2017年12月29日金曜日

12月のカマキリに。


 お昼頃、家の横に置いてある野菜のプランターの中に、一

匹のカマキリを見つけた。この時期にまだ生きているカマキ

リが居るとは思わなかったが、寒いし、寿命も尽きかけてる

だろうから、歩く事もできず、指で触れてもほんの少しカマ

を動かすぐらいだ。たぶん、今日中に死んでしまうだろう。



 命というのは、不思議なものだ。当たり前だが、どの命に

も限りがある。

 限りがあるのに生まれて来る。

 いや、限りがあるから生まれて来る。

 限りがなければ、〈命〉とは言えない。

 限りがあるからこそ〈命〉なのだが、その「限り」を目の

当たりにすると、人は理不尽さや不思議さを感じてしまう。

「限りがある必要があるのか?」というような・・。



 なぜ、〈命〉というものがこの世に生まれたか?

 科学者や宗教家たちが、その謎について答えを出そうとす

るが、そんなもの永遠に分かるはずが無い。(「答えを知っ

ている」という者もいたりするが)

 分からないまま、わたしたちはこの〈命〉を生きて行く。


 面白い話があります。

 クマムシという虫をご存じでしょうか?

 土の中にいる 1mmほどの小さな虫ですが、乾燥状態など

置かれると、カラカラになってしまい、生命活動を止めて

まう。つまり干物になってしまうのですが、水を掛けてや

ると復活して動き始める。仮死状態というより、一度死んだ

ものが、生き返ると考えた方がよい様な現象です。

 もしも将来、科学技術がさらに進んで、乾燥状態のクマム

シの身体を、そっくりそのまま人工的に作れるようになった

としたら、それに水を掛けると動き出すのだろうか?

 もし動き出せば、人類は生命を作りだした事になる。

 どう思います? 

 人造クマムシは動くでしょうか?


 これは〈楽しい話〉でしょうか?

 それとも〈気味の悪い〉話でしょうか?


 人造クマムシが動き出したとしたら、この宇宙の中に生命

が一つ増える事になるのですが、なにやら「宇宙のバランス

が壊れてしまうのではないか」という不気味さを、私は感じ

てしまいます。もし、そんな事が出来る技術が生み出されて

も、「止めておいて欲しいな」と思いますが・・・。


 私は、“生命の点数” みたいなことがあるんじゃないかと

思ってるんです。地球上の生命の量には限りが有ると。

 “生命の点数” というのは「評価」ではなくて、例えば大

腸菌一つが “1点” として、アリが十万個の細胞で出来てい

るとしたら、アリは “10万点” 。人間であれば、細胞の数が

37兆個といわれるので、“37兆点” という具合です。

 そういう風に、「細胞の数に換算して、地球上に存在でき

る生命の量には上限があるんじゃないかな?」と。

 クマムシが、(たぶん)死んでも復活するように、生命の

休止状態というのはあるのでしょうが、ある限界量を越えて

生命が存在することは、出来ないんじゃないかという感じが

するんです。だから、人間が生命を作りだすなんて話には、

なにやら不気味さと不安を感じてしまいます。

 ある生き物が増えれば、ある生き物が減る。

 そんなの当たり前の事ですが、地球規模で精緻で絶妙な

「命の平衡状態」が保たれている様な気がするのです。

 

 こういうオモチャが有ります

ね。片方の玉を持ち上げて手を

離すと、残りの玉にぶつかっ

て、反対側の玉が動く。

 そんな風に〈命〉の総量は一

定で、ある一つの〈命〉が止まると

同時に、別の〈命〉が動き出す。


 動いているのが一つの個体ということですが、その動きは

ほんの短い間でしかなく、すぐに別の個体の活動に代わって

しまう。なので、個体の動きは全体の活動の、“ある一面” 

として観るべきだろうと・・・。


 私は〈命〉をそんな風に捉えていて、個体ではなく、全体

としてのエネルギーの動きを、ひとつのものとして観るよう

にしています。全体でひとつの〈命〉だと。

 個体の死は、わたしたちの “まつ毛” が一本抜ける様な事

であって、全体の〈命〉の活動の “ある場面” でしかないの

だろうと考えています。


 そんな風に考えると、地球全体としての〈命〉が滅びない

限り、「命に限りは無い」ということになります。

 もちろん、個体の〈命〉は姿を変えますよ。でも、〈個〉

にこだわらなければ、わたしたちは「永遠の命」に近いもの

を生きていることになる。

 さらに、〈命〉が物質とエネルギーの循環で成り立ってい

る事を考えれば、〈命〉というものは宇宙全体の活動と観る

ことだって出来てしまう。

 〈命〉は「無限で永遠のものだ」と・・・。(話が飛び過

ぎですね。でも、“東大寺の大仏さん” とかは、そういう考

えを象徴したものですけどね)
 

 カマキリ一匹から、とんでもなく話をふくらましたもんで

すけど、「じっ」と死期を待ってるあの姿を見てると、愛し

くなってしまう。

 ひと夏を生き切って、「自分を終える」。

 他人事じゃない。

 一匹のカマキリの生涯に想いを馳せる。

 命は不思議・・・。




0 件のコメント:

コメントを投稿