2024年11月23日土曜日

自分のやり方で

 
 
 私がこんなブログを書いているのはなりゆきで、確固とした
 
理由が有るわけではないけれど、ひとつ理由を挙げるとした
 
ら、私が世の中で上手くやっていけないからということだろ
 
う。引きこもりになったりするほどではなく、一応世の中で生
 
きてはゆけるけれど、上手に立ち回っていわゆる「良い思い」
 
ができるような人間ではない。出来が悪いのである。
 
 そういう人間なので、私のアタマはなんとか自己肯定しよう
 
として、世の中の価値観を否定するという方針を採った。世の
 
中が採用している価値が無価値であれば、それを得られなくて
 
も自己肯定感を損なわれずに済むからである。というわけで、
 
私がこのブログで書くようなことを考えているのは、私のアタ
 
マがご都合主義の悪あがきをしているだけだとも言える。もし
 
本当にそれだけのことならばなんとも情けない話だけれど、幸
 
いなことに自分の考えを正当化できる素晴らしい味方がいる。
 
お釈迦様である。
 
 
 釈迦は釈迦国の王子として生まれた。小国とはいえ王子であ
 
るので、なに不自由ない贅沢な暮らしをしていた。にもかかわ
 
らず、世の中と生きることの無常(無情)を感じて、国と家族
 
を捨てて出家してしまい、苦行に身を投じ、苦行の無意味さを
 
知り、瞑想の後に悟りを啓いて、生きることの真実と安らぎを
 
得た。世の中の成功・安楽はまやかしだと、王子としての実体
 
験を踏まえたうえで確信したのだ。

 
 貧乏人の私が世の中の価値を否定しても負け惜しみに過ぎな
 
いかもしれないが、2500年前とはいえ一国の王子が世の中
 
の価値を否定したのだから、なかなか反論はしづらいだろう。
 
なので私も安心して世の中の価値を否定できる。それが私流
 
で、自分に合っているからそれでいいのである。
 
 
 価値観、あるいはものの見方というものは、自分が心底納得
 
できるのならそれでいいのだ。
 
 たとえばヒトラーはあのような思想を展開したけれど、最後
 
には追い詰められて自ら命を絶った。心底納得していなかった
 
が故に、絶望したのだと思われる。比べると怒られるかもしれ
 
ないが、イエスが磔にされたときとはえらい違いだ。イエスは
 
自分の考え・感覚を心底納得していたはずだ。だから自分を磔
 
にする者たちへの慈悲を神に求める余裕さえあった。なぜヒト
 
ラーは納得できなかったのか?言うまでもなく、間違えていた
 
からだろう。
 
 
 自分が納得できればそれでいいのである。そして、わたした
 
ちの意識というものはなかなか良くできているもので、その納
 
得が本当のものかまがいものかを峻別する。本当に納得できれ
 
ばさだめを恐れないもののようだ。微塵でもさだめに恐れを持
 
つようであれば、それは本当の納得ではないだろう。麻原彰晃
 
が拘置所で狂ってしまったのは、彼の納得がまがいものだった
 
証拠だろう。
 
 
 ・・・少し話がずれかけた。
 
 自分が納得できればそれでいいのである。
 
 表面上のあたふたはあるとしても、心の底でどのようなさだ
 
めも気安く受け止められる自分であるのなら、その自分はこの
 
世界の期待に叶った自分だろう。

 
 わたしたちは「自分を生きること」を世界から(社会からで
 
はない!)期待されている。そして、自分自身に対しても「自
 
分を生きること」を期待している。その為には社会の価値観や
 
それに伴う期待に惑わされずにいなければならない。
 
 心の底の底から働きかけてくる、自分のやり方へのいざない
 
に注意を向けて生きる。自分のやり方に導かれて生きる。
 
 それは誰の承認も必要としない。自己完結でいいのである。
 
 どのような境遇に置かれても、心の底に遊び心が感じられる
 
なら、その生き方は間違ってはいないだろう。それを「自分を
 
成功する」と言ったりもする。





 

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