2018年12月1日土曜日
人生は自分のものではない
私には、私の人生がある。
あなたには、あなたの人生がある。
人それぞれ、ひとりひとりにその人の人生がある。
でも、その人生は、実はその人のものではない。
人生は、自分の物ではないのです。
自分が関わる出来事と、エゴとのせめぎ合いから生まれる
印象を、わたしたちが「自分の人生」と考えるだけなので
す。
わたしたちは、世界の一要素として世界の運行の中に在っ
て、世界に動かされているというのが本当でしょう。
ですから、その世界の一部を切り取って、自分のものだと
する事は、実質的には出来ないことなのです。ただ、エゴが
そう考えるだけのことです。
むしろ、「自分の人生」だと思われる出来事の一部とし
て、自分がある。自分より、自分を取り巻く出来事の方が上
位の存在です。
当然ですよね。自分より、自分の周りの世界の方が大きな
存在に決まってます。
わたしたちは「自分の人生」だと考えている “出来事”
(“状況” と言ってもいい)に、自分が使われているので
す。
「そんなの虚しい」ですか?
“人生設計” なんて言葉が存在するように、人生を自分の
思うようにコントロールしたいと思うのが、まぁ普通ですか
ら、「“人生(と考えているもの)” に自分が使われている
なんておかしい」「自分の存在に意味が無いことになる」と
感じる人が多いでしょう。でも、なぜ「おかしい」「意味が
無い」などと感じるのでしょうか?
それは、自分が「主体」じゃないからですね。
わたしたちのエゴは、当たり前のように「自分が中心」
「自分が主体」でものを考えます。極端に言えば
《わたしたちは誰もが、世界征服を企んでいます》
それぐらい、わたしたちは「自分が中心」です。
それが事もあろうに、「自分の人生」に自分が使われてい
るなんてとんでもない!
とてもじゃないが承服できないのですね。
けれど、残念ながら「自分の人生」は自分のものではない
のです。
わたしたちは「自分の人生」をコントロールしようとし、
ある程度はコントロール出来ていると思ったりしますが、そ
れはすべて錯覚です。
わたしたちは世界に動かされているに過ぎません。
わたしたちは、人生に動かされている。
わたしたちは、人生に運ばれている・・・。
こう考えてみましょう。
「わたしたちは、“人生” というツアーを過ごしているの
です」
自分で歩いたり、走ったり、這いつくばったりしなければ
いけなかったりもしますが、本質的には「おまかせ」です。
“主体性” などを気にしなければ、お気楽なものです。
「人生は自分のものではない」と受けとることが出来れ
ば、わたしたちは肩の荷が下りるのではのではないでしょう
か? 自分で人生をどうこうしようと考えたり、動き回った
りしなくていいのですから。
人生という「自分の為のツアー」で、他の誰も味わうこと
の出来ない景色や出来事を体験する・・・。
「生きる」ということは、そういうことではないでしょう
か? それだけのことではないでしょうか?
前にも書きましたが、「それだけのこと」は “空前絶後”
“唯一無二” ということでもあります。(『それだけのこと
の、奇跡』2018/8)
わたしたちは、せっかくの自分だけの「それだけのこと」
を、自分で引っ掻き回してグチャグチャにしているのではな
いでしょうか? 自分でグチャグチャにして、自分で混乱し
ているに過ぎないのではないでしょうか?
あれやこれやと考えて、自分の人生を社会的な価値感の上
で「良いものにしよう」「価値あるものにしよう」とし、そ
れが可能であると考える為に、かえって自分の人生の “唯一
無二性” を損ない、自分の人生を生き損ねてしまう・・。そ
れがわたしたち人間が一般にやっていることなんじゃないか
と思います。
バーノン・ハワードというアメリカの光明思想家がこんな
言葉を残しています。
《あなた自身をどうしたら良いかなど知らなくていいとし
たら、なんと幸福な人生だろうか!》
わたしたちは考え過ぎる。
それも、生まれてからすぐに世の中から植え付けられ続け
るものの見方によって考え過ぎる。
正しいことなど誰も知らないのに、誰もが「知っている」
かのように考え、主張し、行動に移して行く・・。
それはそれで “それぞれの人生” ではあるのでしょうが、
その人生は “エゴのフィルター” を透して見る人生です。自
分の人生の本質である “唯一無二性” を見ないままに終わる
人生でしょう。つまり、自分の人生を生き損ねる・・。「生
き損ねる」と言って悪ければ、「味わい損ねる」ことになる
でしょう。だって、“世の中の価値感” という雑味の中で
は、“生の味わい” などという繊細で深みのあるものは、か
き消されてしまうでしょうから。
わたしたちが人生をコントロールしようとするのは、エゴ
として満足を得たいからです。その求める所は、常に「今よ
り上」の状況です。(たとえば、“悟りを得たい” などとい
うのもエゴです!)
「人生は自分のものではない」という認識、あるいは受容
というものは、「今より上」という望みを消し去ります。
そして “これまでの人生” と “いまある人生” を無条件で容
認することにつながります(虚無感に襲われる可能性も否定
できませんが・・、その時はごめんなさい)。
「人生を無条件で容認できる」!
それを『幸福』と言わずして何を「幸福」と呼べるでしょ
うか?
《 人生は自分のものではない 》
もちろん、自分の人生は社会なんかのものではないです
が、社会の中にあって動かされてゆく自分の人生を、「自分
のものではない」と受け止めることで、自分の人生と社会も
含めた世界を味わいながら生きて行くことが出来るのだろう
と思います。
もちろん、私はそのように日々を生き続けているわけでは
ありませんが、それを実感できるひと時をいく度も持ちなが
ら生きているということは言えます。
もしかしたら、それは私の妄想か自己暗示かも知れません
が、ある種の宗教のように、布教して回ったりして自分の考
えを強化しようとしないことが、自己暗示ではない査証にな
るのではないかと思います(このブログは「布教」とは言え
るものではないでしょうからね。このブログは「思いやり」
だと考えています)。
あなたの人生は、あなたのものではありません。
良かったですね!
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