2017年12月3日日曜日
良い人とは
《 良い人とは
自分を疑う事を心得ている人のことである 》
わざわざ《 》で括って言うほどのことでもないのかも知
れません。要するに、《 良い人は、謙虚な人 》と言ってい
るだけですし。
ただ《 個性とは、違う言い回しが出来るということ 》で
すから、同じことでも、私なりの言い回しが出来るという事
には意味があります。
《 良い人は、謙虚な人 》という表現で伝わるニュアンス
と、《 良い人とは、自分を疑う事を心得ている人のことで
ある 》という表現で伝わるニュアンスは、やはり違ってき
ますし、伝わる相手も変わって来ます。個性の価値はそこに
あります。
何人かの書家が「心」という字を書いたとして、「心」と
いう字に違いはありませんが、それを見る人が持つ印象や感
情は、それぞれ違います。それぞれの書家の個性が違うの
で、それぞれの書く「心」にも違いが出るわけですね。
それとともに、見る人の側の個性の違いも「心」という字
の受け止め方を変えます。
三人の書家と、三人の見る人が居た場合、ざっくり言って
しまえば、9通りの「心」が存在する事になります。
字ひとつだけでも、三人の送り手と三人の受け手の間で、
九つの受け止め方が生まれてしまうのに、世界には70億の
人間が居て、無数の出来事が起こります。ある事について自
分がどう感じ、どう考えたとしても、それが「正しい」なん
て暫定的にしか言えません。だから、《 謙虚 》というより
も、《 自分を疑う事を心得ている 》という在り方をしたい
わけです。
すべては暫定的。
すべては保留状態。
すべては間に合わせ。
それが本当です。(暫定的に!)
人はそれぞれに不確かな判断で世の中を渡り、他の人たち
と関わってゆきます。
「正しさ」は、人それぞれに違いますが、それでもそれぞ
れが、ある立場に立って人と関わらざるを得ません。その時
に「自分が絶対正しい」などという立ち方をされたら、トラ
ブルは必至です。
誰もが、自分なりの「正しさ」に拠らなければ仕方ありま
せんが、そこに《 自分を疑う 》という手続きを持ちうる人
が、《 良い人 》だと思うのです。
自分に自信を持つなという事ではありません。
自分が納得できることには自信を持って当然です。
ただ、そこに100%の自信がある時は危険ですね。
自分で確信があって、自分の中で完結しているとしても、
ひとに理解されるかどうかは別の話ですものね。(特に、こ
のブログの様な話は)
昔、泉谷しげるが言ってました。
「オレは、自分を信じて疑ってるからね!」
泉谷しげるは、良い人です。
泉谷しげるが登場したので、急に思い出しましたが、泉谷
のファーストアルバム『泉谷しげる登場!』の冒頭を飾る曲
は、「白雪姫の毒りんご」というものですが、そのサビの部
分が、
ぼくたちに 今いちばん必要なものは
熱い恋や夢でなく
まぶしい空から降って来る
白雪姫の毒りんご
という歌詞なんですが、今、急にそれを思い出して、この歌
詞は「熱い恋や夢に浮かれてるわたしたちのエゴに、毒りん
ごを食べさせて、眠らせてしまおう」という事かもしれない
なぁ、なんて・・。
あまりにもニッチな事に話がそれてしまいました・・。
わたしたちは、人に疑いの目を向けるのはお手の物です
が、自分を疑うのは嫌がります。不安で心許なくなってしま
いますからね。でも、こんな自分を簡単に信じられるという
のもどうかしてますよね。
こんな自分ですよ?
信じられるわけがない。
ところが、お釈迦さまの言葉で「自灯明」というのがあり
ますね。「自分を拠り所にせよ」というのですけれど、こん
な自分を拠り所にしたら、どこに行くか知れたもんじゃない
のに、なぜお釈迦さまはそんなことを言うのでしょう。
「自灯明」の「自」とは、〈エゴ〉を意味する「自」では
なくて、「自然(じねん)」の「自」なんでしょう。
「自(おのずから)然(しからしむる)」
「おのずからそうなる」ことに、従って行くのでしょう。
「自分でそうする」ことを戒め、「自ずからそうなる」こ
とを大切にしてゆく。
「自分を信じて、自分を疑う」
はじめの「自分」と、後の「自分」は違うものですね。
〈命〉と〈エゴ〉とでもいうべきでしょうか?
《 良い人とは、〈エゴ〉を戒め〈命〉を大切にする人 》
ということの様です。
ちょっと、強引でしたね。ハハハ。
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