので、それ

こそ「見るべきもの」がたくさんあっただろうが、現代は知

盛の時代に較べると、その情報量は桁違いだし、私は二十年

ほど長生きしているので、『見るべき程のことは見つ』と私

が言っても、おかしくはないだろう。ホント、「見るべき程

のことは見た」。



 国や人類が滅ぶような事は見てないわけだが、歴史上にそ

の様な事があったのは知っているわけで、「知るべき程のこ

とは知った」。その点では、知盛より知っている。

 その結果、「えーっ!」と驚くようなことは、せいぜい年

に1~2回しかない。


 ニュースやCMやドラマやドキュメンタリーを見ても、自

分のまわりを見ても、登場人物の名前や道具立てが違うだけ

で、ストーリーは変わり映えしない。人は、何千年も変わら

ず、浅はかで、強欲で、病気で、怖がりで、分かったような

振りをして右往左往し続けている。



 エンターテイメントもスポーツも芸術も、最早、ほんの僅

かな違いを見せる事しか残されていない状況の中で、その僅

かな違いを、大袈裟に驚いて見せているに過ぎない。

 私個人が『見るほどのことは見つ』という状況になってい

るだけではなくて、世の中全体が、人類の文化のどん詰まり

に来ていて、『見せられるほどのことは見せつ』という状況

なんだろう。



 一昨年の「東京五輪エンブレム問題」なんか、当事者の佐

野研二郎氏は気の毒なものだと思う。(盗用の有無や、他の

仕事についての批判の事実関係は置いといて、一般論とし

て)

 人が、デザインすることを始めて、何千年も経つし、商業

ベースでデザインし始めてからでも数百年になる。今までの

どんなデザインにも似ていないデザインなど作れるわけがな

い。それが、文字などの制約の多いものなら尚のことだ。

 世界中の古今のあらゆるデザインが、膨大なデータベース

として閲覧・検証可能になっている時代にデザインをするの

だから、ある程度以前の物に似てしまっていたとしても、容

認しなければ、デザインという仕事自体が立ち行かなくなっ

てしまうだろう。



 言葉であれ、デザインであれ、メロディーであれ、人が

「美しい」とか「気持ちいい」と感じることは決まってい

る。そんな「美しさ」や「気持ちよさ」に合致するものは、

もうずっと前に出尽くしている。

 後に選ばれた五輪エンブレムのデザインだって、厳密に調

べれば、きっと似たものがあるだろうし、「自分のデザイン

を盗用された」とした、オリビエ・ドビ氏がそれまでに手掛

けたデザインの中にだって、探せば過去に似たものがあるに

違いないと思うけど。

 デザインが似ているからといって、ドビ氏に不利益が生じ

ることも無いと思うのに、「狭量でセコイ話だなぁ」と、当

時思っていた。(別に佐野氏に、縁もゆかりも無いけど)



 もう、文化もテクノロジーも、本質的に新しいものは生ま

れないだろう。


 AIが進歩して、新しいものをもたらすだろうか?

 私は否定的だ。

 AIが人に向けて何かを作り上げたり、何かを見せてくれ

たりしても、それが人に向けたものである限り、人の感性や

理解力から外れる事はないのだから  そこから外れると、

認識も理解も出来ない  それは以前に見たことがある物の

バリエーションにとどまらざるを得ない。



 人間の文化、人間のストーリーは、もうどん詰まりまで来

ている。

 “最終回” は近いだろう。それが、“〈第一部〉の終り” で

あって、“〈全巻〉の終り” でないことを願うが・・・。

 〈第二部〉はあるのだろうか・・・。



                                --- to be continued---(かな?)




                                                   
          

 

2017年12月10日日曜日

最近は、


 最近、思う。


 いつ死んでもいいし、いつまで生きてもいい。


 どちらにせよ、積極的に生きる気持ちが無い。

 ただ単に、「見せて貰えるものは、見せて貰おう」という

感じで毎日を過ごしている。

 その「見せて貰えるもの」を、美しいとか面白いとか微笑

ましいとか感じられる様に、自分を整える事に意識を優先さ

せている。いや、優先させるように心掛けている。
 

 今、自分が在ることが不思議でたまらない。

 この、ここに在る自分は、本当に自分と言っていいのか?

 これって、何だろう?


 生きる為に生きなければ、死んでしまうと分かっているけ

れど、どうも実感が湧かない。積極的に「生きなければ」と

か思えない。自分というものの存在価値が分からない。


 昔は、ペシミスティックに「自分の存在価値が分からな

い」と思ったりしたけれど、今は素直に「自分の存在価値が

分からない」。

 世界のありとあらゆるすべてをひとつと観て、はじめて存

在価値が見えてくるように思うから、私という極小の一面な

ど、価値と言えるほどの意味は持たない。もちろん今の私に

は、世界のすべての価値や意味など知り得ないが。


 ただただ、生かされるままに生きて、死なされるままに死

にたいと思うのだけれど、浮世の義理もあるので、そういう

わけにも行かない。「そういうわけにも行かない」というこ

とが、“生かされるまま” の現れなんだろうから、そうする

しかない。合わせ鏡を覗く様に、世界が確定しない。


 自分が、困ってるような気もするし、安心し切っている様

な気もする。なんだかよく分からない。もしかすると心の病

かも知れないが、たぶん違う様だ。


 世の中に生きているので、浮世の義理を果たす為に、生活

上の最低限のお金は必要だけれど、それ以外の事に対して必

要性をあんまり感じない。以前に較べると、そういった気持

ちがかなり希薄になった様に思う。

 「生きなければならない」とは思わないし、「生きていた

くない」とも思わない。

 “生きていること” は面白いけど、「どうせ終わる事だ

し」という “軽さ” も感じる。「さほどの事か」と思ったり

もする。

 バカバカしい出来事  人間の右往左往  を見ている

と、「もう終わりにして貰ってもいいけどなぁ」と思うし、

美しい風景や、生き物や人間の子供のこだわりの無い姿を見

ていると「ちょっと長めに生かして貰うのもイイかな」とも

思う。まぁ、どちらにしろ私の決められることでは無いんだ

けど。


 何故生きる?

 「知らない。」


 生きなければならないのか?

 「さぁ?」


 とりあえず、今、生きている様だから、自分の心が〈おだ

やか〉に〈しあわせ〉に〈おおらか〉に在るように保ちた

い。

 風も雨も地震にも動かせないホログラムの様になって、

静かに “ニッコリ” と  あるいは “クスッ” と  笑って

い続けたいなぁ。死ぬ時まで。

 〈自分〉が邪魔だね。








2017年12月9日土曜日

一番欲しいもの


 人が一番欲しいもの。

 個人的な望みは別にして、一般論から言えば、“自分を理

解してくれる人” ではないだろうか。


 「わたしのことを分かってくれない・・・」

 人の悩みとは、結局それにつきる。



 「分かってくれない」から、自分に不愉快な言動を向けて

くる。

 「分かってくれない」から、自分をサポートしてくれな

い。

 「分かってくれない」から、仲良くなれない・・。



 例えば、借金が返せなくなって、「わたしの状況を分かっ

ていたら、ムチャな請求なんて出来ないはずなのに、あの人

は冷たい」とか思ったり。

 食事を美味しいと言うことがない夫の事を、「わたしがど

れだけ毎日の食事を考えるのに苦労してるか、何も分かって

ないんだ・・・」と腹立たしく思っていたり。

 医者の診断や対応に不満を持ったりした時、「わたしの状

態が分かってないから、あんな風な言い方するんだ」と思っ

たり。

 上司に急な仕事を言いつけられて、「わたしが今忙しい事

ぐらい分かってるはずなのに!」とムカついたり。

 日々の生活の中で「わたしのことを分かってくれない」と

いう思いが、誰もの心の中で渦巻いて、人を悩みへと引き込

んで行く。


 ホント、「わたしのことを分かってくれない」ですよね。

 みんな思ってます。

 「なんで、こんなにわたしのことを分かってくれないんだ

ろう!」と。


 みんなが「分かってほしい」と思っている側で、「分かっ

てあげよう」という人はあんまりいないので、結果的に誰も

が「分かってもらえない」まんまなんですね。

 尚且つ、現代は異常に忙しい。他人のことなんか「分かっ

てあげてる」暇が無い。他人の事どころか、自分の事さえ

「分かってあげる」暇も無かったりする。だから過労死なん

かが起きたりする。


 私も、自分の事を「分かってもらいたい」けれど、ほぼ諦

めてます。(こんなブログを書いてるようなメンドクサイ人

間ですから、なおさらですね。逆に言うと、分かってもらえ

る人を求めてこのブログをやっているのでしょう)

 諦めて、「分かってくれる人がいないのが普通」という腹

の括り方をすると、ちょっとサバサバして楽になります。

 「分かってもらいたい」欲求が減って、その分欲求不満も

減るわけです。《少欲知足》ですね。


 誰も「分かってくれない」でしょ?

 みんな、自分の事で精一杯です。

 人のことを構ってる余裕なんか無い。

 みんな世の中に振り回されて忙しすぎるし、そもそもみん

な人間という “出来損ない” です。訓練でもしなけりゃ、他

人のことなんか分からない。修行しなければ、自分の事さえ

分からない。

 誰も分かってくれません!


 もしも、「自分のことを分かってくれる」人に出会えた

ら・・。それは、百万人に一人の稀有な人にめぐり会えた事

です。幸運に感謝しなければなりません。
 

 そこまでいかなくても「自分のことを分かろうとしてくれ

る」人に出会えたら・・。ありがたい事です。敬意を持って

接する必要があります。

 では、〈敬意〉とは何か?

 〈敬意〉とは、「相手のことを分かろうとしてあげる事」

でしょう。


 「自分のことを分かろうとしてくれる」人は、自分に〈敬

意〉を持って接してくれたということです。

 一方で自分の方は、「分かってほしい」という要求だけ

で、相手の事を「分かろう」としていない〈敬意〉の無い人

なんです。

 人に対する〈敬意〉を持たない人に〈敬意〉を持って接し

てくれる人なんて稀有な存在です。そうでしょ?


 みんなが「自分のことを分かってくれない」と思っている

ということは、みんなが人に対する〈敬意〉を持たないとい

うことですね。

 〈敬意〉を払われる事の無い人間関係の中に居れば、嫌に

なって来ても当然です。なおのこと「分かってくれない」と

いう思いがつのります。


 「分かってくれない」と嘆く気持ちが湧いてくるのはもっ

ともですが、同時に「分かってやらない」ことで他人を嘆か

せてもいることに気付けない。

 普通、人間関係はギブ・アンド・テイクです。一方的に利

益を求められる関係を長く続けられる人は、そうそう居るも

んじゃありません。要求が優先する人との人間関係は、まず

破綻します。

 少なくとも、「分かってもらいたい」と思うのと同時に、

「分かってあげよう」という姿勢がなければ、その人間関係

は悩ましいものになるでしょう。


 人を深く理解する為には、人間に対する深い洞察力が必要

です。けれども、そんな洞察力を持ち合わせる人はとても少

ない。「分かってくれる」ところまでいかなくても、誰かが

「分かろう」としてくれるだけでも感謝していいことだと思

います。そこから初めて、人間関係というものが出来てくる

のだと思うんです。

 お互いに相手を「分かろう」とする姿勢を持っていない関

係なんて、そもそも人間関係なんかじゃない。

 要求し合う、利害関係だか闘争関係なんでしょう。ウンザ

リして来て当然です。


 「分かってくれない」というのが、“親などから無言の圧

力を受けている子供の切実な思い” といった場合もあって、

そういうのは別ですが、普通は「分かってくれない」が単な

るエゴの要求でしかない事も多いでしょう。そんな他人のエ

ゴなんか放っといたほうが良かったりしますが、それでも

「分かろう」という姿勢を持つ方が良いと思います。


 本当に「分かってあげる」べき人の思いは、分かった方が

いいだろうし、面白いもので、人のことを「分かろう」とし

ていると、人間のクセみたいなことが分かって来て、自分の

ことも「分かって」くるんですね。(逆も言えますが)

 自分で自分に嘘をついていることに気付いたり、すごく狭

いものの見方をしている事に気付けたり。他人のことを「分

かろう」とすることは、自分にとってもメリットのあること

です。

 「分かってもらいたい」のであれば、まず「分かってあげ

よう」とする必要があるでしょうし、自分自身を分かってい

ないことも多いのですから、「分かろう」とする姿勢を持つ

事は、自分自身の幸福に直結しています。


 (なんか、今回はお説教くさいなぁ。けど、書き直すパ

  ワーも無いので、このままにしておきます。

  そのへんのところ、どうか分かって下さい)