2024年12月18日水曜日

器の大きな人

 
 
 今回は「大器晩成」ということについて。
 
 
 《 エゴという用土がなければ、
 
          不安は育たずに枯れてしまう 》
 
 
 『種は蒔かれる』(2024/8)という話の最後に書いた言葉
 
ですが、 空っぽの鉢の中にどんな種を入れようと、それが育つ
 
ことはありません。
 
 不安・悲しみ・怒り・驕り・妬み・憎しみなどを生むような
 
どんな出来事であれ、わたしたちの意識の中が空っぽであれ
 
ば、それはその出来事のままでしかありません。何にも変容し
 
ないし、何も喚起しない。ありとあらゆる苦悩が育つのは、わ
 
たしたちが苦悩が育つ場所と養分を与えるからです。しかし、
 
わたしたちはそんな場所と養分をなぜわざわざ用意するので
 
しょうか? それは、喜びや楽しみも同じ場所と養分で育つから
 
です。
 
  喜び・楽しみを欲してそのために準備するのですが、それが
 
アダとなってしまう。わたしたちは起きてくる事を選べないで
 
すからね。
 
 「こんなはずじゃない!」
 
 「そうじゃない!」
 
  そんなこと言ったってねぇ。 
 
 
 〈 花は愛惜に散り、草は棄嫌に生うるのみ 〉
 
   愛惜=あいじゃく 棄嫌=きげん 生うる=おうる
 
  そんな言葉があります。 「花は惜しまれながら散る、草は
 
嫌がられても生えてくる」ということですが、〈花も草もそれ
 
ぞれの事情と自然の摂理で生えてくるだけで、それを人間が勝
 
手に惜しんだり嫌ったりするだけなんだから、ちょっと考えな
 
さいよ〉という話です。
 
 で、〈自分の都合で好き嫌いを言わないで、受け入れなさい
 
よ〉という感じになるのですが、花の為に準備していて草が生
 
えてきたら、受け入れなさいと言われても無理ですよね。だっ
 
たら、はなから準備しなけりゃいいのでは? という方針もある
 
わけです。鉢が空っぽなら草の生えようがないですからね。
 
 けれども花も咲かない・・・。それじゃぁ淋しい。つまら
 
ん・・・。確かにそうでしょう。けれどもそこには空がある。
 
 
 『信心銘』の中の言葉に「円同太虚(まどかなることたい
 
きょにおなじ)」というのがあって、「太虚はまどかだ」と言
 
う。空は円満だと。 
 
 空っぽだと円満です。揺さぶられるものがない。そういう
 
「まどかさ」を味わう生き方というものがあって、仏教やタオ
 
ではそういう生き方を勧める。
 
 
 空っぽの鉢と言うと、小さな鉢が目に浮かびますけど、喜び
 
や苦しみが育つ場所であるわたしたちの意識というものには、
 
鉢のように区切りがあるわけではありません。アタマが求める
 
喜び・楽しみの為の養分を片付けてしまえば、そこには「太
 
虚」があるわけです。 わたしたちの意識の本質は、常にまどか
 
なわけです。
 
 
 「大器晩成」というのは『老子』の中の有名な言葉ですけ
 
ど、「大人物は遅くに完成する」という意味とされています
 
ね。けれど老子の語ることから思えば、そうじゃないんじゃな
 
いかと思います。「晩成」というのは「すでに成っている」と
 
いう意味じゃないだろうか? つまりわたしたちも世界も「元か
 
ら無限の器(大器)である」ということではと・・・。
 
 
 「器の大きな人」というのは、「自分の望みを脇にどけるこ
 
とで、まどかでいられる人 」なんでしょう。
 
 しかし、残念ながらほとんどの人はアタマの働きに邪魔され
 
て、自分が大器であることに気付けない。自分の心は本来まど
 
かであることを意識できない。
 
 もったいない話です。 
 
 
 
 
 

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