“卑下慢(ひげまん)” なんて言葉は聞いたことがないですよ
ね?
これは浄土真宗の僧侶の藤原正遠(しょうおん)さんが使っ
てらした言葉で、私も他の人が使っているのを見聞きしたこと
はないですが、自分を卑下することも自慢の一種だということ
です。で、正遠さんはこんな歌を残しておられます。
煩悩をわがものとする卑下慢に
ながくとどまり御仏(みほとけ)を見ず
慢心するということは、エゴが意識を支配して自分の都合だ
けでしか世界を見れないような状況ですが、単に「自分は優れ
てる」といったような考えだけではなく、「自分は劣った人間
だ」という卑下も、自慢の一つだと正遠さんは伝えています。
でも、なぜ卑下が自慢なのでしょう?
自分を卑下するということの裏には、「わたしは自分が劣っ
ていることを知っている」という自己認識が有るわけで、それ
は「わたしは自分をちゃんと評価できる能力を持っている」と
いう自慢だというわけです。
なんだかうがった見方のようですが、そこまで徹底して自分
の慢心・欲深さ、そしていたらなさを明確にして、初めて御仏
に出会えるということです。
わたしたちは、ひとかけらの良いことも持っていない。
自力で良いことをすることも、しあわせになることもできな
い。それを完全に心の底から認めて、すべてを仏に任せて投げ
出してしまうことで、初めてしあわせになれる。それが浄土真
宗でいう「他力本願」。
でもわたしたちのエゴは、エゴの望む形での満足がしあわせ
だと思っているので、自力でしあわせになろうと必死です。そ
の為、エゴにとって不都合な状況になると、「自分を卑下でき
る程の賢さを自分は持っている」という巧妙なテクニックを弄
してまで、自分で自分を満足させようとするのです。けれど、
どのように自慢しようが卑下慢しようがそれは煩悩です。アタ
マの右往左往です。そこから離れない限りは落ち着くことはな
い。
「煩悩をわがものとする」
わたしたちは自分が煩悩を生み出している、自分が煩悩を
持っていると考えるけれど、正遠さんは「そうではない」と言
う。
自分からそういうものがただ出て来ているだけで、煩悩は自
分のものではない。良く思えようが悪く感じようが、自分の考
えることすることすべては仏の働きであって、自分のものは何
もない、自分には何をする力もないと気付くとき、自分のこだ
わりがほどけて安らぎ、仏の働きが滞りなく自分から出てくる
ようになって、人間の評価の「良い悪い」ではない行いが現れ
るようになる。
こう言うと「出て来るに任せて、とんでもない悪事をやり始
めたらどうするんだ」という風に思うところですが、人が悪事
をするのは、基本的に不安からです。「生きなければならな
い。その為には他人を利用し、他人の領分を犯してでも自分の
安定を確保しなければならない」という欲は、生存の不安から
生まれます。けれど、「自分は無力で、自分には自分を良く生
かす能力は無い」とあきらめて、仏にすべて任せてしまう境涯
になると、不安からの欲がなくなり、悪事もしなくなってしま
います。非常識なことをして、世間から嫌な顔をされることは
あるかもしれませんがね😜
人は、一見謙虚なようにみえて、その実傲慢であったりする
ことは多いものです。「俺は謙虚だぞ!」なんて思ってたりす
るわけです。わたしたちは、そういう品の無いことは無しにし
て生きたい。
自分に「良い」とか「悪い」とかラベルを貼ったりせず、こ
れまで自分がどのようであったろうと、いまの自分がどのよう
であろうと、とにかく落ち着いて、機嫌良く生きることを心掛
ける。世間やアタマの評価は「それはそれ」として、自分の心
の落ち着きを第一義とする。その姿勢が、本当に良い自分が現
れること可能にする。
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