周りを見渡して、何かきっかけになる物を探す。
さまざまな物に取り囲まれている中で、机の前のベンジャ
ミンの鉢植えに目が留まる・・・。
さて、何故ベンジャミンか?
毎日、目にしている。
ブログを書くときは、いつも目の前にある。
なのに、何故、今日、ベンジャミンか?
その理由は分からない。
これからどんな話に繋がるのかも分からない・・・。
けれど、ベンジャミンから始めよう。
ベンジャミンは、観葉植物として昔はとても人気があった
が、この頃はさっぱり見かけない。すっかり人気がなくなっ
てしまった。
今、目の前にある鉢植えは、三年程前に急にベンジャミン
が欲しくなり、あちこち探し回ってやっと一つ見つけたもの
だ。白い斑の入った葉で、お約束通りに二本の幹を捩じり合
せてある。
そして、すぐ隣にはアジアンタムの鉢がある。
要するに、小さな東南アジアがしつらえてあるわけだ。
アジアンタムはシダの仲間。ベンジャミンはゴムノキの仲
間だから、イチジク科だろう。
ぜんぜん違う植物で、それぞれが本来育つ環境は少し違う
だろうし、原産地も少し違うかも知れない。その二つが、故
郷を遠く離れ、本来なら生きられないこの日本の、私の部屋
で生きている・・・。かなり無理やりな事を私がしているん
だけれど、彼らは「そんなこと知る必要も無い」といった風
に生きている。
「生きられるから、生きている。それ以上でも、それ以下
でもない」といった佇まいだ。(勉強になります。)
私が水やり・保湿を忘れ、たまに枯れそうになる。
そのまま水やりを忘れ続ければ、枯れてしまう。だからと
いって「彼らは私に依存している」と言えば、それは早計だ
ろう。
私に依存したり、頼ったりしているわけではなく、やはり
「生きられるから、生きている」だけのことだろう。
そこに〈存在する〉条件が整っている。
だから、当然〈存在する〉。
私が、水やりをしたり、日当たりを調整したりすること
(したくなること)も条件にはいっているが、“私が、水や
りをしたくなる〈条件〉” を、私は知らない。
そもそも、なんだって今どき流行らないベンジャミンが欲
しくなったのか分からない。
彼らにも私にも分からないまま、この窓際でベンジャミン
とアジアンタムは三年余りを生きている。
ともかく生きていて、その事が私は嬉しい。
彼らが嬉しいかどうかは知らないが、私と彼らは同じ屋根
の下で生きている。そのことは、お互いにとって良いことの
様な気はする。
縁あって、一緒に生きている。
「一緒に生きる」という縁である。
これを読んでいるあなたと、私は「一緒には生きない」と
いう縁である。
こんなブログになんか出あわない人とは、「関係ない」と
いう縁である。
そもそもこの世に生まれて来ない人とは、「縁が無い」。
私が生まれて、生きて来たというのが、何の縁か知らない
し、知り得ない。知る必要も方法も無い。
ともかく生きている。
ベンジャミンや、アジアンタムや、ごちゃごちゃした物た
ちと、ゴタゴタした人たちと、会ったことも無い人たちと、
それぞれの縁で、それなりにつながって・・・。
ベンジャミンから、こんな話になったけれど、いったいこ
れはどういう縁なのか?
何故、〈縁〉の話をすることになったのか?
“私という〈縁〉” には、知る由もない。
ともかく “私という〈縁〉” も、このブログも、まだ続い
ては行く様だ。
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