前の話を書いた後、“読んだ人が「出来る人がさらに救われ
るなんて不公平だなぁ」と思うかもしれないなぁ。少し言葉足
らずかもなぁ” と思ったのと、「この話を理解できるだけの理
解力を持ち合わせない人のことはどうなのか?」というツッコ
ミもあると思うので、ちょっと続きを書きます。
“社会で出来る人であっても、人として本質的なしあわせを
得るためには、比較の世界から外へ出なければならない” とい
うことを書いたんですけど、比較の世界から出るということ
は、これまで自分が居た世界の価値に意味が無くなるというこ
とです。両方を得ることはできません。
真のしあわせは、誰にとっても公平ですし、真のしあわせの
前では他のどのような価値もしあわせとは感じられません。次
元が違うからです。なので出来る人がさらに得をするというこ
とは無い。そもそも「損得」という発想が比較することで出て
くるもので、真のしあわせはその外にあるものですからね。
その点では公平なんですが、こういった話を理解する力が欠
けている人はどうなるのか?
残念ながら、どうにもなりません。私の書いているようなこ
となど何の足しにもなりません。私がこんなブログを書いたと
ころで落書きのようなものです。
別にそういう人をバカにしているのではありませんよ。
人が救われるか救われないかは、結局のところ「縁」であっ
て人それぞれのさだめですし、救われたとしたところで、それ
は 「救われていること」を意識できるかどうかの話に過ぎませ
ん。
「じゃぁ、お前は何のためにこんなブログを書いているん
だ」と思われそうですが、 私は私なりのやり方で、私と縁のあ
る人に向けてこれを書いているようです。
私の書くことがどれほどの良縁に繋がるかは知りません。た
だ、こんなことをしているということは、「お前のやり方・表
現がすんなり来る人が必ずいるから、その分だけでいいから思
いを綴りなさい」というさだめなのでしょう。(ただの妄想か
もしれませんが)
このブログの守備範囲から外れている人たち。
さまざまな宗教や哲学やスピリチュアルなことと縁が無い人
たち。
生きているうちに「救い」などない人たち・・・。
でも「それはそれ」です。
いま生きている。
やがて死んでゆく。
そのすべて込みで、それぞれの自分というものが在る。
そのこと自体が「救い」なので、安心していればいいわけで
す。
そして、苛酷な目に遭っている人たちを、私は悲しみつつ、
かつ安心しながら見ています。自分自身もその内の一人になっ
たりしながら・・・。
救いは人生の外にある。
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