前々回、梅田から逃げ帰った話を書いたけれど、あの日ビル
の谷間の底で、私は脳みその溝の中に居るようなイメージを
持った。
立ち並ぶ高層ビルのそれぞれの部屋は脳細胞のようなもの
で、そのすべてに人が居て、そこで物やら情報やらをあっちへ
やったりこっちへやったりしているだろう。部屋の中で、部屋
から部屋へ、ビルからビルへ、街から街へ・・・、仕事であれ
遊びであれ、人が情報を運ぶために蠢いている。(物も情報の
一種と捉えておいて下さいね)
都市という脳みその中で、人が情報をやり取りしているよう
に思っているけれど、実は人が情報に使われているのではない
のか?都市の中で、人は情報を背負わされ、情報を運ばされて
いるのでは?人はもはや情報伝達物質に成り下がっているのか
もしれない・・・。ビルの谷間を行き交う人々を見て、そんな
イメージが湧いた。
人は手段と目的を取り違えることを得意としているけれど、
人が生きる「手段」であるはずの “都市” と “社会” の中で、い
つの間にやら、人が “都市”と “社会” の「手段」になってしま
っているらしい。
そうそう、西岡たかしの『じゃんじゃん町ぶるうす』の中に
こんな歌詞があった。
ちょいと歩いてごらん梅田のあたり
地下街入れば地獄がみえるよ
お天道様も質屋に放り込んでよ
悪魔の光の下で みんなうろうろ うろうろ
ちょいと歩いてごらん梅田のあたり
これはもう50年前の曲だけど、今の梅田は地上でさえ地下
(谷底)になった。そしてうろうろ うろうろ・・・。
これまでにも書いたけれど、 地獄というものはわたしたちの
アタマが作る。わたしたちのアタマの中に地獄はある。わたし
たちのアタマの中に本当のしあわせは無い。
アタマの中身を外に出したものである都市にしあわせは有る
か?そこは飾られ、偽装された地獄かもしれないね。
そんな目線で都市を見てみるのも面白いかもしれない。
ちょいと歩いてごらん梅田のあたり・・・・
0 件のコメント:
コメントを投稿