このブログは、社会で上手くやってゆけない人、つまり社会
的能力の低い人が自己肯定して、少し気安く生きられるヒント
になるようなことを書いています(そのつもりです)。決して
「社会的能力を高めて生き易く・・・」という方向性は無く、
あくまで「社会的能力が低いままでも生き易く・・・」という
立場です。
なぜ「社会的能力を高めて・・・」という方向を探らないの
か?
それは人の普遍性が持っている力・豊かさにこそ、人として
のしあわせがあると私が思っているからです。
社会的能力と言っても、身体的なもの、知的なもの、情緒的
なものがありますね。健康・体力・計算力・理解力・観察力・
共感力・語彙力・話力・・・などなど。
それらの能力のどれらが、またどの程度が求められるかは、
その社会、時代によって変わりますから、ある能力が高くても
それが求められていない社会・時代では役に立ちません。そこ
のところは運になってくるわけです。
それから重要なことに、どの社会にも出来る人と出来ない人
が必ず一定の割合で生まれてしまうので、出来ない人のための
“在り方” が必要になって来るのです。
どのような能力であれ、人の集まりである社会の中ではすべ
ては比較によって優劣が付けられます。
ラフですが、人の集ま
りでそれぞれの能力の
違いを調べると必ず正
規分布します。
高さが人数で、横が
能力値。左が能力が低
くて右が高いとしますが、社会は人の集まりで維持されるので
すから、どうしても中央値付近の人数の多い能力レベルが標準
として形作られます。その結果、どうしても左側の人たちは
「出来ない人」になってしまいます。
総合的に「出来ない」人もいれば、ある能力が著しく低い為
に、そのボトルネック効果のせいで酷い社会不適応を起こすこ
ともあります。どのような社会であれ、人を比較し、それを元
に機能させる社会である限り、「出来ない人」を生み出さざる
を得ません。結果的にどの社会でも、社会で上手くやれなくて
苦しむ人が必ずいます(上手くやれる人が苦しんでいない保証
もないのですが、そちらの人のことは後で触れます)。そうい
う人たちに社会で上手くやれと言っても、無理なことは無理で
す。なので、社会的能力とは関係のない、人として普遍的な部
分に目を向けなくては救いがありません。
というわけで私はいつも社会を批判し、「負け組」と言われ
てしまうような人に向けて思いを綴るわけです。社会で上手く
やれない人は社会から外れかけているか、すでに外れてしまっ
ているわけで、だからこそ社会の外に目を向けやすい。言いか
えれば、良いポジションに居るのです。
人の、そして世界の持つ普遍性あるいは不変性に目を向ける
ことで、自身の絶対性や全能性を理解できたら、社会で上手く
やれないことが、「それはそれ」と思えるようになり、気安さ
が生まれて来る・・・。
人は比較する世界にいる限り、何らかの部分で自己否定感を
持たざるを得ません。社会的能力が高くてとても上手く生きて
いる人でも、比較することをやめられなければ必ず苦しみま
す。そのような人も、人の普遍性、人の本質に意識の中心を据
えなければ救いはない。そして、その救いは上手くやれる人で
も上手くやれない人でも等価です。比較の外にあるのですから
ね。
社会で生きて行かざるを得ないわたしたちですから、社会で
上手くやれないのは辛い。けれど「それはそれ」として生きら
れる境涯が在るのです。
以前も書いたように思いますが、人の本当のしあわせ(安ら
ぎ)は社会の外に在るのですから。
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