2024年12月8日日曜日

救われない人はどうするか

 
 
 前の話を書いた後、“読んだ人が「出来る人がさらに救われ
 
るなんて不公平だなぁ」と思うかもしれないなぁ。少し言葉足
 
らずかもなぁ” と思ったのと、「この話を理解できるだけの理
 
解力を持ち合わせない人のことはどうなのか?」というツッコ
 
ミもあると思うので、ちょっと続きを書きます。
 
 
 “社会で出来る人であっても、人として本質的なしあわせを
 
得るためには、比較の世界から外へ出なければならない” とい
 
うことを書いたんですけど、比較の世界から出るということ
 
は、これまで自分が居た世界の価値に意味が無くなるというこ
 
とです。両方を得ることはできません。
 
 真のしあわせは、誰にとっても公平ですし、真のしあわせの
 
前では他のどのような価値もしあわせとは感じられません。次
 
元が違うからです。なので出来る人がさらに得をするというこ
 
とは無い。そもそも「損得」という発想が比較することで出て
 
くるもので、真のしあわせはその外にあるものですからね。
 
 
 その点では公平なんですが、こういった話を理解する力が欠
 
けている人はどうなるのか?
 
 残念ながら、どうにもなりません。私の書いているようなこ
 
となど何の足しにもなりません。私がこんなブログを書いたと
 
ころで落書きのようなものです。
 
 別にそういう人をバカにしているのではありませんよ。
 
 人が救われるか救われないかは、結局のところ「縁」であっ
 
て人それぞれのさだめですし、救われたとしたところで、それ
 
は 「救われていること」を意識できるかどうかの話に過ぎませ
 
ん。
 
 
 「じゃぁ、お前は何のためにこんなブログを書いているん
 
だ」と思われそうですが、 私は私なりのやり方で、私と縁のあ
 
る人に向けてこれを書いているようです。
 
 私の書くことがどれほどの良縁に繋がるかは知りません。た
 
だ、こんなことをしているということは、「お前のやり方・表
 
現がすんなり来る人が必ずいるから、その分だけでいいから思
 
いを綴りなさい」というさだめなのでしょう。(ただの妄想か
 
もしれませんが)
 
 
 このブログの守備範囲から外れている人たち。
 
 さまざまな宗教や哲学やスピリチュアルなことと縁が無い人
 
たち。
 
 生きているうちに「救い」などない人たち・・・。
 
 でも「それはそれ」です。
 
 いま生きている。
 
 やがて死んでゆく。
 
 そのすべて込みで、それぞれの自分というものが在る。
 
 そのこと自体が「救い」なので、安心していればいいわけで
 
す。

 
 そして、苛酷な目に遭っている人たちを、私は悲しみつつ、
 
かつ安心しながら見ています。自分自身もその内の一人になっ
 
たりしながら・・・。

 
 救いは人生の外にある。

 
 
 
 
 

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