2018年12月4日火曜日

「本気」で話す人


 人の話を聴くというのは、詳細を吟味したり、言葉尻を捉

える為ではありません。

 相手が(時には、自分が)訴えようとしている、気分や無

意識の思い、その強さや方向を捕らえることがその本質で

す。



 人は平気で、自分に対しても嘘をつきますし、自分の本心

をごまかしたりします。ましてや、人の話の具体的な内容な

んか、事務的な事でなければ、あまり聴くに値しません。

 自分が自分自身に語る話であっても、人から聞く話であっ

ても、注目すべきは、その語り口から漂う緊迫感であると

か、高揚感・切実さ・誠実さなどでしょう。要するに、「ど

こまで本気か?」ということですね。



 ずいぶん昔、仕事の関係で労働安全の講習に行った事が有

ります。

 いくつかのカリキュラムを受けたのですが、最後に最寄り

の労働基準監督署の所長の講演がありました。

 話の内容は、「労災事故を無くすこと」。特に「〈労災死

亡事故〉を無くすこと」だったのですが、話を聴いていて、

その人が本気で話している事が分かりました。

 単に、仕事だから話しているのではなくて、その人が本気

で労災を減らしたいと思っているのが伝わって来たのです。



 話の内容は何も憶えていませんが、その人の “本気度” は

今でも心に残っています。

 そんな経験から私は確信しています。

 「想いが伝わるかどうかは、話の内容ではなく、その本気

度で決まる」と・・。



 話の枝葉末節は大した事ではない。

 むしろ、枝葉末節にこだわる人は、相手に本気で伝えるべ

き事を持っていないし、受け取る場合でも、相手が伝えたい

ことを本気で受け取る気が無い人だと思っています。



 ただ、それが必ずしも良いことではありません。

 ヒトラーの本気度に熱くなった人々は、具体的な事の是非

を考えることを捨ててしまったし、日本の “60年・70年

安保” に関わった若者たちは、「本気であること」だけを重

要視して思考停止してしまった。

 だから、「想いが伝わればいい」というだけでは済まな

い。「その “想いのベクトル” が何処を向いているか?」と

いうことも大きな問題です。それが、本当に人や世界のしあ

わせを向いているのか? 「しあわせが何か?」を本当に分

っているのか・・・。



 ちょっと話が大仰なことになりました・・・。



 わたしが言おうとしていたのはこんなことです。


 「ひとの言葉はぞんざいに扱うくせに、自分に都合が良い


時はひとの言葉に大きな責任を負わせる。そんな世の中や人

間が気に喰わない」ということ。



 そして問題なのは、ひとの言葉をぞんざいに扱っているう

ちに、自分が自分自身に語る言葉にも本気で耳を傾けなくな

るということです。

 世渡りの為に言葉をもてあそんでいる内に、自分の声さえ

聞かなくなり、自分を見失ってしまう・・・。



 人は「自分を生きるべきはず」なのに、「世の中を生き

る」ことにしか目を向けなくなってしまう。そして、自分を

生きないまま、自分を生き損ねたまま、人生は終わる・・。



 何を話すか・・。

 本気で話すか・・。

 それは、人が生きる上で存外に重要な事です。



 「たかが言葉」

 「たかがお話」

 そんな風に高を括って、言葉をぞんざいに扱っていると、

死んでも死にきれないほど後悔することになるでしょう。



 このブログは口から出まかせですが、「自分や、このブロ

グを読む人の為にならない」と違和感を感じる事は書きませ

ん。

 少なくとも、「『自分にもひとにも良かれ』と思える事で

なければ書いてはいけない」という矜持の様な物は持ってい

ます。それが他の人からみて正しいかどうかは、私には分か

りませんが。



 「話すこと」・「聴くこと」は、恐るべき事だと思いま

す・・・。

 それが日々の雑談であつても、その人の “人となり” をあ

らわにし、大きな問題を引き起こす事だって珍しくはない。



 人は、言葉をぞんざいに扱っていながら、そのくせ言葉の

奥にある真意を敏感に感じ取ったりします。


 肚を括って、話し、聴かなければなりません。


 人が、「本当は何を伝えたがっているのか」を・・・。



 「“言葉遊び” だけで一生を終えてしまえるほど、わたし

たちは〈お気楽〉でいられない」というのが本当でしょうか

らね。
 




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