2018年1月31日水曜日
後始末の始末。
今日もまた一日が過ぎて行く。
56年生きて来たけれど、それでどうということもない。
人様に自慢できるような事はしていないし、人様に顔向け
できない様な事もして来なかった。(知られると恥ずかしい
事ぐらいはあるけどね)
人を不愉快にする事よりも、人に喜ばれる事をした方が多
かったろうと思うので、そのあたりは、まぁ、上出来と言え
るんじゃないか。でも、まぁ、それもどうということでもな
い。なにせ、もう終わってしまってる事だ。
《 起った時には、終わってる 》
前に、そう書いた。
すべては、もう終わってる。
すべては、記憶でしかない。
だから、どうということもない。
当たり前だが、わたしたちが知っていることは、すべて終
わったことだ。その終わった事との関わりの中で、わたした
ちは生きて行く。
そう考えてみれば、わたしたち人間がしていることは、す
べて過去の後始末と言っていいのかも知れない。それが、ポ
ジティブに見えてもね。
後始末の仕方が悪いから、いつまでたっても片付かなく
て、ジタバタ・ゴタゴタし続けているのが、人間なのかも知
れない。個人も、社会全体も。
将来のことを考えて、あれこれするけれど、それは過去を
踏まえた上でのことなので、結局は後始末の一種なんだろう
と思う。・・・なんだか、人間ってみっともないなぁ。
私のこれまでも、後始末に追われる人生だったのだろう。
自分が仕出かしたことと、自分が巻き込まれたことに、必
死になって片を付けようとして来たのは間違いない。そし
て、それがほぼすべて。
ただ、この一年はあきらかに違って来た。
このブログを書くこともそうだけれど、「『後始末』の
始末」とでもいうことを、やり始めているのかも知れない。
今までやって来た事、経験して来た事を、全部物置に放り
込んで、一度、チャラにする。そして、ウロウロしない。ゴ
チャゴチャしない。過去も未来も、いじくらない。
縁側に座って、日向ぼっこをする様な気持ちで日々を修め
てゆく・・・。(年寄か!)
今から何があるか?
日々、何かがあるだろう。
日々、何かをするだろう。
でも、それもまた終わってゆくことだ。
すべては、終わったことだ。
“後始末ではない人生” は、可能だろうか?
〈身体〉と〈エゴ〉は、後始末に追われる定めだろうけれ
ど、〈エゴ〉の外に在る《意識》は、後始末とは無縁と思わ
れる。
《意識》からすれば、過去なんてケリが付いている。
《 なんということ!
もう、みんな終っている。
すべてケリがついている。
今の今まで気付かなかった。
用は済んだ。
さて・・・・、生に溺れていようか。》
最近、そんなことを思った・・・。
「未来は、無い」
「過去は、もう無い」
そう想う時、私はなにやら、ニンマリしてしまう。
「ふふっ」と笑いたくなる。
「あぁ~っ、楽だぁ。なんか、笑っちゃう!」
そんな気分になる。
それで、世の中との “メンドウクサイ” が無くなるわけで
はないけれど。でもね・・・、ケリは付いたんですよ。
私の中でね。
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