井上陽水のいかにも陽水らしい曲のひとつに『ミス・キャス
ト』というのがあります。打算的で妄想的で凡庸な主人公を描
くことで、人間一般のいやらしさ・怪しさ・いかがわしさを比
喩的に歌っている曲ですが、その詞の中に「友達を暗闇で値踏
みして 自分だけのしあわせに女を使う」という一節がありま
す。
自分の為になるかどうか人を値踏みする・・・。そういう話
はそこらじゅうに転がっていますよね?
婚活だとかあからさまですけど、「自分を高めてくれる人」
だったり「付き合うと得になる人」だったり、「どこかに自分
の為になる人はいないか?」 と人を値踏みする人間がとても多
いように感じるんですけどね。昔より多いかどうか知りません
が。
人を値踏みする・・って、いやらしくないですか?ケチ臭い
話じゃないですか?そういう人間とは関わりたくないと思いま
せんか?
けれど、そういう人間が普通にどこにでもいて、当人たちは
人を値踏みすることが自分のしあわせに繋がると本気で考えて
いる。得になる人間関係を持ちたいと・・・。いかがわしい世
の中だと思いませんか?
本当に得になるのならそれも良いのでしょうが、人を値踏み
して、自分の役に立つと思える人と関係を持っことで得られる
ものとはなんでしょうか?
値踏みして自分の計算通りに事が運んだとして、その結果は
自分の計算の範囲内。それを繰り返してどんどん自分の望みを
叶えて行けたとして、たどり着くのは今までの自分の延長線上
です。それはこれまで通りの自分を生きながらえさせる作業で
す。自分の社会的立場や、自分の暮らす環境は(当人にとって
は)良くなるのでしょうけど、自分自身はいままでのまま。自
分自身には何も得られてはいない。だって、サイボーグ化しな
ければ自分のからだに何も付け加えられないし、考えかたがい
ままでの延長ならば、精神的にも何も付け加わっていないわけ
ですからね。
人を値踏みする人が考える「得」って、社会のストーリーの
中での評価です。自分自身には関係ない。
「得しよう」とあれこれ計算して、ネズミが鼻をヒクヒクさ
せて食べ物を探すようにして生きる・・・。そういうの、私は
みっともないと思うんですがね。
アタマはいろいろと「得した」と思ったりしますけど、“世
の中の自分” にとっては得することは有っても、本質的な自分
にとって得することなんて世の中にはありませんよ。
しあわせは得るものではなくて、得られているものを味わう
ことにある。
得るどころか逆に失い続けても、 得られているものが底を突
くことはない。むしろ、その底を突くことが無いものを味わう
ことで、わたしたちは心の余裕を持つことができる。
その自分の心の変化は、自分の周りに影響して状況を変えて
行く。そして思いがけない喜び楽しみを生んだりもすることで
しょう。
その計算外の思いがけないものに出会うときこそ、「得し
た」と言えるでしょうね。
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