2018年1月26日金曜日
アーティストは、いらない
先日、NHKで仏師の松本明慶さんが、丈六の不動明王を
彫るという番組を観た。10年程前の再放送で、たぶんその
時も観たのだと思う。
その中で松本さんが、「仏を彫るのに、終りは無い」と言
われていたが、職人というものはそういうものだろう。
「これでよし」と思ったら、そこで終わり。
自分の仕事に「これでよし」と判断を下せるようなら、そ
れは職人ではない。引退するまで、あるいは死ぬまで、「昨
日までより良い仕事をする」ことを目指すのが職人だ。
職人とは、仕事の種類や内容とは関係なく、常に “更なる
完成” を目指す人の事だろう。芸術家と同じだと思う。とい
うより、「芸術家」というカテゴリーが現代のものであっ
て、昔は「芸術家」はいなかった。
絵描き、工芸家、陶工、彫刻師などの様々な職人の中で、
レベルの高い仕事をした者が、後に「芸術家」と呼ばれる様
になったのであって、昔は「芸術家」という人はいなかっ
た。逆に、現在「芸術家」という職業が存在することを、私
は以前から訝しんでいる。
「芸術を作る」という前提で物を作ることに、どうも不純
な感じを覚える。
「芸術って、作れるの?」という気がするのです。
誰かのした仕事が、時代に淘汰されずに価値を持ち続けた
時、初めてその人は「芸術家」と呼ばれ、その仕事が「芸術
作品」となるのだと思う。
ひとりの職人が、自身の仕事の完成度を高める為に、飽く
ことなく、憑りつかれた様に精進を続ける。そこには、「芸
術作品を作ろう」などという目的意識など無く、ただ「もっ
と良い仕事がしたい」、「もっと良い物を作りたい」という
職人気質があるだけだろう。
その “憑りつかれた様な精進” から生まれたものが、人を
感動させ、人をして「芸術」と呼ばせるものになるのであっ
て、「芸術作品」に先立つ「芸術家」なんて、茶番だと思
う。
はなから「芸術作品を作ろう」なんて傲慢だし、なんか
“履き違えてる感” が満載だ。
そもそも私は、〈アーティスト〉という言葉が嫌いで、歌
手やミュージシャンまでが〈アーティスト〉と呼ばれる様に
なって、呆れ返っている。
せめて〈クリエイター〉ぐらいにしといてくれ。
人の中に潜む “作ることへの情動” が、その人の人生を乗
っ取り、理屈や計算を越えた欲求が作らせる物。それが「芸
術」と成り得るのだろう。
芸術ではないけれど、『エースをねらえ!』の中で(突然
ですが)、“お蝶夫人” が、自分より “岡ひろみ” の方が優れ
たプレイヤーだと伝える為に、ひろみに向かって、こう言う
シーンがあります。
「自分が先に立つ者はだめなのです。天才は無心なので
す」(カッコイイ!)
「芸術」を目的にして生まれるものが、必ずしも「芸術」
ではないだろうし、ともすれば、それは一種のビジネスでし
ょう。
むしろ「ビジネスを突き詰めたら『芸術』になっちゃっ
た」という方が “あり” だと思う。
画家は、“絵描き” である方がいいし、彫刻家は “彫り物
師” でいて欲しいし、陶芸家は “陶工” でいてもらいたい。
「芸術家」や「芸術作品」が、掃いて捨てるほど存在する
なんて、お手軽過ぎるでしょ。
京都の『三年坂美術館』にある、明治時代の工芸品を観る
と、その超絶技巧と美しさにぶっ飛びますが、作者名があっ
たとしても、それはプロデューサーであって、作ったのは作
者も含めた職人集団です。
名前も残っていない職人たちが、100年以上も後にわた
したちを驚愕させる。そこにあるのは、まぎれもない「芸
術」です。そんな人たちの事を考えると、生きているうちに
「芸術家」を名乗るなんて片腹痛い。
「芸術家」とか〈アーティスト〉なんて言葉は、無くなっ
た方がいいのかも知れないな・・・。などと考える。
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