2018年12月15日土曜日
角さんと宗方 仁
さてと、前回 角さん(角淳一)のことについて書きまし
たが、その前の前に書いた 宗方 仁 とは、ほぼ真逆のパーソ
ナリティです(角さん、ゴメン!)。
いったい、私の中でどのようにして 角さん と 宗方 仁 が
共存できるのでしょう? 私は一貫性の無い、その場しのぎ
の口先だけの人間なのでしょうか?
いいえ、私の中では一貫性があるのです。
宗方 仁 に誘われて進むと、人は自分と出会うことになる
のです。そして私が自分と出会った時、横に居たのが 角さ
ん だったのです。
ヒーローになれなかった私は、平凡なひとりの人間である
ことを認めざるを得なかった。と同時に、平凡も非凡もそれ
ぞれに、それはそれでその人なのだと気付いたのでした。非
凡も平凡の内だと・・・。
賞賛され、尊敬され、たとえ伝説の人となろうとも、運命
に動かされて混乱し、涙し、時折安らぎを覚えながらも、苦
悩しながら生きて行く存在であることに、ヒーローも凡人も
違いはない。ヒーローは、その時代の光の当たり方によって
ちょっと目立つに過ぎないし、それが故に、かえって苦しむ
かもしれない。
むしろ、平凡に安住出来ない人間は、エゴによって動揺さ
せられているに過ぎないのかもしれない。
平凡でも非凡でも、人はそのように生きさせられているの
であって、社会の約束事の外では平凡も非凡も無い。
ひとりの人間が、生きて、死ぬ。
それに尽きる。
宗方 仁 という、研ぎ澄まされた日本刀のような人間に誘
われて進んだ先に、ゆるさの極致のような 角 淳一 がいる
(角さん、ゴメン!)。
角さん が悟りを開いているわけではない(と思う)。
でも、宗方 仁 の先に 角 淳一 がいるというのは、修行僧
が厳しい修行の果てに、やがておおらかさを身に付けること
と同じだという気がする。
(何だかまた、角 淳一 というオッサンを持ち上げすぎた様
です。このまま褒め殺しにしようかな)
でもね、平凡とか非凡とかに心が捕らわれている内は、人
は安らぎを持てないんですよ。やっぱり。
平凡に見えようが、非凡に見えようが、ひとりの人間はひ
とりの人間なんです。生まれてやがて死んで行く。
伝説になったって、人類が滅びる時にはその記憶もろとも
消えて行くのです。
「そんなこと負け惜しみだ」と思われるかもしれない、で
も、そう言う人も消えて無くなります。
平凡に甘んじ、非凡に甘んじ、とにかく自分が自分である
ことに安んじる・・・。
そう、『エースをねらえ!』の中で、お蝶夫人が ひろみ
にこう言いますね。
「『わたしがやる』とか『わたしにならできる』とか、い
つも自我が表面に出る者は、頂点には登りきれない。天才は
無心なのです」と。
物語の体裁として、岡ひろみは頂点を目指すわけですが、
作者の山本鈴美香が真に描こうとしたのは、それぞれの人間
が「自分を生きる」ことだったでしょう。
平凡も非凡も忘れた時、人ははじめて自分を生きるので
す。
(何だかカッコイイ終りになったな~!・・と、こういう
ことを思ってしまうのがいけないんだよな。でも、こういう
ことを思ってしまうのが “平凡” の証拠で、平凡でいいと思
えたらそれでいいのだから・・・、メンドウです・・・。と
ころで、角 さん は何処へ行った?)
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