一昨日の朝、家の外に出るととても澄み切った青空が広
がっていた。前夜に雨が降ったことと、秋らしくなってきた
ことが合わさって、なかなか感じられないような清々しい空
だった。
しばらく空を見上げながら「気持ちがいいなぁ」と思いつ
つ、「人間はなぜ澄んだものが好きなんだろう」と考えた。
出雲に「日本最初の宮」とされる須賀神社があって、その
「須賀(すが)」という名前の由来が、須佐之男命がこの地
が清々しいからここに宮を作ったということなのだそうだ
が、そのような言い伝えが残るほど、清々しいこと、澄んで
いることは重要なことなのだろう。それが人すべてなのか、
特に日本人がそうなのかまでは知らないけれど。
<澄んでいる〉
わざわざ言ほどでもなく「余計なものがなく、ありのまま
が見通せる」ということだろうけど、人がそれを求め、それ
を嬉しく感じるということは、「余計なもののせいで、あり
のままが見通せない」というのが普通だとわたしたちが感じ
ているせいだろう。そして「これは本来の状態ではない」と
感じているからこそ、澄んだ青空や澄んだ川や海を見て気分
が良くなるのだろう。
その感覚は、わたしたちが普段濁ったものに囲まれて生き
ているということを象徴的に示している。意識は本来澄んで
いるものだからこそ、外の世界に見える「澄んだもの」と親
和するのではないのか。
一昨日、澄んだ空を見上げながら、私は意識が空に蒸散し
てしまうかの様な感じがしたけれど、そういう感覚を「清々
しい」と言うのではないのだろうか。
自分の外の澄明さと自分の中の澄明さの間で、意識の表面
にある思考や感情が解けてゆくことで、心の重さ・濁りが払
われる。
心の重荷・こだわりが解ける時、人は「清々した」と言う
けれど、それは本来の心の状態に戻れたということだろう。
わたしたちの心は、本来澄んでいるのだ。
余分なものを持ち込まなければ、わたしたちの心は、雨上
がりの秋空のようにどこまでも見通せる広々として何の負担
もないもの・・・。たとえ余分なものが視線の先に有って
も、それはひとかたまりの雲のようなもの。少し視線をずら
せば、そこに青空がある。
詩的に過ぎると思われるかもしれないけれど、澄んだ空を
見て「心の中に清々しさが広がる」などと表現するではない
か。やはり、心の中には澄んだ空があるのだ。それが本来の
心の在り方なのだ。