2018年1月2日火曜日

「分からない」ことの喜び


 《すべてのものは〈因縁〉によって存在する》

 それが仏教の考え方だけれど、《存在する》のは〈因縁〉

そのものだけではなかろうか?

 《仮和合》という言葉があって、「仮に形を成している」

という意味だけれど、「すべての存在は〈因縁〉によって仮

に形を成しているだけだ」ということです。

 でも、その「形を成している」その物も〈因縁〉だから、

突き詰めて行くと実体は消えてしまう。

 分かり難いですか?


 コップに水が入っているとして、そこには〈コップを存在

させる因縁〉があって、コップが存在しています。

 さらに水がコップの形に存在していますが、その水自体も

〈水を存在させる因縁〉によって存在している。(酸素とか

水素とか、どこから運ばれて来たかとか)


 〈因縁〉とか〈縁〉という言葉は、〈謎〉という言葉にし

てしまった方が良いのかも知れない。

 《すべての存在は〈謎〉である》

 それでいいのでしょう。

 その方がスッキリするようにも思います。

 そして〈存在〉が〈謎〉なら、〈存在〉によって起る〈出

来事〉も、すべて〈謎〉です。


 《この世のすべては〈謎〉である》


 判断放棄ですね。

 「分からない!」。 バンザーイ!

 分からないものを分かろうとするのは、 ”徒労” でしかあ

りません。

 「分からない」と分かった以上、分かろうとする必要はあ

りませんから、わたしたちは “徒(いたずら)な、労力” を

ムダにしなくて済みます。

 誰も分からないのです。

 お釈迦さまだって、分からなかったのです。

 「分かったような」ことを言う輩を笑ってやればいい。

 「分からないのがホントだろ!」と。


 「分からなくて当たり前」

 「分からないのが正解」

 「分からないのは、OK!」


 《 分からない世界を 分からない自分が

    分からないまま生きている

   それで何も問題は無い それが当然なんだから 》


 声高に、答えが有るかのように、分かったような事を言う

奴は嘘つきですよ。(・・・“語るに落ちる” かな・・・)

 「ちょっと・・、邪魔だよ。」

 そう言って、ご遠慮願うようにした方がイイ。

 そういう連中が、わたしたちや世界を引っ掻き回してい

る。

 「分かんないから、ボチボチやろうよ。」

 そんなスタンスの人が、イイ人ですよ。

 「まぁ、さしあたり生きてるから、OK なんじゃない?」

 そう言って、笑っちゃったりするようなね。

 お釈迦さまだって、ほんとはそんな人だったかも知れませ

んよ。


 教団とか、テキストとか作る人は、どうしても “モッタイ

付けたい” ものだから。マジメぶったり、立派ぶったり、

〈権威付けしたがる〉ものですからね。もしかすると、お釈

迦さまの実像だって、伝えられているのとは、ぜんぜん違う

かも知れない。

 「ちょー、フレンドリー!」

 って、感じだったかも。いや、そう思った方がイイ様な気

がする。




 わたしたちには、何も分からないですよ。

 それがホントですよ。

 「分かった!」なんて思ったら、それは “間違えた” って

ことですよ。だって、“分からない” はずなんだから。

 分かろうとするのが、間違いのもとですよ。

 「分かった」なんて思ったら、それは犯罪ですよ。


 そういうことですよ。

 ホント。 


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 今しがた、ちょっとブログを書くのを中断して、コンビニ

へ行って来たんですが、途中、近所の小さなお宮で “初詣” 

をして来ました。

 このブログを書いていた勢いで、

 『分かんないんで、よろしくお願いしま~す!』

 と、テキトーなノリで、お願いして来ました。


 「分からない」って、楽しい。

 「分からない」って、嬉しい。

 「分からない」って、優しい。

 「分からない」って、神々しい・・・。

 そんな感じ、・・・分かってもらえると嬉しいんですが。





  

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