2018年12月8日土曜日

お天道様が観てござる


 「時間をムダにするな」

 「人生をムダにするな」

 「命をムダにするな」



 こういうセリフは、ドラマの中でも、実際の世の中でもよ

く使われますね。言葉は違っても、言っている事は、まぁ同

じだと考えてよいでしょう。



 これらのセリフは、有無を言わせぬ感じがありますが、し

かし「時間のムダ」「人生のムダ」「命のムダ」とは何でし

ょう?

 いったい、時間をムダにしたりできるのでしょうか?

 「ムダな人生」とは、どんな人生でしょうか?

 「命をムダにする」とは、どんなことでしょうか?
 


 物事は、ある基準、希望、要求が前提として有って、初め

て「ムダ」か「ムダでない」かと評価することが出来ます。

 基準、希望などが無ければ、そもそも「ムダ」とか「ムダ

でない」といった意識は生まれません。

  そして「ムダ」という評価は、“得たいもの” あるいは 

“得られるはずのもの” が、得られないようになる行為に対

して為されるものですね。



 では、「時間のムダ」「人生のムダ」「命のムダ」などと

言う時、何が得られなくなるのでしょう?

 逆に言えば、人は〈時間〉や〈人生〉や〈命〉を費やして

何を得たいのでしょう?



 具体的に何を得たいかは、個人々々で違いますが、本質的

には「ごく個人的な欲求」か、“「社会的な評価」に基づく 

自己肯定感” だと思われますね。どちらにしろ、個人として

の〈満足〉ということでしょう(持ってまわったわりには当

たり前の事だ・・)。

 しかし、「時間」や「人生」や「命」を、ムダにしたりで

きるものでしょうか?

 「時間」も「人生」も「命」も、「個人の欲求」や「社会

的評価」や、その為の「基準」や「希望」以前に存在してい

るものです。満足出来ないからといって、それが「ムダ」に

なるなんて発想は傲慢じゃないのか?




 世の中にはいろんな人がいますよね。

 酒の飲みすぎでアルコール依存症になり、社会に適応でき

なくなった挙句に、肝硬変で死んでしまう・・・。そんな人

は「人生をムダにした」なんて言われたりする。

 金儲けに一所懸命な人や受験生などは、何もせずにゴロゴ

ロ過ごしていたりすると「時間のムダ」だと思うでしょう。

 面白がって車を猛スピードで走らせて、事故を起こして死

んでしまう若者がよくいますが、彼らは「命をムダにした」

と他人に思われる。

 それらの事は、世の中の基準に照らし合わせれば、確かに

「ムダ」なのでしょう。そして、そういったムダな事をする

人は「おバカさん」なのでしょう。でも、バカだろうがマヌ

ケだろうが怠け者だろうが、それはそれで生きている(生き

ていた)のです。



 その〈生〉が、例え一日だろうが、十年だろうが、百年だ

ろうが、それはそれで “その〈生〉” です。どこかの誰かと

比べて評価されることとは関わりなく、“その〈生〉” で

す。どんな形であろうと、〈生〉そのものが「ムダ」である

はずがない。いや、〈生〉以外のあらゆる〈存在〉もムダで

あるはずがない。

 「ムダ」だとか「ムダでない」とか言うけれど、人間に

は、〈存在〉を評価する資格も能力も無い。なぜなら、人間

も〈存在〉の一部でしかないのだから。


 どのように過ごそうと、「時間」をムダにすることは出来

ない。


 どの様に生きようと、「人生」をムダにする事なんか出来

ない。


 いつ、どのように死のうと、「命」をムダにする事なんか

出来ない。


 「ロクでもない人間になって、怠けて、すさんで、愚かな

ことをして早死にすればいい」なんてことは言いませんよ。

そんなこと、誰にもお勧めできません。私も避けたい。

 でも、「ロクでもない人間になって、怠けて、すさんで、

愚かなことをして早死にした人」が、「ムダに生きた」とい

うことではないと思う。

 そういう人は結構いる。けれど、それはそれでひとつの

〈生〉です。そして、〈生〉は人間の評価を超えているもの

です。


 自分が、抜き差しならない所にはまり込んでしまって、ロ

クでもない事から抜け出せないまま、長い間地べたを這いず

るようにして暮らしたとしても、安心して「ほめられたもん

じゃない〈人生〉」を生きていいのだと思う(そういう状況

の人が安心するのは不可能に近いですがね)。

 誰もほめてくれなくて、バカにされて、相手にされなく

て、社会の底辺や外側で独りで泣いていたとしても、その

〈生〉はムダではない。


 昔の日本では『お天道様が観てござる』などと言ったりし

ました。ほとんど死語でしょうが、この言葉にはまだ温もり

がある様に思う。で、この言葉を引き合いに出しますが、こ

の言葉は二通りの意味合いを持っています。

 一つは「悪事はバレる・裁かれる」といったこと。

 もう一つは「誰も分かってくれなくても、『お天道様』は

苦労を分かってくれる」ということ。



  とはいうものの『お天道様』が苦労を分かってくれたと

ころで、何も具体的な状況が改善するわけではありません

ね。

 じゃぁ、なんだってこんな話をするかというと、人の在り

を、人間界の約束事の視点からだけではなく、『お天道

様』の視点からも見てみようということです。



 地球上に生きているものは、人に限らず、太陽のエネルギ

ーによって生かされているのは疑いようのないことです。無

生物の活動も、その多くの部分が太陽のエネルギーによるも

のです。その太陽から見て、人は地球上の特別な存在でしょ

うか?

 違うでしょうね。

 アリやネズミやススキやブナや石ころや水と同じように、

ただ「存在するもの」というだけでしょう。(太陽でスーパ

ーフレアでも起これば、現代の人類は絶滅の危機にさらされ

かねませんしね)



 その太陽(『お天道様』)の視点から見た時、「ムダ」と

か「ムダでない」とかあったもんじゃない。

 どんなに「下手っクソな」生き方をしたとしても、「すご

く上手くやった!」こととの間に違いと呼べるものはない。

ただ人間と人間のあいだで「違う」ということにするだけで

しかありません。それぞれに「それは、それ」だというだけ

です。

 現生人類が登場してから、どれぐらい経つのか詳しく知り

ませんが、全員死にましたしね。
 

 〈生きてるほどクダラナイことはない〉と、デビュー当時

の泉谷しげるが歌っていましたが(『白雪姫の毒リンゴ』と

いう歌です)、「それではあんまりだ!」ということで、み

んな生きてる事を「クダる」ことにしたいだけなのです。

「ムダではない」と思いたいが故に、「ムダに生きてる」人

間を設定して、それをダシに自分の心の安定を図ろうとして

いるに過ぎません。

 生きてる事はみんなムダです  ゴメンナサイね  




 でも、ムダなんです。全部。すべて。みんな。誰も彼も一

人残らず・・・。



 けれど、みんなムダなら「ムダ」という概念は意味を失い

ますね。みんなムダなら、同時に「ムダでない」ことも無く

なります。すべてが、誰も彼もが、何もかもが、「それは、

それ」として等価に存在していることに気付きます。



 「それじゃぁツマンナイ!」と思われるかも知れません

が、そう思う人は〈アタマの悪さ〉に振り回されて、本当に

「時間」と「人生」と「命」をムダにしてしまうかもしれま

せんよ。



 「全部ムダ」、と同時に「すべてムダではない」。

 「ムダ」も、「ムダでない」も無い、評価の無い意識。

 それを《絶対幸福》と言います。





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