気付くともう十二月になっていて、振り返るといつも、あ
っという間に時が過ぎている。今年も、いろんなニュースを
見て、身のまわりでさまざまな出来事が起こったけれど、年
をとるにつれて、まわりで起こる出来事が類型化されてき
て、驚かなくなる。
「これは、あの時の、あの件に似てる」
「あれは、いつぞやの、あれにそっくりだ」
「あの人は、昔一緒に働いてた、あの人に似た性格だ」
そんな風に、新たな出来事や人に出会っても、同じ様な経
験をしたことが多くなっていて、驚いたりするよりも、「ま
たか・・」という感覚になることの方が多い。自然現象も、
人間のすることも、大抵、見聞きしたり経験したことがあっ
て、そこには細かい違いがあるだけで、世の中も人間のする
事もそれまで経験した事と本質的な違いは無い。
物心ついた時には、もうテレビがあって、学校で色々な事
を学び、本を読み、インターネットが生活に入り込み、個人
の頭の中には入り切らないほど膨大な知識を取り込みながら
生きて来たわけだから、もう実体験と疑似体験を持ち過ぎて
いて、まったく新しいと思える事が現れて来ない。
平 知盛は、〈壇ノ浦の戦い〉で『見るべき程のことは見
つ』と言って、自害した。三十四歳だった。
知盛の人生は、私のような平凡な人生ではないので、それ
こそ「見るべきもの」がたくさんあっただろうが、現代は知
盛の時代に較べると、その情報量は桁違いだし、私は二十年
ほど長生きしているので、『見るべき程のことは見つ』と私
が言っても、おかしくはないだろう。ホント、「見るべき程
のことは見た」。
国や人類が滅ぶような事は見てないわけだが、歴史上にそ
の様な事があったのは知っているわけで、「知るべき程のこ
とは知った」。その点では、知盛より知っている。
その結果、「えーっ!」と驚くようなことは、せいぜい年
に1~2回しかない。
ニュースやCMやドラマやドキュメンタリーを見ても、自
分のまわりを見ても、登場人物の名前や道具立てが違うだけ
で、ストーリーは変わり映えしない。人は、何千年も変わら
ず、浅はかで、強欲で、病気で、怖がりで、分かったような
振りをして右往左往し続けている。
エンターテイメントもスポーツも芸術も、最早、ほんの僅
かな違いを見せる事しか残されていない状況の中で、その僅
かな違いを、大袈裟に驚いて見せているに過ぎない。
私個人が『見るほどのことは見つ』という状況になってい
るだけではなくて、世の中全体が、人類の文化のどん詰まり
に来ていて、『見せられるほどのことは見せつ』という状況
なんだろう。
一昨年の「東京五輪エンブレム問題」なんか、当事者の佐
野研二郎氏は気の毒なものだと思う。(盗用の有無や、他の
仕事についての批判の事実関係は置いといて、一般論とし
て)
人が、デザインすることを始めて、何千年も経つし、商業
ベースでデザインし始めてからでも数百年になる。今までの
どんなデザインにも似ていないデザインなど作れるわけがな
い。それが、文字などの制約の多いものなら尚のことだ。
世界中の古今のあらゆるデザインが、膨大なデータベース
として閲覧・検証可能になっている時代にデザインをするの
だから、ある程度以前の物に似てしまっていたとしても、容
認しなければ、デザインという仕事自体が立ち行かなくなっ
てしまうだろう。
言葉であれ、デザインであれ、メロディーであれ、人が
「美しい」とか「気持ちいい」と感じることは決まってい
る。そんな「美しさ」や「気持ちよさ」に合致するものは、
もうずっと前に出尽くしている。
後に選ばれた五輪エンブレムのデザインだって、厳密に調
べれば、きっと似たものがあるだろうし、「自分のデザイン
を盗用された」とした、オリビエ・ドビ氏がそれまでに手掛
けたデザインの中にだって、探せば過去に似たものがあるに
違いないと思うけど。
デザインが似ているからといって、ドビ氏に不利益が生じ
ることも無いと思うのに、「狭量でセコイ話だなぁ」と、当
時思っていた。(別に佐野氏に、縁もゆかりも無いけど)
もう、文化もテクノロジーも、本質的に新しいものは生ま
れないだろう。
AIが進歩して、新しいものをもたらすだろうか?
私は否定的だ。
AIが人に向けて何かを作り上げたり、何かを見せてくれ
たりしても、それが人に向けたものである限り、人の感性や
理解力から外れる事はないのだから
認識も理解も出来ない
バリエーションにとどまらざるを得ない。
人間の文化、人間のストーリーは、もうどん詰まりまで来
ている。
“最終回” は近いだろう。それが、“〈第一部〉の終り” で
あって、“〈全巻〉の終り” でないことを願うが・・・。
〈第二部〉はあるのだろうか・・・。
--- to be continued---(かな?)
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