2017年12月24日日曜日

「コミュニケーション」?


 窓の外のキンモクセイの木で、メジロがミカンを食べてい

る。

 キンモクセイにミカンが生っているのではないですよ。キ

ンモクセイの木に、私がミカンを置いているのです。

 毎年、冬になるとメジロが街中に出て来るので、メジロの

為にミカンを置きます。

 去年の春先、家の外にいる時に、メジロが「チューン、チ

ューン」と鋭く鳴きました。いつもと違って、その声が「今

年はもう山に帰るよ」と言っているように思えたので、「あ

あ、また冬にね」と答えたら、次の日からパタッと姿を見せ

なくなりました。

 バカみたいに思われるかも知れませんが、あれ以来メジロ

と友達になったような気がしています。アタマが悪いのかも

知れませんが・・。



 生き物に感情移入して、勝手なストーリーをでっち上げる

のは、結構多くの人がする事だと思います。

 自分の都合の良い様に、「アイツはわたしを気に入ってる

だろう」なんてことを考える。あるいは勝手にネガティブに

なって「アイツはわたしを嫌っているみたいだ」とか考え

る。

 ほんのちょっとした表情や仕草を見て、さまざまに思いを

めぐらせる。でも、それが的を得ているかどうか、本当のと

ころは分からない  聴くわけにいかない。それと同じこと

を人に対してもやる。



 なんだかんだと相手の考えを想像する。でも、それが的を

得ているかどうか、本当のところは分からない  聴いても

本当のことを答えるかどうかは、分からない。

 わたしたちは、ひとりで勝手に喜んだり悲しんだりしてい

る。子供の頃からずっと、年寄りになって死ぬまで。ほんと

にご苦労さんな事です。



 私は、出来るだけ「額面通り」に言葉を使います。(もち

ろん、笑いを取るとか、わざと持ってまわるとかいう時は別

ですが)

 人の言った言葉は、そのまま受け取る。

 自分が言う言葉は、そのままの意味で言う。



 誰でも〈本音と建て前〉とか、〈含みを持たせる〉とかい

った言葉の使い方をしますが、みんなが「額面通り」に言葉

を使うのなら、物事は随分とスッキリすることでしょう。

 けれど、人が「額面通り」の言葉を使う事はそんなに多く

はありません。かなり親密で気の置けない関係でなければ、

遠慮やごまかしや駆け引きや忖度などから、本心とは違う表

現を使う事が多くなる。

 誰でも、自身がその様な〈本心では無いこと〉を言う事が

多いので、他人も「〈本心では無いこと〉を言うものだ」と

知っている。その結果、人の考えをあれやこれやと想像する

ようになってしまう。そこには、誤解・曲解が生まれ、思い

込みや思い過ごしや、決め付ける・見くびる、といったトラ

ブルの種が生まれる。「額面通り」であれば、そんな問題は

起きないのだけれど・・。

 日本人が「コミュニケーション」という言葉をよく使うよ

うになったけれど、あの言葉を聞くと笑いたくなっちゃう。

 「みんながやってるのは、『コミュニケーション』じゃな

くて、大抵『駆け引き』でしょ?」

 いつもそう思う。



 夫婦で、親子で、兄弟で、学校や職場や遊びの仲間との間

で、『コミュニケーション』という名の〈駆け引き〉が行わ

れる。


 言葉で押したり、引いたり、ひねったり。

   少しでも自分が有利になるように。



 誘導したり、肩をすかしたり、煙に巻いたり。

   できるだけ自分が不利にならないように。



 そういうのがすごくメンドウで疲れるし、トラブルの元な

ので、私はなるべく「額面通り」に言葉を使う。

 「額面通り」に言葉を使えない場面なら、もう話さない。

 相手が言った言葉は、「額面通り」にしか受け取らない。

 それで相手が機嫌を悪くしても、「オレの知ったこっちゃ

ない」と思ってる。だって《機嫌の悪い奴はバカ》であっ

て、機嫌が悪いのはその人の責任だから。(こちらは〈本

心〉から話しているのだし、相手は勝手に配慮を期待して

いる  怠慢・手抜き・ズボラです  だけだから、こち

らに否は無い)



 お互いに〈駆け引き〉して、お互いに憶測し合って、確証

もなく喜んだり、悲しんだり、悩んだり、恨んだり、嫉妬し

たり・・・。「気の済むまでやってれば」とか思う。(そう

いう人に、気の済む時は来ないだろうけど)

 「メジロと友達になれた!」なんて言って喜んでるのは罪

が無くてイイ。バカだと思われるけど。



 《青天白日悞人多》   *悞=誤

 (せいてんはくじつ ひとを あやまること おおし)


 大智禅師という人の言葉ですけど、「人は何でもないのに


余計な詮索をして自分で苦しむ事が多い」と言う。



 《遍界不曾蔵》

 (へんかい かつて かくさず)


 これは道元禅師の言葉ですが、「この世界は、何にも隠し

ていない」と言って、〈人の計らいが物事の本質を見えなく

している〉と諭している。


 ほんとに、人は余計なことを考えて、余計なことをして、

ひとりで勝手に苦しんでる。ああ、アタマが悪い。

 メジロを見習ったりするのが、いいのかも。

 彼らが、余計なことを考えていないのは確かだ。







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