今日、羊文学の『光るとき』を聴いていて、歌詞の〈この最
悪な時代も・・・〉というところで「最悪の時代か・・・」と
つぶやいていた。
〈最悪な時代〉。日本でいうなら、それは今じゃなくて昭和
二十年前後だろう。それにくらべたら、悪いとしても他の時代
はまだマシだろうし、もっと昔なら天然痘やら飢饉やらで人が
大勢死んでゆく時代もあったわけで、さまざまに不愉快な事が
あるとはいえ、私の感覚からすれば今はとても恵まれた時代
だ・・・表面的にだけど。
〈最悪な時代〉とは、そもそもなんだろうか?そんなことを
考えてみる。時代はただ単に時代なんじゃないだろうかと思
う。
ある時代を最悪と感じたり、ある時代を良いと感じたりする
のはわたしたちの意識だけど、それは結局自分の都合です。
人はそれぞれの時代で展開する物語に自分流の注釈を付け
て、それぞれの「時代認識」を持つ。そして良いとか悪いとか
思う。
80億人のそれぞれの「時代認識」が時代を動かして行くん
だけど、時代はそれぞれの人の「時代認識」の外にある。時代
はただ時代として動いて行く・・・。(分かりにく表現でごめ
んなさい。そもそも分かりにくことを説明しようとしているの
で😂)
《 すべての存在は時代に殉じる 》
そう書いたのも随分前になったけど、わたしたちは時代に動
かされ、時代を動かすことに従事させられている・・・と同時
に、不思議なことに時代を眺めてもいる。外から眺めているか
らこそ「最悪だ」なんて思ったりできるのだから。それなら、
わたしたちは時代の外にもいるのだろう。わたしたちは時代の
中にも、外にもいるようだ。
人間にとっての時代はもちろん人間が作るけれど、実は「わ
たしたちには関係が無い」というのが本当のところではないだ
ろうか。
時代の中にいる自分は翻弄されて、翻弄されながら外から時
代を眺めて「最悪だ」と思ったり、「最高だ」と思ったりする
けれど、そんなふうに “時代の勝手” に付き合う必要もないの
だろう。わたしたちは時代に動かされるだけで、時代に手出し
できない。あらためて言うけれど、わたしたちは時代に動かさ
れ、時代を動かすことに従事させられている。時代の手駒なの
です。ただし、わたしたちは時代を眺めていることが出きる。
それはとても大きな特典なのではないのか?
時代に何かを求めたりせず、時代の見せるものをフラットな
意識で受け止めてゆくのなら、時代に動かされてしまうことは
なかなかに面白いのではないかと思う。
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