2018年1月6日土曜日
〈迷信〉と〈花〉、最後に〈マゾ〉
今日、スーパーで〈サイネリア〉の鉢植えを見かけた。冬
の鉢花として、この時期にはよく見かけるのだが、この花を
見かけると、いつも少し不愉快になる。
花色も多く、その色合いも良いし、花も程よい大きさで、
花自体は好きなのだが、名前が気に入らない。
そもそも、十数年前までは《シネラリア》という名前で流
通していた。英名が《シネラリア : cineraria》なので、そ
のまま使われていたのだが、《シネラリア》は〈死ね〉を想
わせると言うので、《シネラリア》という名前は急速に使わ
れなくなり、今では完全に〈サイネリア〉が通名になってい
る。
英語の表記が “cineraria” だから、〈サイネリア〉と読
むのは無理があるのだが、「縁起」の良し悪しの前にはそん
なこと取るに足りないのだろう。〈アシ(葦)〉を〈ヨシ〉
と呼ぶのと同じ心情だ。しかし、〈葦〉の場合は日本文化
の、日本語の中での言い換えなので、まぁ、それでもいいと
は思うが、英語の読み方を強引に変えてしまうのは、やり過
ぎだろう。〈富貴菊(フウキギク)〉という和名もあるのだ
から、そちらを使えばいいのにと思う。
そんな、迷信深さから来た “強引さ” と “テキトーさ”
が、〈サイネリア〉という名の背景にあることを知っている
ので、見かける度に気分が悪い。《シネラリア》が可哀相
だ。
こういった「ゲン担ぎ」は何処にでもある。
多かれ少なかれ、世界中の何処でも誰でも「ゲン」を担
ぐ。
無神論者であれ、合理主義者であれ、サイコパスであれ、
まったく「ゲン」を担がず、「ゲン担ぎ」にまったく影響さ
れないという人間は、ほとんど居ないだろう。
昨年、殺人事件のあった《鶴岡八幡宮》では、初詣の参拝
客が三割ほど減ったという。「縁起が悪い」ということだろ
う。まぁ、気分の問題だから、どっちでも好きにすればいい
ことだけど、人間とはそういうものですね。
私は、「ゲンを担ぐ」とか「縁起を担ぐ」とかいった迷信
は信じない方だけど、風水だとか、占いだとかに凝っている
人間から、「それは良くないよ。悪い事が起るよ」などと、
自分の行動を指摘されると、やっぱり少しばかり気になって
しまう。なにやら気分が悪い・・。
「要らんこと言うんじゃないよ!」
と、腹が立ってしまう・・・。
それを無視して、自分のやりたい様にやっても、何やら後
味が悪い・・・。
〈迷信〉というものの困ったところは、そもそも根拠が無
いものだから、否定しきれないところにある。
根拠があれば、その根拠を否定してしまえばケリが着くけ
れど、どこかから降って湧いたようなものだから、始末が悪
い。
何も付いていないのに、頬っぺたがムズムズする事がある
が、あんな不愉快さに付きまとわれる。
『西の窓には黄色のカーテンを!』などと言われた時に、
「その根拠を示せ」なんて反論して、“中国四千年の歴史”
を語り始められたら、目も当てられない。
「あっ、そうなの・・・。はい、はい・・・」と、おずお
ずと黙り込み、話を合わせる羽目になり、ムズムズするモノ
を頬っぺたに塗りつけられて、何日か小さなイライラに苛ま
れる事となる・・・。(場合によれば、一生のトラウマにな
る事だってある!)
そういった〈迷信〉が、“風水” や “占い” や “昔の言い伝
え” だけならいいのだが、この頃は、“科学” や “学問” とい
った体裁で忍び寄って来るから、尚の事始末が悪い。
毎度の事で恐縮だけど、『安心安全』にまつわる話には、
この手の〈迷信〉が、すぐに登場する。
何が「始末に負えない」かと言うと、一応「根拠が有る」
のが困る。さらに始末が悪いのは、別の所からそれを否定す
る根拠が示されたりする。そんなもの、誰も検証している暇
が無い。
必然的に、人それぞれに自分の気に入る説に組して、根拠
があいまいなまま、戦闘モードに入ってゆくことになる。
あ~っ、鬱陶しい!
何度でも、何度でも言うけれど、
《 「正しい」とは、そういうことにしておけば
気が済むということ 》
でしかない。
みんな、自分の気が済む様にやればいい。ただし、それは
自分の好みだというだけ。自分の都合でしかない。
そんなものを人に押し付けるんじゃない。
そんなものを人の鼻先に突き出すんじゃない。
自分の意見や価値感なんて、申し訳なさそうに見せるもん
だ。(私は申し訳なさそうでしょうか?💛)
「ゲン担ぎ」をしたって構わないけど、そのダシにされる
対象ってモノがある。
そちら側からすれば、ずいぶんと無礼な話なのだ。
〈シネラリア〉も、〈アシ〉も、〈霊柩車〉や〈火葬場〉
も、その他諸々の「縁起でもない」モノや人たちも、存在す
べくして存在している。
そういった存在を、アホくさい語呂合わせなんかで、「ゲ
ンが悪い」とか、「縁起が悪い」とかのレッテルを貼る無礼
な奴にこそ、目につかない所へ消えて欲しいものだ。
ホント、人間って “ムダでマヌケで役立たずの決めごと”
を作って、自分自身の自由を縛り上げてしまうのが好きなん
だねぇ・・・。マゾか?
アタマが悪いよ。
2018年1月5日金曜日
千手観音に抱かれると 「抱き込み往生」
前に唐招提寺の千手観音を観た時の事を書きました。
あの千本の手は、「あらゆる方法で衆生を救う為に有る」
ということですが、私は「すべてを与えてあるということ」
だと感じたと。でも、昨日ふと思ったんです。
「『すべて与えてある』って、誰に?」
「『あらゆる方法で救う』って、誰を?」
すべてを与えられているのは、誰? 救われるのは、誰?
千手観音に手を合わせ、「救われる」とか、「すべて与え
てもらってる」とか思うのは、私の〈意識〉だけれど、それ
はまたしても〈エゴ〉じゃないか?「救われる “私”」が居
るうちは、ほんとに救われたことには、ならないんじゃない
かと。
「私にすべてが与えられている」と感じても、そもそも、
その “私” 自体が、“この世界” に生み出されたものだから、
それは “この世界” の一部です。〈意識〉が勝手に “私” と
“世界” を区別しているだけで、〈意識〉以外に “私” は無
い。
だから、「“私” が救われる」と思う時、そこにはやはり
〈エゴ〉がある。
救われてしまえば、もう仏と一体化してしまう。
すべて与えられて、すべてに包み込まれてしまえば、すべ
てと一体化してしまう。そこにはもう〈エゴ〉は残っていな
い。
「私は救われている」とか、「私にはすべてが与えられて
いる」とか思う時は、実はまだ救われてはいない。
何でもなくなった時が、本当の『救い』となるのでしょ
う。
「何でもない」から、何でもなく生きて行く。
「何でもない」から、何も求めず生きて行く。
「何でもない」から、何も厭わず生きて行く。
「何でもない」から、何も恐れず生きて行く。
「何でもない」から、「何でもいい」と生きて行く・・。
そうなるはずです。
すでに、“世界” と一体なんだから。
何もかもが自分の一部なんだから。
救われるべき “自分” は、もういない。
仏が救うべき者は、もういない。
今まで、自分が救われているのを知らず、救われたがって
る〈意識(エゴ)〉があっただけで、本当はすべてのものが
始めっから救われている・・・。
何かの経典の言葉だったか、昔の僧の言葉だったか忘れた
んですが、《衆生を救わんと欲するに 衆生無し》というの
があります。(《衆生を度せんと・・・》だったかな)
「悟りを啓いて一人の仏が誕生した。
仏になったら、多くの衆生を救おうと考えていたが、
仏になってみると救うべき衆生は何処にも居なかった」
と言うんですね。
千手観音は、いわゆる『菩薩』です。まだ仏(如来)には
なっていない。だから、衆生が迷っている様に見える。だか
ら救おうとする。
一方で、衆生の方は迷って救いを求めている。
実は、菩薩も衆生も両方とも迷っている。
衆生と一緒に迷ってやるのが菩薩であって、迷いを無くす
のではない。
「一緒に迷ってやるから、迷ったままで良い」
それが菩薩の想いなのでしょう。
それを受け入れた時、菩薩と共に衆生も救われる。迷わな
くなるのではなく、迷う事を受け入れられる。(『抱き込み
心中』という言葉がありますが、これは『抱き込み往生』で
すね)
その菩薩と衆生の姿を、仏は観ている。
「迷おうが、迷わなかろうが、皆それぞれ、それぞれを生
きている」
仏になると分かるのでしょう。
苦しみはすべて、気の迷いだと。
いや、そう分かる事を「仏になる」と言うのでしょう。
《救わんとする衆生》は、何処にもいない。
一人残らず救われている。
だったら、ここにいるのは、“救われてるわたし” 。
“救われたいわたし” は、何処にいるのでしょう?
低周波とか、電磁波なんかが、気付かぬ内にわたしたちに
影響を与えていることがありますね。
それと似たかたちで、何千年も昔に生まれた、人間の〈怖
れ〉と〈欲望〉と、そこから立ち現われた〈妄想〉が、時を
越えて拡がり続け、“何でもない” わたしたちの〈意識〉を
揺さぶり、迷わせ、怖れさせているのでしょう。そして、そ
の〈迷い〉と〈怖れ〉から、さらなる〈迷い〉と〈怖れ〉を
作りだし、いっそう迷い、苦しむ・・・。
わたしたちは、受け継ぐべきではない “悪しき想念” とで
もいうものを、連綿と伝えて来たのでしょう。実態を持たな
い、単なる “気の迷い” に過ぎないものを・・・。その “想
念” を肉体に取り込み、エネルギーを与え、“気の迷い” で
しかなかったものを、実体化させてしまいさえするので、そ
れを事実だと思ってしまうけれど・・。そして、それを自分
だと思い込んでしまうけれど・・・。
本当は、何でもないのでしょう。
わたしたちが、“自分” だと思っているもの。
お互いが、“その人” だと思っているもの。
“救われたいわたし” 。
それは、いわば、大昔から人間に憑依し続けてきた “亡
霊” のようなものでしょう。
その「迷える “亡霊” 」を、自分の中で供養し、“亡霊” と
もども、千手観音の千の手に抱かれて、『抱き込み往生』し
てもらう。
《迷ったままでいらっしゃい》
千手観音は、そう語りかけているのでしょう。
「“救われたいわたし” も、一緒でいいよ」、とね。
2018年1月4日木曜日
景気はイイ?
ふと考えてみると、このブログには景気の良い話が無い。
〈少欲知足〉とか、〈諸行無常〉とか、「あなたの望みは
叶わない」とか、「足りないものは満足だけ」なんて事ばか
り言ってるので、景気の良くなりようが無い。
ちょっと景気のイイ話も必要じゃないかと・・。
とはいえ、私が書くのだから、普通に景気の良い話になる
はずもない。「わたしたちは経済に支配されている」なんて
言ってる人間ですからね。
「景気が良い」のは、破滅へ急ぐようなもの。「景気がお
となしい」ぐらいにしといた方が、世のため人のためです。
・・・・・・・・・。
だめだ。やっぱり景気よくならない。
物の見方が完全に、外れてる。
私は、ある意味〔外人〕なのだ。
ならば、〔外人〕にとっての「景気の良さ」というものは
無いのか?
しなければならないことは無く
おだやかな陽射しの下で
木々から届く葉擦れの音を聴きながら
公園のベンチで小鳥が遊ぶ姿を楽しんでいる
嗚呼。なんと景気が良いことか。
・・・・・・・。
これのどこらへんが、「景気が良い」というのでしょう?
景気が良いんですよ。だって、満ち足りているんですか
ら。
こんなに満ち足りてる状態もない。
大満足。
完璧。
これに満足出来なければ、三百年生きたって満足出来ない
でしょう。
世界一の美女や世界一の富豪と結婚しても、地球上のあら
ゆる秘境と極地を冒険しつくしても、千日回峰を何十回達成
しても、宇宙の謎をすべて解き明かしても、たとえ “神” に
出会っても・・・。
どんな偉大な事を成し得ることよりも。
“神” に出会うことよりも。
いま、ここで、自分を成して。
いま、ここで、“いま、ここ” に出会うこと。
それ以上の事は無い。
“それ” は、何をもってしても買う事は出来ない。
“それ” は、あらゆる評価から無縁。
”それ” は、何処を探しても無い。
“それ” は、“神” も与えることが出来ない
あるので。
こたつに入ってミカンを食べ、ゴロンと横になって天井を
見上げる・・・。満ち足りてる・・・。十二分に・・・。
自転車に乗って近所のスーパーに買い物に出かける。気持
ちのイイ風が、頬をなでる・・・。満ち足りてる・・・。十
二分に・・・。
やんちゃな我が子に、笑いながらお尻を思いっきり叩かれ
る・・・。満ち足りてる・・・。十二分に・・・。
余命一ヶ月。病院のベットで、窓から差し込む陽射しの明
るさに気付く・・・。満ち足りてる・・・。存分に・・・。
いわゆる「景気の良さ」とは違うところに、私の思う『景
気の良さ』はある。
この世界には、“この世界にあるすべてのもの” が在る。
その当たり前が、奇跡。
それを分からない人間が、バタバタと走り回り、土ぼこり
を舞い上げ、見えるはずのものが見えなくなる。他人の視界
さえ遮る。
何を見ればいいのか?
何に出会えばいいのか?
何をすればいいのか?
人は知らないはずだ。
それならば、静かに座り、見えて来るものを見ればいい。
現れるものに出会えばいい。
せざるを得ないことをすればいい。
何も知らないまま出かけて行けば、迷うのは必至だ。
何も分からないまま、何かを見ても、何かを手に入れて
も、道に迷ったままでどうするというのか?
「景気が良い」というのは、“何かがよく動いてる状態”
です。人は、“動き” が見たいだけなんです。
でも、動こうが動くまいが、すべては目の前にある。
“すべて” がある。
それを見ればいい。
もちろん、全部は見えない。隠れているものもある。地球
の裏側は見えないけれど、それを見ようというのはただの欲
張りだし、身の程知らずというもの。
見えていないものも含めて、“すべて” を見ればいい。
何も隠されていない。
空は青い。
2018年1月3日水曜日
初雪とリストカット
今日は昼過ぎに雪が降りました。たぶん、この冬初めての
雪だと思う。
雪は昔から好きですね。雪を見ると嬉しくなります。
雨と違って、静かに降るのがイイ。
「しんしんと・・」なんて表現、誰が考えたのか知りませ
んが、イイ感じ出してますよね。
雪が降っていると、「世界が黙らされる」みたいな感じが
します。
雪景色の中では、大きな声を出して騒いでも、雪に声が吸
い込まれてしまって返って来ない。
反響がないので、騒ぎ続けにくいように思います。
やっぱり、人が騒ぐ時は、反響が返って来なければ騒ぎ続
けられないんじゃないでしょうか? (北朝鮮も放っときゃ
いいのに)
雪野原で、ひとり騒いでいると、すぐに虚しくなりそうで
す。
人は、自分がした事に対して、何の反応も返って来ないこ
とを非常に怖れますね。不安になります。
いじめの常套手段に、“無視する” というのがあるし、“ネ
グレクト” は、暴力に劣らず子供を傷つけます。
〈自分の言動が認知されていない〉という感覚は、人を不
安にし、傷付け、怒りを抱かせる・・・。
「自分は存在していない様だ・・・」と。
まるで、柱か壁のように意識の外に置かれ、幽霊のように
見えない存在なのかと自分で思ってしまう・・・。
「誰か返事をしてくれ・・・。誰か居ないのか・・・」
叫びは虚空に消えてゆく・・・。
いたずらで、家庭や職場の人間が示し合わせて、ある日み
んなが、一時間ほどあなたが見えていないように振る舞った
としたら・・・。
あなたは発狂してしまうかも知れませんね。
これは、かなり恐ろしいことですよ。
それほど、人は周りからの反響を頼りにして、この世に自
分を位置付けています。コウモリやイルカに劣りません。
リストカットのような自傷行為や、自殺未遂を繰り返す人
は、「ストレスから、その様な行為にでる」とされますが
(大雑把だね)、自分の存在を確認できるような周りからの
反応が得られない状況に長く置かれ、自分の存在を確認する
為に、自身を傷つけるんじゃないでしょうか。
誰も相手をしてくれない。
相手をしてくれる人がいても、その人の相手をしているの
は、生きる為に繕った表面上の仮の自分でしかないものだ。
本当の自分は見せられない・・、見てくれない・・・。
“わたし” という着ぐるみの中で、ほんとの自分は虚空に漂
っている・・・。
「わたしは・・、ほんとに・・存在しているの・・・」
確かめる為に、自分のからだを切る・・・。
そして、痛みによって自分を確認して、ホッとする・・。
これまで、自分の話を、自分の働きを、自分の笑いを、自
分の涙を、誰も真剣に取り合ってくれなかった・・・。
自分は、存在していないかのように扱われてきた。
自分は、他の人とは違う世界に住んでいるように感じ続け
てきた。
「わたしの世界には、誰もいないの?・・・」
気が狂ってしまいそう・・・。
でもね、そういう人は、大きな精神病院に迷い込んだ、健
常者かも知れませんよ。(精神病院やそこで治療を受けてい
る人をないがしろにしたり、否定したりする意味はありませ
ん。あくまで、比喩としてです)
この世の中は、もともとかなり狂ってるんです。
かなり狂った人たちがいっぱいいるんです。
月に 150時間も時間外労働をする人間を「あいつはエラ
イ!」と称賛したり。
そういう人間を安く・多くコキ使って、巨額の資産を手に
入れる者を “セレブ” だなどと羨んだり。
「教育」というと、“世の中で他人より前に出られるよう
にすること” としか思っていない大人がほとんどだったり。
挙げればキリがない。
そういう人間に囲まれて生きているから、一部の人は「わ
たしは違う世界に住んでいるの?」と思えてしまう。
しかし残念ながら、その感覚は間違っていないんですけど
ね。
違う世界に住んでるんです。
世の中とは違う価値観や感性を持っているのかも知れませ
ん。
世の中に傷つけられて来たのかも知れません。
世の中の代表者(親や教師や友達
傷付けられて来たのかも知れません。
いずれにせよ、世の中から外れてしまったのでしょう。
そして、たぶん、もうその中には入れない。からだをその
中に置くことは出来ても、心は外にある。
仕方がない。
上手に分裂するしか手はないでしょうね。
役者が、舞台とプライベートを当然のこととして区別する
ように、“世の中”の自分は〈お芝居〉。ほんとに生きている
のは、“世の中の外に居る” 自分だと。
・・・いつのまにか話が少しねじれて来て、「リストカッ
トしてしまって悩んでる人へ」っていう感じになってしまい
ましたね。
今書いたことが、リストカットする人の置かれた状況のす
べてではないでしょう。でも、おおかたそういうことだと思
います。
リストカットはしませんが、私自身がそういう側の人間で
すから、そう思います。
でも、男は女性より攻撃性が強いので、リストカットのよ
うに「自分を確認する」といった方向へ向かわず、「異常
(おか)しいのは、あっちだ!」と “周りの破壊” に走った
りします。私にも、その傾向はありますね。
「雪は静かでイイ・・・」みたいなことを言っておきなが
ら、反響が返って来ないと、リストカット・・、周りの破
壊・・なんて・・、変な話ですね。
たぶん私は、世の中の狂った騒ぎにウンザリしているの
で、静かに自分の世界に居られる気がする〈雪の中〉が好き
なのでしょう。
「狂った世の中からの反響なんて、聞こえないにこしたこ
とがない」
そう思っているようです。
とうの昔に、分裂してしまっているんですね。
「それが自分なら、仕方がない。それで生きて行くしかな
い」
いつの頃からか、そう肚が決まったようです。
で、ネット上のこんな世界で、独りで遊んでいます。
淋しそうですか?
本人は、かなり笑ってます! ハハハハ!
(今日はこれまで)
2018年1月2日火曜日
「分からない」ことの喜び
《すべてのものは〈因縁〉によって存在する》
それが仏教の考え方だけれど、《存在する》のは〈因縁〉
そのものだけではなかろうか?
《仮和合》という言葉があって、「仮に形を成している」
という意味だけれど、「すべての存在は〈因縁〉によって仮
に形を成しているだけだ」ということです。
でも、その「形を成している」その物も〈因縁〉だから、
突き詰めて行くと実体は消えてしまう。
分かり難いですか?
コップに水が入っているとして、そこには〈コップを存在
させる因縁〉があって、コップが存在しています。
さらに水がコップの形に存在していますが、その水自体も
〈水を存在させる因縁〉によって存在している。(酸素とか
水素とか、どこから運ばれて来たかとか)
〈因縁〉とか〈縁〉という言葉は、〈謎〉という言葉にし
てしまった方が良いのかも知れない。
《すべての存在は〈謎〉である》
それでいいのでしょう。
その方がスッキリするようにも思います。
そして〈存在〉が〈謎〉なら、〈存在〉によって起る〈出
来事〉も、すべて〈謎〉です。
《この世のすべては〈謎〉である》
判断放棄ですね。
「分からない!」。 バンザーイ!
分からないものを分かろうとするのは、 ”徒労” でしかあ
りません。
「分からない」と分かった以上、分かろうとする必要はあ
りませんから、わたしたちは “徒(いたずら)な、労力” を
ムダにしなくて済みます。
誰も分からないのです。
お釈迦さまだって、分からなかったのです。
「分かったような」ことを言う輩を笑ってやればいい。
「分からないのがホントだろ!」と。
「分からなくて当たり前」
「分からないのが正解」
「分からないのは、OK!」
《 分からない世界を 分からない自分が
分からないまま生きている
それで何も問題は無い それが当然なんだから 》
声高に、答えが有るかのように、分かったような事を言う
奴は嘘つきですよ。(・・・“語るに落ちる” かな・・・)
「ちょっと・・、邪魔だよ。」
そう言って、ご遠慮願うようにした方がイイ。
そういう連中が、わたしたちや世界を引っ掻き回してい
る。
「分かんないから、ボチボチやろうよ。」
そんなスタンスの人が、イイ人ですよ。
「まぁ、さしあたり生きてるから、OK なんじゃない?」
そう言って、笑っちゃったりするようなね。
お釈迦さまだって、ほんとはそんな人だったかも知れませ
んよ。
教団とか、テキストとか作る人は、どうしても “モッタイ
付けたい” ものだから。マジメぶったり、立派ぶったり、
〈権威付けしたがる〉ものですからね。もしかすると、お釈
迦さまの実像だって、伝えられているのとは、ぜんぜん違う
かも知れない。
「ちょー、フレンドリー!」
って、感じだったかも。いや、そう思った方がイイ様な気
がする。
わたしたちには、何も分からないですよ。
それがホントですよ。
「分かった!」なんて思ったら、それは “間違えた” って
ことですよ。だって、“分からない” はずなんだから。
分かろうとするのが、間違いのもとですよ。
「分かった」なんて思ったら、それは犯罪ですよ。
そういうことですよ。
ホント。
***************************
今しがた、ちょっとブログを書くのを中断して、コンビニ
へ行って来たんですが、途中、近所の小さなお宮で “初詣”
をして来ました。
このブログを書いていた勢いで、
『分かんないんで、よろしくお願いしま~す!』
と、テキトーなノリで、お願いして来ました。
「分からない」って、楽しい。
「分からない」って、嬉しい。
「分からない」って、優しい。
「分からない」って、神々しい・・・。
そんな感じ、・・・分かってもらえると嬉しいんですが。
ホント。
***************************
今しがた、ちょっとブログを書くのを中断して、コンビニ
へ行って来たんですが、途中、近所の小さなお宮で “初詣”
をして来ました。
このブログを書いていた勢いで、
『分かんないんで、よろしくお願いしま~す!』
と、テキトーなノリで、お願いして来ました。
「分からない」って、楽しい。
「分からない」って、嬉しい。
「分からない」って、優しい。
「分からない」って、神々しい・・・。
そんな感じ、・・・分かってもらえると嬉しいんですが。
ベンジャミンの木漏れ日と。
周りを見渡して、何かきっかけになる物を探す。
さまざまな物に取り囲まれている中で、机の前のベンジャ
ミンの鉢植えに目が留まる・・・。
さて、何故ベンジャミンか?
毎日、目にしている。
ブログを書くときは、いつも目の前にある。
なのに、何故、今日、ベンジャミンか?
その理由は分からない。
これからどんな話に繋がるのかも分からない・・・。
けれど、ベンジャミンから始めよう。
ベンジャミンは、観葉植物として昔はとても人気があった
が、この頃はさっぱり見かけない。すっかり人気がなくなっ
てしまった。
今、目の前にある鉢植えは、三年程前に急にベンジャミン
が欲しくなり、あちこち探し回ってやっと一つ見つけたもの
だ。白い斑の入った葉で、お約束通りに二本の幹を捩じり合
せてある。
そして、すぐ隣にはアジアンタムの鉢がある。
要するに、小さな東南アジアがしつらえてあるわけだ。
アジアンタムはシダの仲間。ベンジャミンはゴムノキの仲
間だから、イチジク科だろう。
ぜんぜん違う植物で、それぞれが本来育つ環境は少し違う
だろうし、原産地も少し違うかも知れない。その二つが、故
郷を遠く離れ、本来なら生きられないこの日本の、私の部屋
で生きている・・・。かなり無理やりな事を私がしているん
だけれど、彼らは「そんなこと知る必要も無い」といった風
に生きている。
「生きられるから、生きている。それ以上でも、それ以下
でもない」といった佇まいだ。(勉強になります。)
私が水やり・保湿を忘れ、たまに枯れそうになる。
そのまま水やりを忘れ続ければ、枯れてしまう。だからと
いって「彼らは私に依存している」と言えば、それは早計だ
ろう。
私に依存したり、頼ったりしているわけではなく、やはり
「生きられるから、生きている」だけのことだろう。
そこに〈存在する〉条件が整っている。
だから、当然〈存在する〉。
私が、水やりをしたり、日当たりを調整したりすること
(したくなること)も条件にはいっているが、“私が、水や
りをしたくなる〈条件〉” を、私は知らない。
そもそも、なんだって今どき流行らないベンジャミンが欲
しくなったのか分からない。
彼らにも私にも分からないまま、この窓際でベンジャミン
とアジアンタムは三年余りを生きている。
ともかく生きていて、その事が私は嬉しい。
彼らが嬉しいかどうかは知らないが、私と彼らは同じ屋根
の下で生きている。そのことは、お互いにとって良いことの
様な気はする。
縁あって、一緒に生きている。
「一緒に生きる」という縁である。
これを読んでいるあなたと、私は「一緒には生きない」と
いう縁である。
こんなブログになんか出あわない人とは、「関係ない」と
いう縁である。
そもそもこの世に生まれて来ない人とは、「縁が無い」。
私が生まれて、生きて来たというのが、何の縁か知らない
し、知り得ない。知る必要も方法も無い。
ともかく生きている。
ベンジャミンや、アジアンタムや、ごちゃごちゃした物た
ちと、ゴタゴタした人たちと、会ったことも無い人たちと、
それぞれの縁で、それなりにつながって・・・。
ベンジャミンから、こんな話になったけれど、いったいこ
れはどういう縁なのか?
何故、〈縁〉の話をすることになったのか?
“私という〈縁〉” には、知る由もない。
ともかく “私という〈縁〉” も、このブログも、まだ続い
ては行く様だ。
2018年1月1日月曜日
「あけましておめでとう」と言ってみる・・・。
2018年1月1日になりました。
「あけましておめでとうございます」
と、毎年口にするけれど、ただの挨拶に過ぎない。
私が生まれるよりずっと昔なら、人の寿命は今よりもずっ
と短く、成人できずに死んでしまう子供も多く、一年間生き
延びることは、寿ぐべきことだという了解があっただろう。
でも現在、一年間生き延びることは当たり前だと思って、
日本人は暮らしている。(深刻な病気などに罹っていなけれ
ばですが)
私は中学生ぐらいの頃から、「あけましておめでとう」と
いう言葉を聞いても、「べつに、めでたくもない」と思うよ
うになりました。まぁ、そんな中高生は多いんじゃないかな
と思います。
でも、大人になるにつれて、「正月は、そう言うものだ」
という風に自分の中で消化して、「あけましておめでとう」
と言うことに、特に違和感を持つ様な事は無くなるのだろう
と思います。ところが私は、未だに「あけましておめでと
う」に違和感を持っています。「あけましておめでとう」だ
けではなく、「おめでとう」という言葉全般に違和感を持っ
てます。
「どういうつもりで『おめでとう』って言ってるの」と。
メンドクサイ奴でしょう。
『おめでとう』って、何でしょう?
そんなこと、いちいち掘り下げる人間はあまりいません。
そんなメンドウなことに、いちいち引っかかってはいられ
ません。他にする事がいろいろあるでしょう。
けれど私は、こういう事に引っかかってしまいます。
どういうわけか、〈上っ面の言葉〉・〈実の無い言葉〉に
敏感で、そういう言葉を聞いたり・使ったりするとかなり不
愉快になります。
聞き流せば済む話だし、みんなそうやって問題なく生きて
いる(ようです)。なのに、私は引っかかってしまいま
す・・・。
〈上っ面の言葉〉を使うというのは、嘘をつくよりも悪質
な感じがするのです。
人が嘘をつくときは、かなり神経を使っているものです。
自分の身の安全が掛かっていますから。(「本人からすれ
ば」ですが)
しかし、〈上っ面の言葉〉を使う時は、何も深く考えてい
ません。「そう言うものだ」から、“そう言う” だけです。
そこにあるのは “無関心” です。“心が・関わって・無い” の
です。
「おめでとう」という言葉などは、特に心を込めて使われ
るべき言葉でしょう。
正月なんぞは、べつにいいのですが、結婚式だとか出産だ
とかいう時に、誰もが「おめでとう」と口にします。でも、
大抵は意味も分からず、それゆえに心もこもらず、「そう言
うものだ」から言っているだけ・・。
そういう〈上っ面の言葉〉が人間関係の中にあふれ、積み
重なり、〈言葉〉全体をどんどん軽いものにしてゆく・・。
百万言を労しても、何の想いも伝わらない。
そんな人間関係の中で生きて行くことになってしまうでし
ょう。 嘘の方が、まだ本気なだけマシだと思います。
『おめでとう』という言葉は、「愛(め)でとう御座いま
す」という言葉が短くなったものでしょう。
「(この度の事を)“愛でたい” と思います」という、自
身の立場の表明です。
“愛でる” というのは、「花を愛でる」とか言う時の “愛
でる” ですが、「愛を持って、見守る」とか「愛を持って、
関わる」ということだと考えていいと思います。
『おめでとう』というのは、「あなたや、あなたの関わる
この出来事に、わたしは愛を持って関わって行きますよ」と
いう、かなり “ガチ” な意思表示なんです。そのはずなんで
す。
昔、侍が主君の祝い事に際して、「この度の事、誠に目出
とう存じ上げまする」などと言う時は、後でその事に関わる
問題でも起きれば、下手をすれば〈切腹〉〈お家断絶〉なん
て事さえ起こりかねません。それぐらい言葉が重かったりし
たわけです。
何も、「〈切腹〉覚悟で、『おめでとう』と言え」という
事ではないですよ。現代は〈言葉〉があまりにも軽すぎると
思うだけです
が。
政治家の失言ではないですが、〈言葉の重み〉に対する感
覚というものが本当に希薄です。その一方では、たかが〈言
葉〉でしかないものを楯に取って、他人を攻撃する人間がい
る。(自分は当たり障りのない事しか言わない 、“腰抜け”
とかですが・・)
〈心をこめて言葉を使う〉ということは、あまりにクソ真
面目に、バカ正直にすることでもない。けれど、気分の良い
ものだと思うんです。
本当に大事な人や、仲の良い友達の祝い事に、「今度の事
を、わたしは愛を持って見守っていきますよ」という思いを
込めて、その意識を持って、『おめでとう!』と言えば、そ
こには言葉を越えた “想い” が通い合うことは間違いありま
せん。
「現代は、一年生き延びることは当たり前」と書きました
が、本当のところ、私もあなたもいつ死ぬか分かったもんじ
ゃありません。死なないまでも、深い悲しみや言葉に出来な
い様な苦しみに、「死んだ方がマシだ」と思うような出来事
が起こるかも知れません。実際に起こったかも知れません。
大変だったかも知れません。けれど、この一年は何とか乗り
切れました。
去年は、大変でしたか?
去年は、楽勝でしたか?
起った事がわたしたちの人生です。
まだ起きていないことは、わたしたちの人生ではありませ
ん。
何が起こるか?
次の自分の一年を、自分で “愛でて” みましょうよ。
次の一年を迎える自分に、自分から「(この一年を)めで
とうございます」と言葉をかけてみましょうよ。
せっかくのお正月です。
会った事の無いあなたに、
私から、
『あけましておめでとうございます』
良い一年であるように祈ります。心をこめて。
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