2024年11月26日火曜日

情報伝達物質か・・・

 
 
 前々回、梅田から逃げ帰った話を書いたけれど、あの日ビル
 
の谷間の底で、私は脳みその溝の中に居るようなイメージを
 
持った。
 
 
 立ち並ぶ高層ビルのそれぞれの部屋は脳細胞のようなもの
 
で、そのすべてに人が居て、そこで物やら情報やらをあっちへ
 
やったりこっちへやったりしているだろう。部屋の中で、部屋
 
から部屋へ、ビルからビルへ、街から街へ・・・、仕事であれ
 
遊びであれ、人が情報を運ぶために蠢いている。(物も情報の
 
一種と捉えておいて下さいね)
 
 都市という脳みその中で、人が情報をやり取りしているよう
 
に思っているけれど、実は人が情報に使われているのではない
 
のか?都市の中で、人は情報を背負わされ、情報を運ばされて
 
いるのでは?人はもはや情報伝達物質に成り下がっているのか
 
もしれない・・・。ビルの谷間を行き交う人々を見て、そんな
 
イメージが湧いた。
 
 
 人は手段と目的を取り違えることを得意としているけれど、
 
人が生きる「手段」であるはずの “都市” と “社会” の中で、い
 
つの間にやら、人が “都市”と “社会” の「手段」になってしま
 
 っているらしい。
 
 
 そうそう、西岡たかしの『じゃんじゃん町ぶるうす』の中に
 
こんな歌詞があった。
 
 
  ちょいと歩いてごらん梅田のあたり
 
  地下街入れば地獄がみえるよ
 
  お天道様も質屋に放り込んでよ
 
  悪魔の光の下で みんなうろうろ うろうろ 
 
  ちょいと歩いてごらん梅田のあたり
 
 
 これはもう50年前の曲だけど、今の梅田は地上でさえ地下
 
(谷底)になった。そしてうろうろ うろうろ・・・。
 
 
 これまでにも書いたけれど、 地獄というものはわたしたちの
 
アタマが作る。わたしたちのアタマの中に地獄はある。わたし
 
たちのアタマの中に本当のしあわせは無い。
 
 アタマの中身を外に出したものである都市にしあわせは有る
 
か?そこは飾られ、偽装された地獄かもしれないね。
 
 そんな目線で都市を見てみるのも面白いかもしれない。
 
 
 ちょいと歩いてごらん梅田のあたり・・・・
 
 
 
 

2024年11月25日月曜日

欠くること無し、余ること無し

 
 
 タイトルの言葉は、いまから1400年ほど前に中国で書か
 
れた、『信心銘』という禅を代表する書物からの言葉です。元
 
は漢文なので「無欠無余」と書かれていて、それを日本語的に
 
送り仮名を付けて読んである。要するにこの世界の状態のこと
 
です。
 
 「何も欠けていない。何も余っていない」 
 
 そりゃそうですよね。〈エネルギー保存の法則〉です。在る
 
ものはすべてある。当たり前の話ですが、その当たり前をわざ
 
わざ書き残さなければいけなかったということと、それが今で
 
も読まれて人をして考えさせるというのは、わたしたちが当た
 
り前のことを分かっていないということですね。当たり前のこ
 
となのになぜ分からないのでしょう?
 
 
 「無欠無余」。言い換えれば「完全無欠」ですけど、わたし
 
たちのアタマはこの世界の完全無欠が気に入らないようです。
 
 「こんなの完全無欠じゃない! 😤」とアタマは異議を唱え
 
るのですね。自分の筋書きと違うからです。でも、私が世界
 
だったら言うでしょう。
 
 
 「オマエ何様のつもり?勝手に妄想して、勝手に不機嫌に
 
なってるだけだろうが。勝手にするのが好きなら、勝手に不幸
 
になっていればいい。こっちはすべてそろえてやってるぞ。こ
 
の大バカ者め!」
 
 
 アタマはバカです。アタマが出しゃばる限り、問題は絶えま
 
せん。問題とは自分を取り巻く状況に「欠け」と「余り」 を見
 
てしまうことで、それはアタマの得意技ですからね。
 
 
 世界は完全無欠。欠くること無し、余ること無し。
 
  アタマがバカなのも、そういう風にできているのだから、そ
 
れはそれで完全無欠の一部。 バカなりに可愛いという見方もで
 
きるでしょう。
 
 
 世界の完全無欠性に思いを馳せれば言葉を失う。だって、言
 
葉は分ける働きだから、完全無欠の中に言葉は入れない。
 
 言葉を失って、ただただ世界を感じ取るとき、わたしたちも
 
完全無欠の一部になっている・・・。
 
 
 「う~~~~~む・・・・」
 
 
 言葉の出る幕じゃない・・・・・・・・・
 
 
 
 

2024年11月24日日曜日

梅田から逃げ帰る

 
 
 昨日は用があってとても久しぶりに大阪の梅田へ出かけた。
 
20 ~ 30 年前は梅田にあるアウトドアショップなどへちょく
 
ちょく買い物に出かけたりして、それなりに土地勘が有ったの
 
だけど、十数年ぶりの梅田は想像以上に様変わりしていて、阪
 
神梅田駅から地上に出ると、ぐるりと高層ビルに取り囲まれて
 
いて自分がどこにいるのか見当もつかなかった😂
 
 スマホのナビを開いてみたが役には立たず、面白半分に5分
 
ほど迷走したところで JR 大阪駅の前に出たので、やっと自分
 
の位置が把握できた。で、無事に用事を済ませたところで、
 
「長居は無用」と一目散に神戸に帰った。
 
 
 神戸も都市ではあるけれど、大阪は平野部に拡がった大都市
 
なので、神戸とは違って人が360°あらゆる方向から行き来
 
するのでわけが分からない。そして長年都市的なものからある
 
程度距離を置きながら生きてきた私にとって、その街は異世界
 
だったし、そこを行き交う人たちも、自分とは違う世界に生き
 
ているとしか思えなかった。あそこで遊ぶエネルギーも資質も
 
いまの私には無い。私はもはやある意味で引きこもりなのだろ
 
う。
 
 
 都市の中で生活し、遊ぶことは、人の約束事の中で生きるこ
 
とを意味する。養老孟司先生が指摘するように、都市は人間の
 
アタマの中身を外へ出したものであり、人の約束事で作られ、
 
人の約束事でその機能が維持されている。私は人の約束事がメ
 
ンドウで仕方がない人間なので、あんなところには長く居られ
 
ない。20代のころならいざ知らず、いまとなっては都市のス
 
トーリーの中で遊んで楽しむなんて考えられない。
 
 たんに歳のせいかもしれないが、あそこには自分と同年代や
 
高齢者も沢山いたので、歳のせいだけでもないだろう。あのよ
 
うな場所は私が生きるところではないと、改めて実感した。
 
 
 もはや私はほとんど部外者だけど、それで良い。不足はな
 
い。残りの人生を穏当に生きられてもそんなに長くはないの
 
で、自分の身の丈に合った、飾らない、正味の自分で過ごした
 
方が良いのに決まっている。「三十六計逃げるに如かず」。
 
 
 そういえば、『求めない』を書いた加嶋祥造さんは、「逃げ
 
て逃げて、この伊那谷にたどり着いた」と自身の人生を振り
 
返っておられたし、『バックパッキング教書』の中でシェリダ
 
ン・アンダーソンは「人は都会を発明した時から都会から逃げ
 
出そうとしてきた。最善の方法は逃げ出しちゃうことである」
 
と書いている。
 
 
 都会は人間のアタマの中である。
 
 《 アタマが悪さをすることを「アタマが悪い」という 》
 
言い続けている私が、都会から逃げ帰ってくるのは至極当然な
 
ことだ。
 
 
 あそこで蠢く人々・・・。彼らの幸運を祈っておこう🙏
 
 
 (そういえば、今年も年末調整の書類を書く時期になった。
  ああ、面倒臭い・・・😭)
 
 
 
 

2024年11月23日土曜日

自分のやり方で

 
 
 私がこんなブログを書いているのはなりゆきで、確固とした
 
理由が有るわけではないけれど、ひとつ理由を挙げるとした
 
ら、私が世の中で上手くやっていけないからということだろ
 
う。引きこもりになったりするほどではなく、一応世の中で生
 
きてはゆけるけれど、上手に立ち回っていわゆる「良い思い」
 
ができるような人間ではない。出来が悪いのである。
 
 そういう人間なので、私のアタマはなんとか自己肯定しよう
 
として、世の中の価値観を否定するという方針を採った。世の
 
中が採用している価値が無価値であれば、それを得られなくて
 
も自己肯定感を損なわれずに済むからである。というわけで、
 
私がこのブログで書くようなことを考えているのは、私のアタ
 
マがご都合主義の悪あがきをしているだけだとも言える。もし
 
本当にそれだけのことならばなんとも情けない話だけれど、幸
 
いなことに自分の考えを正当化できる素晴らしい味方がいる。
 
お釈迦様である。
 
 
 釈迦は釈迦国の王子として生まれた。小国とはいえ王子であ
 
るので、なに不自由ない贅沢な暮らしをしていた。にもかかわ
 
らず、世の中と生きることの無常(無情)を感じて、国と家族
 
を捨てて出家してしまい、苦行に身を投じ、苦行の無意味さを
 
知り、瞑想の後に悟りを啓いて、生きることの真実と安らぎを
 
得た。世の中の成功・安楽はまやかしだと、王子としての実体
 
験を踏まえたうえで確信したのだ。

 
 貧乏人の私が世の中の価値を否定しても負け惜しみに過ぎな
 
いかもしれないが、2500年前とはいえ一国の王子が世の中
 
の価値を否定したのだから、なかなか反論はしづらいだろう。
 
なので私も安心して世の中の価値を否定できる。それが私流
 
で、自分に合っているからそれでいいのである。
 
 
 価値観、あるいはものの見方というものは、自分が心底納得
 
できるのならそれでいいのだ。
 
 たとえばヒトラーはあのような思想を展開したけれど、最後
 
には追い詰められて自ら命を絶った。心底納得していなかった
 
が故に、絶望したのだと思われる。比べると怒られるかもしれ
 
ないが、イエスが磔にされたときとはえらい違いだ。イエスは
 
自分の考え・感覚を心底納得していたはずだ。だから自分を磔
 
にする者たちへの慈悲を神に求める余裕さえあった。なぜヒト
 
ラーは納得できなかったのか?言うまでもなく、間違えていた
 
からだろう。
 
 
 自分が納得できればそれでいいのである。そして、わたした
 
ちの意識というものはなかなか良くできているもので、その納
 
得が本当のものかまがいものかを峻別する。本当に納得できれ
 
ばさだめを恐れないもののようだ。微塵でもさだめに恐れを持
 
つようであれば、それは本当の納得ではないだろう。麻原彰晃
 
が拘置所で狂ってしまったのは、彼の納得がまがいものだった
 
証拠だろう。
 
 
 ・・・少し話がずれかけた。
 
 自分が納得できればそれでいいのである。
 
 表面上のあたふたはあるとしても、心の底でどのようなさだ
 
めも気安く受け止められる自分であるのなら、その自分はこの
 
世界の期待に叶った自分だろう。

 
 わたしたちは「自分を生きること」を世界から(社会からで
 
はない!)期待されている。そして、自分自身に対しても「自
 
分を生きること」を期待している。その為には社会の価値観や
 
それに伴う期待に惑わされずにいなければならない。
 
 心の底の底から働きかけてくる、自分のやり方へのいざない
 
に注意を向けて生きる。自分のやり方に導かれて生きる。
 
 それは誰の承認も必要としない。自己完結でいいのである。
 
 どのような境遇に置かれても、心の底に遊び心が感じられる
 
なら、その生き方は間違ってはいないだろう。それを「自分を
 
成功する」と言ったりもする。





 

2024年11月22日金曜日

「取るに足りない」という安らぎ

 

 

 このブログを書き始めた頃、スピリチュアル系の本を集中的

に読んでいた。いろいろ読んだけど、その中で人にお勧めした

いと思ったのは、リック・リンチツという人の『あなたも私も

いない』(ナチュラルスピリット社)という本。インタビュー

形式で平易に語られたノンデュアリティーの話。リンチツ氏の

大仰にならず肩の力の抜けたユーモラスな語りが良い。要する

に「気楽」。

 

 「悟り」だとか「気づき」だとかもったいぶって語られるこ

とが多いけど、結局のところ「大袈裟にするな」「ムキになる

な」「深刻に考えるな」と心得て、自分が生きていることを面

白がってしまえばそれでいい。面白がってしまえるのなら大成

功だろうと思う。

 
 わたしたちは「もったいぶる」ことを刷り込まれているの
 
で、どうしても「人生」だとか「生きていること」だとかを軽
 
く考えることに罪悪感のようなものを持ってしまいがち。けれ
 
どそれが大間違い。「人生なんて取るに足りないものだ」ぐら
 
いに思っておく方が、良い人生になることだろう。だって取る
 
に足りないでしょ?人生なんて。
 
 
 人生に何がある? あるのは世の中や自分がでっち上げたお話
 
しだけでしょ。何十年生きたところで、振り返ってみればある
 
のは記憶だけ。実体なんか無い。無いものは手に取ることもで
 
きない。取るに足りないんですよ。取るに足りないことを分
 
かっているから、もったいぶって価値があるように振舞いたく
 
なる。そして誰もが自己暗示にかかる。
 
 「価値ある人生を生きるんだ!」
 
 でもそれが自己暗示や世の中の約束事でしかないことを心の
 
底で誰もが気付いている。言ってはならないことになっている
 
ので、気付かないふりをしているけれど。
 
 
 認めてしまえばいいのにね。認めても壊れるのは幻想なんだ
 
から、生きていることに実害は無い。それどころか、自己暗示
 
が解かれると生きていることが生(なま)で感じられる。
 
 
 人生は取るに足りない。
 
 社会も取るに足りない。 
 
 その事実に向き合えば、生きてることはとってもとっても軽
 
くなる。
 
 肩の荷を下して、ごろんと横にでもなって、安らいでいる自
 
分を感じる・・・。 きっと、「ニヤリ」と笑ってしまうことだ
 
ろう😁
 
 ああ、生きてることはこんなに軽いんだって・・・。
 
 
 

2024年11月20日水曜日

いまが生きてる・・?

 
 
 
 「いまを生きる」とか、“Here - Now” とか、スピリチュア
 
ル系のお話しではよくそういう表現が使われる。このブログで
 
もそんな感じのことはよく書いてきた。ところが、今日ふとこ
 
う思った。「わたしが “いま” を生きてるんじゃなくて、“い
 
ま” がわたしを生きているのかな?」。
 
 
 よくわからない話ですよね。ただの言葉遊びのようにも思い
 
ますが、なにやらとても大切な思い付きのような気がするので
 
す。
 
 
 ずいぶん前に《 永遠とは、この “瞬間” が全宇宙に拡がって
 
いること 》と書きましたけど(『〈永遠の生命〉をさしあげま
 
す』2017/9)、いまこの瞬間、全宇宙が “いま” です。それは
 
間違いありません。そして次の瞬間もやはり “いま” です。い
 
まは永遠に “いま” で、宇宙は永遠に “いま” です。宇宙には 
 
“いま” しか存在しません。
 
 
 そんな話をして、それが何なんだということですけど、べつ
 
になんでもありません。「ちょっとこのフィーリングを伝えら
 
れないかなぁ」という気分なんです。いまどきの言い方なら
 
「共有」ですけど、自分を “いま” に溶かし込んでしまうよう
 
な感覚を味わってもらえないだろうかと・・・。
 
 
 この命の活動・存在の主体は “いま” である。ただ “いま” が
 
命としてここに現れている・・・。そういうフィーリングを持
 
つことはとてつもなく豊かな在り方です。ほとんど完璧に無敵
 
です。

 
 “いま” が生きている。

 
 一種の呪文だと思ってもらっていいでしょう。
 
 自分の手のひらでも、部屋の壁でも、なんでもいいから見つ
 
めながらつぶやいてみて下さい。
 
 
 “いま” が生きている 🌷





 
 
 
 
 

2024年11月16日土曜日

お次は何だ?

 
 
 『ザ・グリード』という B級モンスターパニック映画があり
 
ます。B級なので有名な俳優は出ていませんが、なかなか良く
 
できた面白い映画で、テレビで何度かみました。
 
 次々と危機が襲い、その都度主人公が「お次は何だ?」とつ
 
ぶやき、ラストもそのセリフで終わるのですが、私はこのセリ
 
フが気に入ってます。 
 
 
 「お次は何だ?😅」 
 
 
 これから面倒なことが起こりそうなときに「どうなるんだろ
 
う・・・」などとつぶやくと、気持ちが重くなるだけのように
 
思うけれど、「お次は何だ?😅」とつぶやけば、そこには気楽
 
さと遊びの要素が入って来て、気持ちに余裕が出てくる。 
 
 
 生きていれば、深刻なことから日常のちょっとした面倒ま
 
で、日々さまざまな事が起こる。面倒を避けたくても避けられ
 
はしない。起こることは起こる。それなら「お次は何だ?😅」
 
と遊び心で迎えてしまうのは賢いやり方だと思う。そしてそれ
 
は悪い事だけには限らない。普通「良い」と思われるような事
 
でも「お次は何だ?🤪」と受け止め、受け流したい。すべては
 
過ぎ去って行くのだから。 
 
 
 もっとも、こういう考えは自分を取り巻く状況や自分の人生
 
を自分から変えて行こうという人には気に入られない。そうい
 
う人は受け身の生き方が嫌いだからね(まぁ「自分で変えられ
 
る」と思っているだけなんだけどね)。
 
 
 私は自分の人生を自分で変えられるとは思っていない人間
 
で、自分の人生というストーリーは、文字通り「ストーリー」
 
であって実体は無いと認識しているので、出来事は受け流すだ
 
けにしていたい。そういう私には「お次は何だ?🤪」あるいは
 
「お次は何だ?😂」とうそぶいてみるのは楽しいことです。
 
 
 このブログにしても、次に自分が何を書くのか分からない。
 
書き始めてもどう転ぶか分からない。次には何を書くのだろ
 
う?お次は何だ?🙄
 
 
 
 
 

2024年11月4日月曜日

人生を変えたい人へ

 
 
 「もう長いこと辛いことばかり・・・。この人生を変えられ
 
ないだろうか・・・」

 
 そういうことを考えている人は多いでしょうし、人がそう思
 
うのも理解できる。けれど、人生というものを変えることなど
 
できないでしょう。そもそも人生というものは固定したもので
 
はなくて、日々刻々と変わり続けているものです。そんな変わ
 
り続けているものを「変えたい」と考えるのはへんな話です。

 
 「いや、そういうことではなくて、辛いことが続く傾向を変
 
えたいんだ」
 
 人生を変えたい人からは、そういう返答がありそうですね。
 
では、なにゆえに「辛いことが続く傾向」があるのでしょう
 
か?
 
 
 自分が置かれてきた状況が、自分にとって辛いことが起きや
 
すいのでしょうか?
 
 自分のパーソナリティが、辛いことを引き起こしやすいので
 
しょうか?
 
 本当は辛いことではないことを、自分が「辛い」と感じてし
 
まいがちなのでしょうか? 
 
 
 状況が原因なら、その状況を変えなければなりませんが、大
 
変難しいことですね。あまり望みはなさそうです。
 
 自分のパーソナリティが原因なら、自分のパーソナリティを
 
変えねばなりませんが、どう変えたらよいのかはなかなか分か
 
りませんし、変えるのもこれまた難しい。
 
 自分が辛くないことを「辛い」と感じてしまっているのな
 
ら、受け止め方を変えなければなりませんが、これは先の二つ
 
よりも出来そうに思います(「辛い」と感じやすいのもパーソ
 
ナリティのひとつですが・・)。
 
 難易度から言って、三番目の “受け止め方を変える” という
 
のは、まだどうにかできる見込みがありそうですね。

 
 以前に、問題への対処法は三つしかない〈 逃げるか・許す
 
か・戦うか 〉だ。と書いたことがありますが、自分の身に起き
 
た出来事が辛いのは、許さないからですね。
 
 
 頭を柱にぶつけた・・・。とても痛いですね。
 
 いじめで頭を殴られた・・・。痛いですね。
 
 両方とも痛いです。けれど、辛さはどうでしょう?自分でぶ
 
つけたのなら、辛さは後を引きませんね。 同じ痛さでもね。
 
 これは一つの例ですけど、心に滲みるような「辛さ」という
 
ものは、突き詰めて考えれば人間関係の中に生まれて来るもの
 
です。他者との関りの中で、自分の望みが叶わない時や自分の
 
安定が崩された時に「辛い」と感じるのです。「辛さ」のうし
 
ろには人間がいます。見方を変えれば、その人との関係の中
 
で、自分は価値の無い人間だと感じる時、辛いのだとも言えま
 
す。
  
 
 例えば、
 
 〈妻から離婚を言い渡された…〉
 
  自分の価値が否定されたのです。
 
   例えば、
 
 〈妻を亡くした・・・〉
 
  妻を守ることができなかった自分を価値の低い人間だと感
 
じてしまう。
 
 ブラック企業で長時間労働させられてボロボロ・・。からだ
 
も辛いけど、そこから抜け出す勇気や能力が無いことが情けな
 
くて辛い・・・。
 
 何にせよ、人は自分や自分のしていることの価値を信じられ
 
ないことで辛くなる。価値を信じられれば、肉体を限界まで酷
 
使して、命がけでチョモランマに登っても心は辛くない。むし
 
ろ喜びを感じるぐらい。

 
 そういうことを考えると、「人生を変えたい」と思う人は何
 
か自分の生き方・状況にそぐわない価値観を持っているので
 
しょう。そぐわないので、すぐに自分の価値が揺さぶられてし
 
まう。で「辛いことばかり・・・」ということになってしま
 
う。

 
 自分の性分や体質・置かれている状況に見合った価値観を持
 
つか、価値などというものにリアリティを持たせないことで、
 
辛いことは消えてゆく。
 
 
 価値の低い自分を許す。
 
 無価値の自分を許す。
 
 等身大の自分に甘んじる。

 
 自分が無価値(ゼロ)になれば、まわりがプラスだろうとマ
 
イナスだろうと、すべては自分に付加されていることになる。
 
道元が言った「放てば手に満てり」とはそういうことでしょ
 
う。
 
 
 実のところ、「人生を変えたい」と思っている人は自分を変
 
えたくはない人で、だからこそ人生の方を変えたいわけです。
 
 
 人生を変えたいのなら、人生を変えようとすることをやめ
 
る。人生が変わってゆくことを止めようとすることもやめる。
 
それが逆説的に人生を変えてしまう。なぜならそれは自分が変
 
わることだから。そして、状況の持つ毒や自身のパーソナリ
 
ティの引っ掛かりも消して行く。
 
 
 《あなた自身をどうしたら良いかなど知らなくていいとした
 
ら、なんと幸福な人生だろうか》 バーノン・ハワード  

 
 「いま、この辛い状況から手を引けというのか?そんなこと
 
したらめちゃくちゃになってしまう・・・」
 
 アタマはそう言うでしょう。けれど、そう思う人はいままで
 
人生から手を引いたことなど無いことでしょう。
 
 「人生はコントロールできる」
 
 「人生をコントロールしなければ・・」
 
 そういう思いに囚われている人は、人生から手を引くという
 
体験が自分に何をもたらすかを知らない。
 
 
 自分の心臓や肺や胃袋が、コントロールしていなくても自分
 
を生かそうとしているというのに・・・。





2024年11月2日土曜日

ずっと待ってる

 
 
 昨日、ユーミンの『経る時(ふるとき)』を聴いていて、
 
 
  二度と来ない人のことを
 
  ずっと待ってる気がするティールーム
 
 
 という歌詞に「う~む・・・」と唸ってしまった。私もずっ
 
と待っているように思うのです。「人を・・」ではないけれ
 
ど。何かを待っている。来ないかもしれないものを待ってい
 
る。
 
 
 そんなことを思っていたら、今度は『となりのトトロ』の
 
キャッチコピーがあたまに浮かんだ。
 
 
  忘れものを届けに来ました
 
 
 忘れたものが届けられるのを、ずっと待ち続けているように
 
感じる。心のどこかにそんな感覚はありませんか?        
 
 
 何を忘れたのか? 
 
 たぶん、生まれる前に感じていた全能感だと思う。それがい
 
つかまた戻って来るように思っているのだろう。いや、望んで
 
いるのだろう。
 
 
 忘れてしまった。
 
 見失ってしまった。
 
 けれど記憶の奥に消すことのできない感覚が残っている。
 
 「何かが違うんだ。何かが・・・」
 
 
 その違和感なり喪失感なりはきっと間違いじゃない。それを
 
無いことにできない人たちが、 “何か” を求めて外を見る、自
 
分の内を見る。けれど、それを求めているうちは、それは見つ
 
からないだろう。戻って来ないだろう。(と、自分に言いきか
 
せてみる)
 
 
 探すのをやめたとき 見つかることもよくある話で・・・ 
 
                  『夢の中へ』井上陽水
 
 
 探すのを完全にやめることができたとき。その “何か” は忽
 
然としてここにあるだろう。そして、ずっとここにあったのだ
 
と気付くだろう。無響室の中で自分の心臓の音が聞こえるよう
 
に。
 
 
 「なんだ、生きてるじゃないか😙」 
 
 
 ただそれだけのことに、心の底から納得したい。
 
 心の底から・・・。