2017年12月9日土曜日

一番欲しいもの


 人が一番欲しいもの。

 個人的な望みは別にして、一般論から言えば、“自分を理

解してくれる人” ではないだろうか。


 「わたしのことを分かってくれない・・・」

 人の悩みとは、結局それにつきる。



 「分かってくれない」から、自分に不愉快な言動を向けて

くる。

 「分かってくれない」から、自分をサポートしてくれな

い。

 「分かってくれない」から、仲良くなれない・・。



 例えば、借金が返せなくなって、「わたしの状況を分かっ

ていたら、ムチャな請求なんて出来ないはずなのに、あの人

は冷たい」とか思ったり。

 食事を美味しいと言うことがない夫の事を、「わたしがど

れだけ毎日の食事を考えるのに苦労してるか、何も分かって

いんだ・・・」と腹立たしく思っていたり。

 医者の診断や対応に不満を持ったりした時、「わたしの状

態が分かってないから、あんな風な言い方するんだ」と思っ

たり。

 上司に急な仕事を言いつけられて、「わたしが今忙しい事

ぐらい分かってるはずなのに!」とムカついたり。

 日々の生活の中で「わたしのことを分かってくれない」と

いう思いが、誰もの心の中で渦巻いて、人を悩みへと引き込

んで行く。


 ホント、「わたしのことを分かってくれない」ですよね。

 みんな思ってます。

 「なんで、こんなにわたしのことを分かってくれないんだ

ろう!」と。


 みんなが「分かってほしい」と思っている側で、「分かっ

てあげよう」という人はあんまりいないので、結果的に誰も

「分かってもらえない」まんまなんですね。

 尚且つ、現代は異常に忙しい。他人のことなんか「分かっ

てあげてる」暇が無い。他人の事どころか、自分の事さえ

「分かってあげる」暇も無かったりする。だから過労死なん

かが起きたりする。


 私も、自分の事を「分かってもらいたい」けれど、ほぼ諦

めてます。(こんなブログを書いてるようなメンドクサイ人

間ですから、なおさらですね。逆に言うと、分かってもらえ

る人を求めてこのブログをやっているのでしょう)

 諦めて、「分かってくれる人がいないのが普通」という腹

の括り方をすると、ちょっとサバサバして楽になります。

 「分かってもらいたい」欲求が減って、その分欲求不満も

減るわけです。《少欲知足》ですね。


 誰も「分かってくれない」でしょ?

 みんな、自分の事で精一杯です。

 人のことを構ってる余裕なんか無い。

 みんな世の中に振り回されて忙しすぎるし、そもそもみん

な人間という “出来損ない” です。訓練でもしなけりゃ、他

人のことなんか分からない。修行しなければ、自分の事さえ

分からない。

 誰も分かってくれません!


 もしも、「自分のことを分かってくれる」人に出会えた

ら・・。それは、百万人に一人の稀有な人にめぐり会えた事

です。幸運に感謝しなければなりません。
 

 そこまでいかなくても「自分のことを分かろうとしてくれ

る」人に出会えたら・・。ありがたい事です。敬意を持って

接する必要があります。

 では、〈敬意〉とは何か?

 〈敬意〉とは、「相手のことを分かろうとしてあげる事」

でしょう。


 「自分のことを分かろうとしてくれる」人は、自分に〈敬

意〉を持って接してくれたということです。

 一方で自分の方は、「分かってほしい」という要求だけ

で、相手の事を「分かろう」としていない〈敬意〉の無い人

なんです。

 人に対する〈敬意〉を持たない人に〈敬意〉を持って接し

てくれる人なんて稀有な存在です。そうでしょ?


 みんなが「自分のことを分かってくれない」と思っている

ということは、みんなが人に対する〈敬意〉を持たないとい

うことですね。

 〈敬意〉を払われる事の無い人間関係の中に居れば、嫌に

なって来ても当然です。なおのこと「分かってくれない」と

いう思いがつのります。


 「分かってくれない」と嘆く気持ちが湧いてくるのはもっ

ともですが、同時に「分かってやらない」ことで他人を嘆か

せてもいることに気付けない。

 普通、人間関係はギブ・アンド・テイクです。一方的に利

益を求められる関係を長く続けられる人は、そうそう居るも

んじゃありません。要求が優先する人との人間関係は、まず

破綻します。

 少なくとも、「分かってもらいたい」と思うのと同時に、

「分かってあげよう」という姿勢がなければ、その人間関係

は悩ましいものになるでしょう。


 人を深く理解する為には、人間に対する深い洞察力が必要

です。けれども、そんな洞察力を持ち合わせる人はとても少

ない。「分かってくれる」ところまでいかなくても、誰かが

「分かろう」としてくれるだけでも感謝していいことだと思

います。そこから初めて、人間関係というものが出来てくる

のだと思うんです。

 お互いに相手を「分かろう」とする姿勢を持っていない関

係なんて、そもそも人間関係なんかじゃない。

 要求し合う、利害関係だか闘争関係なんでしょう。ウンザ

リして来て当然です。


 「分かってくれない」というのが、“親などから無言の圧

力を受けている子供の切実な思い” といった場合もあって、

そういうのは別ですが、普通は「分かってくれない」が単な

るエゴの要求でしかない事も多いでしょう。そんな他人のエ

ゴなんか放っといたほうが良かったりしますが、それでも

「分かろう」という姿勢を持つ方が良いと思います。


 本当に「分かってあげる」べき人の思いは、分かった方が

いいだろうし、面白いもので、人のことを「分かろう」とし

ていると、人間のクセみたいなことが分かって来て、自分の

ことも「分かって」くるんですね。(逆も言えますが)

 自分で自分に嘘をついていることに気付いたり、すごく狭

いものの見方をしている事に気付けたり。他人のことを「分

かろう」とすることは、自分にとってもメリットのあること

です。

 「分かってもらいたい」のであれば、まず「分かってあげ

よう」とする必要があるでしょうし、自分自身を分かってい

ないことも多いのですから、「分かろう」とする姿勢を持つ

事は、自分自身の幸福に直結しています。


 (なんか、今回はお説教くさいなぁ。けど、書き直すパ

  ワーも無いので、このままにしておきます。

  そのへんのところ、どうか分かって下さい)





 




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