2017年12月5日火曜日

個性はどこから生まれるか?


 前回、個性の価値ということにちょっと触れたんですが、

普通わたしたちが個性の価値について考える時、「世の中で

役に立つかどうか」という視点で考えているはずです。

 「個性を伸ばす」と言う時、〈理数系が得意〉とか〈絵が

上手〉とか〈走るのが速い〉といった、“社会的な好評価が

期待できる個性” を「伸ばそう」という暗黙の前提がありま

す。

 子供が、〈鉄道の線路について憑りつかれた様になってい

る〉とか、〈蜘蛛の巣の形を分類する事に夢中になってい

る〉とかいう場合は、その個性は「伸ばそう」とされず、

「抑えよう」とされるに違いありません。(控えめに言いま

したが、実際は「抑えよう」というより「潰そう」とするで

しょう)


 “社会的な好評価” が期待できる能力や資質というもの

は、当然ながら “社会的” なものです。“社会的” なものが、

“個性” だなんておかしな話じゃないですか?

 “社会に都合がいい個性” なんて “個性” じゃありません。

 少なくとも、その時代・その社会の大勢からは承認されに

くかったり、認知されていないことこそ、“個性” と呼ばれ

るべきだろうと思います。(ここでいう “社会” とは、ヨー

ロッパや日本といった大きなものから、クラスや家族という

小さな社会であったりします)

 厳しい批判にさらされ、不遇の時を過ごした画家が、何十

年も後、あるいは死後に評価されるといったケースはよくあ

りますね。“個性” は社会とぶつかるものです。(いつまで

たっても承認されない個性は“狂気” かも知れませんが)


 “社会の都合に合わない個性” は、問題を起こすこともあ

るでしょう。手放しに尊重するわけにもいかないというのも

当然です。しかし、“個性” というものは、止むに止まれず

現れて来るものです。当人にも周りにもコントロール出来

ず、その人間を通して発現してくる「命の衝動」といったも

のでしょう。

 世界を大きく変える個性もあれば、その人のまわりの小さ

な世界だけに働く個性もあるでしょうが、どちらにしても、

むやみに押しとどめようとすれば、その衝動は、別の場所か

ら、または違う形で噴出して来るに違いない。

 極端に言えば、その人を殺しても、その “個性” は生きて

いるでしょう。


 “個性” は、個人に属するものではなくて、その〈場〉に

生まれるものじゃないだろうかと思うのです。

 《 個性は場の働きであって 場によって生まれる 》

 そんな風に思います。


 なぜかというと、

 《 そっちと こっちじゃ 景色が違う 》

 からです。


 谷底で暮らす人と、山の上で暮らす人では、おのずと物の

見方・感じ方が違ってくるでしょう。

 ネットでリアルタイムに人と繋がる暮らしと、秘境で滅多

に人と関わらないような暮らしをしている人では、人に対す

る想いが違うはずです。

 裕福な家庭に生まれるのと、貧困家庭に生まれるのでは違

います。その「違い」が “個性” となる。

  “個性” は〈場〉によって作られ、それがそこに居合わせ

た者から現れて来るのだろうと。


 “個性” は個人(エゴ)に属する物ではなく、その世界に

属するエネルギーであって、「〈世界〉から〈社会〉に対し

て変化を強いる働き」だと思います。


 “個性” が問題を起こすとき、それは “個性” の方の問題で

はなく、〈社会の問題〉が “個性” によって浮き彫りになっ

たのかも知れません。(その個人が裁かれたりすることは、

また別の話です)


 「拍手喝采して称えたい」個性もあれば、「地獄を見せた

挙句に殺してやりたい」様な個性もあります。

 そんな、わたしたちの想いを越えて、

 “個性” とは、人と社会の価値感や評価以前の、《変える

働き》なのでしょう。




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