わたしたちの人生にハッピーエンドは有るか?
無いですね。ずっと続いているんだから。
終わるのは死ぬ時だから、ハッピーエンドを望むのなら死を
肯定し、それだけではなく死をハッピーなものと捉えなければ
ならないことになりますけど・・・。出来ますか?
わたしたちは人生をストーリーとして捉えるので、その一部
分を恣意的に区別してハッピーエンドのように受け取ったりす
ることもできなくはないけれど、それは次々に起こる出来事に
かき消されてしまうし、そもそも区別することは人生の全体性
や本質的な流れを見失うことになる。せいぜい「ひとまずはお
幸せに」ということでしかない。ハッピーエンドは映画やドラ
マの中だけで、実際の人生でハッピーエンドだなんて誰も思う
ことはないでしょうね。
ハッピーエンドのような小さな辻褄合わせではなくて、まる
ごとの人生に想いを致す。
これまでの人生が良いか悪いかということは二の次にして、
「とにかく生きて来てるよなぁ」という感慨は持てるはずで、
それは噛みしめる程に、只事ならざることとして感じられるは
ずです。そして、さしあたりは続く。もし、いま絶体絶命だと
しても次の瞬間までは続くし、そこで終わるのならば、只事な
らざる感慨の中で終わりを迎えるのですから、それこそハッ
ピーエンドでしょう。人生にハッピーエンドが有るとすれば、
そのような在り方しかない。
そして、そのように心得て生きるのなら、 常にしあわせを
ベースに生きていることになる。
これまでも人生は続いてきたし、この先も(さしあたり)人
生は続くでしょう。本当はストーリーよりも「いま続いてい
る」という事実の方に、えもいわれぬものが有る。
人生をどのように見るかはとても恣意的です。その時々の自
分次第で同じことが良くも悪くも見えてしまう。出来事が自分
を幸・不幸にするのではない。出来事を自分が幸・不幸と決め
ている。出来事は無声映画のようなもので、そこに自分がス
トーリーを付けているのに、あたかも出来事が自分にそう語っ
ているように錯覚する。自作自演で踏んだり蹴ったりして、
怒ったり泣いたり・・・。自作自演なら、せめて笑いたいもの
だ。
「そんなこと言ったって強盗にでも入られたら笑ってられな
い」という話にもなるけれど、良寛さんの逸話にこういうのが
あります。
ある夜、良寛さんが寝てると泥棒が入って来た。泥棒に入っ
たはいいが、あいにく良寛さんの庵だ。盗るものなんか何もな
い。目が覚めていた良寛さんはそのまま寝たふりをしていた
が、泥棒は良寛さんの着ている布団をはがすと出て行った。
その時のことを良寛さんは句にしている。
盗人に 取り残されし 窓の月
良寛さんは泥棒に入られたことでも風流にしてしまう。
良寛さんは粗末な身なりをしていたので、泥棒に間違われた
こともある。たまたま泥棒が入ったばかりの家のそばを通りか
かったところ、泥棒扱いされて殴られていた。そこに良寛さん
の知り合いが通りかかって「何をしてる!この方は良寛さまだ
ぞ!」と止めに入った。そして「なぜ、自分は良寛だと仰らな
かったのですか」と尋ねると、「なにごともご縁じゃからの」
と笑っていたという。
出来事にどういう意味を持たせるかは自分次第。できること
なら、良寛さんのように風流に、粋にやりたい。
もっとも、そうできるかどうかもご縁なのだけれど、そうで
きないのなら、“そうできない自分” を「風流だ😅」と笑うと
いう手が有る。
あの手この手で自分を笑わせるのが粋というものだ。
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