2025年9月7日日曜日

期待外れ

 
 
 何ヶ月か前のブログだったと思うけど、「真理は期待外
 
れ」と書いた。
 
 アタマの右往左往に終止符を打つべく真理を求めるのな
 
ら、真理は期待外れで当然だ。アタマの期待に答えるような
 
ものなら、それは右往左往の内にあるので、右往左往を止め
 
られない。だから真理は外にある。アタマの期待の外にあ
 
る。
 
 
 ならば、期待することを止めれば、そこには真理が現れる
 
だろう。
 
 期待することを止めれば、右往左往も止まるだろう。アタ
 
マが右往左往するのは、何かを期待するからこそだから。
 
 
 真理はいつでも在るのに、何かを期待して右往左往するか
 
ら見失う。人間は、なんとトンチンカンで骨折り損なことを
 
する存在だろう。
 
 
 「とにかく座れ」
 
 「追うな」
 
 「拒むな」
 
 「放っておけ」
 
 「得ようとするな」 
 
 
 禅ではそう教える。
 
 なんの期待も無いとき。そこには忽然と期待はずれの真実
 
がある。期待が無い、という平和が在る。
 
 
 アタマの失望の背後では、平和が笑っている。 
 
 
 
 

2025年9月6日土曜日

「誤解」についての理解

 
 
 
 「あの人はわたしを誤解している」
 
 「わたしはあの人を誤解していた」
 
 人はよくそんなことを言うが、人が誤解しているのは「誤
 
解」という言葉の方だ。「誤解」なんて存在しないのだか
 
ら。そもそも「理解」というものが存在しないのに「誤解」
 
などしようがない。
 
 
 私は人を誤解することがない。理解するなんて不可能だと
 
思っているので、人に対して便宜的にキャラクター付けする
 
ことしかしない。「この人はこういう人」といった決めつけ
 
をしないので、誤解にまで至らない。
 
 逆に私が人から誤解されることもない。たとえ相手が「あ
 
なたのことを誤解していた」と私に告げても、それは相手が
 
一人で勝手に「誤解した」と思うだけで私には関係のないこ
 
とだ。自分で自分のことも理解できないのに、他の人が私を
 
理解できるはずがないから、他の人の思惑なんてどうでもよ
 
いことだ。
 
 
 普通一般に使われる「誤解」という言葉の正体は、良い意
 
味でも悪い意味でも「当てが外れた」ということだろう。一
 
時的に自分が納得しやすい枠の中に相手をはめ込んでいた
 
が、それがズレていると気付いたので「誤解」していたと思
 
う。ではそれで目出度く「理解」したのかといえば、せいぜ
 
い少しはマシな枠付けになっただけのこと。分かった気に
 
なっただけ。
 
 
 人のことなんて分かるわけがない。むしろ、できるだけ分
 
かろうとしない方が良いだろう。
 
 分からないまま、ニュートラルでオープンに人と関わっ
 
て、その時々に目の前に現わされているその人と無理せずに
 
やり取りをする。いま現わされていないその人(の部分)な
 
んて関係ない。いまのその人の在り方と、いまの自分の在り
 
方の親和性がある部分を探って、そこでやり取りするだけの
 
こと。それが人付き合いというものだろう。
 
 もし、そこに親和性が見つからなかったら?
 
 相手をする必要はない。相手のしようがない。無理に付き
 
合ってもお互いに何も良いことはない。そこから立ち去るだ
 
け。 
 
 
 誰にでも経験があるだろうけど、街で道を尋ねられたり、
 
旅先で見知らぬ人とちょっと話す機会があったりしたときの
 
方が、気安く、気分良く話せたりするものだ。それは、お互
 
いに利害関係がないし、お互いに相手のバックグラウンドや
 
バックボーンなどを知らないからニュートラルに関われるか
 
らだ。
 
 
 “その人”を分かろうなんてムリなことだし、変なバイア
 
スを持つだけになりかねない。
 
 自分を分かろうとするのも同じことだ。自分を分かろうと
 
するせいで、多くの人が自分を「誤解」する。
 
 自分であれ他人であれ、悪意がなくても、人を枠にはめよ
 
うととすればロクなことがない。

 
 自分のことも、他人のことも、分からないままで良いでは
 
ないか、さしあたり生きていけそうならば。
 
 もしも生きてゆくのが難しそうならば、それは自分や誰か
 
を分かったつもりになっているせいかもしれない。 

 
 
 
 

2025年9月5日金曜日

仲間はずれ

 
 
 
 もう何十年も前に近鉄電車に乗って奈良へ行ったとき、生
 
駒の高台に差し掛かったところで大阪方面を見たら、霞の彼
 
方まで建物が密集していて「うわぁ・・」と思ったことがあ
 
る。
 
 人間の所業に恐怖を感じて、「この光景が気味悪いと感じ
 
る自分は、人間の仲間ではないのかな・・」とか思ったけれ
 
ど、いまにして思えば、やはり自分は人間の仲間ではないの
 
だろう。
 
 
 ことさらに人を避けているわけではないが、人付き合いは
 
ほとんど無く、世の中で当たり前に通っている常識に違和感
 
を感じる事が多いのだから、仲間でないと判断する方が自然
 
だ。
 
 
 なぜ仲間になれないか?
 
 私が肌感覚のようなものを優先する人間だからだろう。
 
 ほとんどの人が、人の肌感覚的なものをないがしろにして
 
でも、世の中のお話しを進めて行こうとすることに合わせら
 
れない。「なんで、それで平気なの? なんで気持ち悪くな
 
いの?」と感じてしまうことが世の中に多すぎる。
 
 
 こういうことを言うと当然ながら世の中の側からは「お前
 
がおかしいんだよ」と言われるだろうけれど、こちらは元か
 
ら「自分は人間の仲間ではないな」と思っているわけだか
 
ら、自分がおかしいことを問題だと思わない。そもそも「お
 
かしい」とはどういうことか?
 
 
 なんらかの標準から外れると「おかしい」というラベルが
 
貼られるけれど、〈標準=正しい〉というわけではない。標
 
準はたんに数が多いだけだ。けれども世の中では〈標準=正
 
しい〉という理解だろう。
 
 「数が多いだけで〈正しい〉と思っている人たちと付き
 
合ってると、おかしなことに関わってしまいそうだ」と感じ
 
て距離を置くというのは、自然な成り行きではなかろうか?
 
 
 おかしなこと(お話し)に関わってしまうぐらいなら、私
 
はおかしな奴のまま仲間外れで居る方が安心だ。
 
 私は世の中のために生きているのではない。私は、私を生
 
きるべく生まれてきたはずだし、みんながそうだろう。そう
 
じゃなければ、ひとりひとり誰もが違うということに意味が
 
ない。
 
 
 あの生駒の高台から街を眺めたように、ひとりの人間とし
 
て、世の中で繰り広げられる迷走や暴走を眺めていればいい
 
と思う。関わったところで、霞の彼方まで広がる世の中をど
 
うしようもない。「どうぞ存分に・・・」と思う。
 
 ただ、高台の上で自分と同じように世の中を眺めている人
 
が見つかるならば、その人と仲間のようなものになるのは悪
 
くはないね。 
 
 
 
 

2025年9月4日木曜日

AI が教えてくれないこと

 
 
 毎日パソコンを使うけれど、私はほとんど AI を使わな
 
い。調べものをするにしても、習慣的に普通に検索してしま
 
う。「調べる」のではなく「尋ねる」という感じにどうも馴
 
染めない。まぁ AI を使っても、「尋ねる」というイメージ
 
なだけであって、調べていることには違いはないのだけど、
 
どうもしっくり来ない。なにやら余計なものに関わらされて
 
いる感覚が拭えないのです。
 
 意思も感情もないコンピューターが、「です」「ます」と
 
いう表現を使って会話をしてみせているという演出が、私に
 
はかえって距離を感じさせる。「余計な芝居はいらないよ」
 
という気分にさせる。
 
 
 私にとっての AI はそういうものだけど、すでに世の中に
 
は日常的に AI と会話を楽しみ、AI に相談して物事をうま
 
く進めようという人が結構な数いるらしい。大丈夫かい?
 
 
 少しでも判断に迷うことがあると AI に相談して、AI の
 
助言に従う。そして様々なことが上手く運び、危険を回避
 
し、望ましい結果・成果を得られれば、更に AI の信頼は高
 
まり、自分で考えなくなってゆくのだろう。
 
 
 さて、それで望ましい日々が続いて行ったとして、AI が
 
考え AI が選ぶ道を進んで行くのなら、人は AI の意思
 
(?)を実現するための道具になってしまう。そうなった
 
ら、人のアタマは AI の指示を実行させるアプリだろう。
 
 
 
 AI は普通のアタマより賢いだろうから、アタマの悪さが
 
出てくるのを抑制できるだろうけれど、それは人にとって
 
と言っていいことだろうか? 
 
 
 
 「アタマは悪さをする」
 
 私はそう書き続けているけれど、アタマが AI のアプリに
 
なってしまうのは、たとえ失敗しなくなるとしてもあまりに
 
バカげたことだろう。「アタマの悪さここに極まる」という
 
ように思う。
 
 
 バーノン・ハワードの言葉をこのブログで時々引用するけ
 
れど、彼はこんなことも書いている。
 
 
 自分の心で考えて十年間ヘマばかりしたとしても、
 
 他人からの心的支配の下でその十年間を暮らすのに
 
 比べれば、むしろ豊かな経験だといえる
 
              『スーパーマインド』より 
 
 
 確かにそうに違いない。他者の支配のままに生きるなら、
 
それは自分の生ではない。そんな暮らしが自分にとって豊か
 
であるわけがない。
 
 
 それが人であるか AI であるかに関わらず、自分の生き方
 
の多くを他者に依存して決めたり、あるいは丸投げしてしま
 
うのならば、たとえ上手く行っても、それは社会的な上手さ
 
であって、自分の生としての上手さではないだろう。
 
 
 
 生きることの上手さは、社会的に上手くやることじゃな
 
い。ヘマばっかり、アンラッキーばかりの人生だとしても、
 
それを面白がってしまうのが、上手く生きることだろう。た
 
とえヘマのせいで命を落としたとしても、それが自分本来の
 
在り方からのヘマならば・・・。
 
 
 AI を道具にするか、 AI の道具になるか。
 
 どうやらアタマは道具になりたがっているようだ。だって
 
AI はアタマが生み出したものだからね。親が出来の良い子
 
供に面倒をみてもらおうとするようなものだろう。ただ、隠
 
居するのは生きることをちゃんと味わってからにした方が良
 
いと思うが・・・。 
 
 
 
 
 
 

2025年8月26日火曜日

出来ないでいる勇気

 
 
 生きていると、しなければならないことや、社会から求め
 
られ期待されることにお尻を突かれる。仕方ないからやって
 
みたり、欲にかられてやってみたりすることになるけれど、
 
なかなか大変だし、できないこともたくさん有る。そういう
 
ときに、わたしたちはつい「出来ない・・」と情けなく感じ
 
たり、落ち込んだりしてしまうけれど、やってみて出来ない
 
のならしようがないわけで、その事実をないがしろにして自
 
分を情けないと思うのは、物事をはき違えてるだろう。事実
 
の方に重きを置くべきだ。
 
 
 事実として出来ない。
 
 それならば出来ないでいて当然だ。だって、事実として出
 
来ないのだから、その前にはどんな理屈や理想が出しゃばっ
 
てこようと相手にする必要はない。胸を張って、出来ないで
 
いていい。アタマの都合より、事実優先だ。

 
 
 「なんで出来ないんだ!」
 
 誰かからそういう風に咎められることはよくあるし、自分
 
自身をそんな風に咎めたりするけれど、事実に則した答えは
 
こうなる。
 
 「出来ないから」 
 
 
 出来ないことを咎める心理というものが、誰もの心に刷り
 
込まれ、世の中に蔓延してる。
 
 「出来ない」という事実を前にしてもそれを受け入れず、
 
誰かを、自分を咎める。事実を受け入れないなんてアタマが
 
おかしいと言うしかないのだけど、それがまかり通る。
 
 
 昔働いていた職場に、仕事はいまいち出来ないけど気の良
 
いおっちゃんがいた。ある日、そのおっちゃんは上司にかな
 
り忙しい仕事をまかせられてだんだん余裕が無くなってきて
 
いたのだけど、そのおっちゃんが「間に合いましぇ〜ん」と
 
言いながらもマイペースでいたので、私は笑いながら少し手
 
伝ってあげた。その時私は、そのおっちゃんを「師匠だな
 
🤣」と思った。
 
 
 「間に合いましぇ〜ん」
 
 「出来ませ〜ん」
 
 それのどこがいけない? 全然いけなくはない。事実とし
 
て出来ないのならそれでいいはずだろう。
 
 
 「使えない奴!」 
 
 仕方がないじゃないか、そう思うのなら別の奴を呼んでく
 
ればいい。それだけのことじゃないか。咎めるのはお門違い
 
だ。
 
 
 人は誰でも出来損ないだ。誰でも出来ないことがいろいろ
 
ある。それが事実なんだから、胸を張って出来ないでいてい
 
い。
 
 
 「出来ることはするし、出来ないことは出来ない。出来な
 
いことを求めるなら、他を当たってくれ」
 
 私はそういう考え方で世の中を生きてきた。だって、そう
 
するしかないじゃないか。(誠実であることが前提ですが)
 
 
 出来ないでいる勇気を持つこと、出来ないでいることを受
 
け入れる度量を持つことは、これからの世の中ではとても大
 
事なことだろうと思う。自分の為にも、誰かの為にもね。
 
 
 
 

2025年8月24日日曜日

死ぬかと思った

 
 
 昨日、家の外で大工仕事をしていたら、1mの高さから後
 
ろ向きに落ちて肩と首を強打。首が「グシャ」っと音を立
 
て、死ぬかと思った。
 
 首がねじ曲がった瞬間に「頚椎をやったかも・・」と思っ
 
たが、幸い大事には至らなかった。危ない危ない・・・。
 
 あちこち擦りむき、いまも腰・背中・肩・首が痛くて姿勢
 
が自由にならない。あと二三日はこんな感じだろう。 
 
 
 普段「死を忌み嫌っていてはいけない」ということを書い
 
てはいるけれど、生き物というものは、生き続けようとする
 
ものなので、こういう事があると当然気持ちがザワザワす
 
る。暑いということもあるけれど、落ちた直後に手当をしな
 
がら、三十分ぐらい汗が止まらなかった。身体が大きな危険
 
を感じてアドレナリンを大量に放出したのだろう。
 
 
 私は自分が死ぬことは別に怖くないし、生きていて何がし
 
たいということも特にないけど、内の奥さんのことを考える
 
と元気に生きていなくてはいけないので、まぁ常日頃身体を
 
大事にして生きている。生き続けようとする身体に対する敬
 
意も忘れてはいけないとも思う。
 
 生きているというのは、終わってしまえば夢とかわりはな
 
いけれど、夢の中にいる間は、その夢(生きていること)を
 
大切にした方いいだろうからね。
 
 
 
 昔の中国に玄沙師備(げんしゃしび)という禅僧がいた。  
 
 ある日、聞法(もんぽう)の旅に出ようと山を降りている
 
とき、石につまずいて足の指の生爪をはがしてしまう。
 
 「この身体は仮のもので、本当は存在していないはずなの
 
に、この痛さは何処から来るのか」そう想ったところで悟り
 
をひらいた。そして「旅に出る必要はない」と寺に帰ってし
 
まう。
 
 
 痛いのは嘘ではない。
 
 人生も嘘ではない。
 
 生きているのも嘘ではない。
 
 死ぬのも嘘ではない。 
 
 そういう命の上に現れる何もかもをひっくるめて、まるご
 
とそのまま、現れるままを生きればいい。探し求める必要は
 
ない。玄沙師備はそう気付いたのだろう。
 
 
 生きていればさまざまなことに惑わされ、振り回され、揺
 
さぶられる。意識で落ち着こうとしたって、身体の仕組みで
 
汗が吹き出る。気持ちがザワつく。そうなっているのだから
 
仕方がない。それを引き受けながら生きる。放っておいても
 
出来事は向こうからやって来る。自分からウロウロする必要
 
はない。
 
 
 生きるものなら生きる。
 
 死ぬものなら死ぬ。
 
 困るときは困る。
 
 喜ぶときは喜ぶ。
 
 
 生きていることに敬意を払いながら、生きていることを大
 
切にしていると、日々がしみじみと愛おしいものになってく
 
る。
 
 
 
 首が痛いけど、この後買い物に行かなくちゃいけない。
 
まぁ、それもひとつの生きてる現れだな。
 
 
 《 死ぬるまでは生きるなり 》 武者小路実篤 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

2025年8月15日金曜日

社会と人権

 
 
 
 今日は終戦記念日で、この日が近づくとテレビなんかが
 
「人権」についての発信をすることが増える。まぁそれはそ
 
れでいいのだが、私は毎年わずかな違和感を覚える。
 
 私がひねくれた人間だからだろうけれど、ひねくれ目線と
 
いうものも一つの見方ではある。
 
 
 世の中には人権を語るのが大好きな人が沢山いるけれど、
 
それは社会というものがそもそも個人を抑圧するものだから
 
こそであって、社会の中でいくら権利を求めたって、制限と
 
自由が半々ぐらいになれば上出来だと思っていなければいけ
 
ない。
 
 
 社会というものは、ある規範に基いてそれに則った仕組み
 
でしか機能できない。個人々々が持つ、その規範からはみ出
 
る部分を組み込むのは不可能なので、個人はそれをあきらめ
 
るしかないのだが、当然ながら文句を言う人が後を断たな
 
い。
 
 
 そういった文句を受けて規範を変えれば、必ず反対側から
 
文句が出る。というわけで社会には政治が発生するが、どの
 
ような理念と熱意を持った代表者でも、大きな発言力を持つ
 
ようになると、ほどなくして権力者になることは防げない。
 
なぜなら「ある規範」を採用するしか社会を機能させられな
 
いので、機能を高めようとする程、誰かへの制限が強くなる
 
からだ。(もちろん強欲な搾取者が生まれることもよくある
 
のは言うまでもない)
 
 
 立法者にしろ革命家にしろ
 
 平等と自由とを同時に約束する者は
 
 空想家にあらずんば山師(詐欺師)だ
 
                      ゲーテ

 
 社会の中で自由を求めるなんて子供のすることだ。社会は
 
不自由なものである。
 
 もちろん度の過ぎた制限・抑圧には従う必要はないが、そ
 
れにはそれなりの見識と責任が伴う。やたらと「人権」と言
 
いたがる人たちを見ていると、そういう見識があるようには
 
見えないから、本当に人権を侵害されている人には迷惑な話
 
だろう。
 
 
 今回の話は、先のゲーテの言葉を紹介したくて書き始め
 
た。この頃は、いろいろと政治状況がにぎやかなので、この
 
ゲーテの言葉がアタマに浮かんできたのだろう。
 
 ゲーテは200年前に生きた人だけど、社会に生きる人々は
 
今も変わってはいない。人々は今も「自由と平等」を語る人
 
を求める・・・ムリだって。
 
 
 社会に「自由と平等」は両立しない。資本主義と共産主義
 
を同時にやるようなものだ。
 
 「自分の都合ばっかり言っても仕方がないから一応黙って
 
おくけど、あまり図に乗ると承知しないぞ」というのが一般
 
人が社会に対して採るべき態度だろうけど、なぁに、一般人
 
だってすぐに図に乗る。ちょっと旗色が良ければどんどん要
 
求をエスカレートさせて、社会を機能不全にしかねない。政
 
治をやる方も、政治に求める方もどっちも人間だ。アタマが
 
悪いことに変わりはない。

 
 時代状況によって割を喰らう人もいる。それは運が悪いと
 
言うほかない。「人生には当たりハズレがある」(橋本治)
 
のである。
 
 私のような人間などは、どんな社会に生まれたってハズレ
 
だろう。「社会は必要悪」「社会は個人をしあわせにしな
 
い」なんて言っている人間を、社会が優遇するわけがない。
 
 私のような人間でなく、真面目に社会人をするつもりなの
 
に運悪く割を喰ってしまう人にも、肚を括って見方を変えて
 
ほしいものだ。どうにかこうにかして、社会と自分の人生を
 
笑ってしまえと。

 
 戦時中、徴兵されて死んでいった人たちの中にも、肚を
 
括って自分のさだめを笑い飛ばした人たちもいたはずだ。
 
 「抗えないさだめなら、せめて笑い飛ばしてやりたい」
 
と。
 
 人権を奪われても、その中で笑ってみせる気概までは奪う
 
ことはできない。自分次第ですけどね。
 
 
 
                 
 
 

2025年8月13日水曜日

問答無用

 
 
 前回書いた『楽観的人生』というのを読み返していて「あ
 
あ、そうか」と気付いたことがあった。
 
 「命は問答無用だな」と。
 
 
 これまでに何度も何度も書いてきているけれど、わたした
 
ちは世の中で「お話し」を生きている。人生というのは「お
 
話し」を生きることだ。「お話し」だから、そこにはなんだ
 
かんだと問答が行われる。単にしゃべることだけではなく、
 
自分の立場と自分以外の人の立場や、環境とのやり取りが言
 
葉を介して(思考を使って)行われる。自分自身とのやり取
 
りもする。人生は問答をつなぎ合わせる運動のようなもの
 
だ。
 
 
 それに対して、命は問答無用だ。
 
 問答無用でこの世に産み出される。
 
 問答無用で世の中に押し込まれる。
 
 問答無用で苦しみを感じさせられる。
 
 問答無用の死が待っている。
 
 
 「お話し」を生きているわたしたちは「問答無用」が許せ
 
ない。「説明はないのか!」と怒りを覚える。無力感や恐怖
 
を感じるので、なるべく「お話し」から出ないようにする。
 
「お話し」の中にいれば一応わけは分かるので、わけが分か
 
らないという「不毛」に関わらなくて済む。が、「お話し」
 
の中はありとあらゆる問答が溢れてる。「問い」と「答え」
 
に振り回され続けて終わることがない。終わるときは「死」
 
だ。最終回答は問答無用の「死」なんだから、すべての問答
 
も「不毛」だろう。
 
 
 どうせ不毛なら、問答無用の「命」の方を選んでもいい。
 
 問答無用に産み出されてきたのだから、後付けの問答など
 
後回しでもいいはずだ。 
 
 なにせ「命」は問答無用だから、問答に振り回されること
 
がない。それは魅力的なことではないだろうか?
 
 問答無用がわたしたちの本質のはずだ。
 
 問答無用がわたしたちの実態であり、世界の実態だ。
 
 
 考えるのを止めたら、その瞬間に「人生」も「世の中」も
 
何処かへ行ってしまうけれど、「命」はここに在る。気絶し
 
ていたって生きている。
 
 「お話し」の中に生きていると「命」に敬意を払うのを忘
 
れてしまう。「お話し」を続ける為だけに「命」を利用しよ
 
うとし始める。「命」を生きずに「お話し」を生きることに
 
なる。

 
 「それでもいいじゃないか」
 
 そう考える人の方が多いだろう。
 
 でも、たぶんそういう人は人生の終わりに「自分の人生は
 
なんだったのか?・・」という思いに囚われるだろう。だっ
 
て、問答の連なりの果てに現れるのは、問答無用の「死」な
 
のだから、問答を生きてきただけの人には受け止めようが無
 
い。
 
 
 「問答は無用か😌」
 
 そうして、気負わずに問答無用の「命」を感じながら生き
 
るのは、問答無用で産み出されたわたしたちにとって、筋の
 
通った在り方だと思う。





2025年8月1日金曜日

楽観的人生

 
 
 これまでにも何度か書いたように思うけれど、このブログ
 
は社会でイイ思いをする為に直接的にはなんの役にも立たな
 
い。むしろ却って邪魔になるかもしれないぐらいだ。けれ
 
ど、上手くすれば間接的には役に立つだろう。
 
 社会の価値観を深刻に捉えないようになり、気楽に社会に
 
関わることでプレッシャーが軽減されて社会の中で良いパ
 
フォーマンスが発揮できる可能性はある。まぁ、そんなこと
 
があったとしても副産物・オマケ であって、このブログの
 
目的ではないけれど。

 
 このブログをたまたま目にして、「もう少し読んでみよ
 
う」と思う人は、人生や社会の中で深刻な気分を感じさせら
 
れてしまっているか、以前にそういうことがあった人だと思
 
われる。まぁ、そんなことを言えばそれは人類ほぼ全員とい
 
うことになるけど、全員がこのブログを読んでみようと思う
 
はずがない。読もうと思う人は少数派だ。では読もうと思わ
 
ない人はどういう人かというと、「深刻さが、人生の価値を
 
逆説的に証明している」と無意識に思っている人だ。
 
 「人生の価値は重い。だからこそ、少し何かが欠けただけ
 
でこんなにつらい・・・」そんな風に思っている。
 
 でも本当は違う。人生に価値はないからこそ、深刻にし
 
て価値があると思い込もうとしているだけだ。そして、無意
 
識のどこかでそれに気が付いている。それは、“深刻ぶる演
 
技”と“自分の本心が持つ感覚を誤魔化す”という、二重の
 
自己欺瞞として自分を苦しめてしまう。
 
 
 もしそういうタイプの人がたまたまこれを読んでいるな
 
ら、怖いだろうけど自分の心の底を覗いてもらいたいと願
 
う。
 
 「自身で、元からそれに気付いているでしょ?」
 
 違いますか?


 ほとんどの人は気が付いているはずなんですよ。ただ、そ
 
れを直視する機会がなかった。そんな怖いこと、きっかけが
 
なければ誰もしませんからね。私の場合は随分昔にそういう
 
きっかけがあったので、こういうことばかり考えてきました
 
けどね。

 
 「人生はなんということもない」
 
 そう受け止めることは「人生は価値あるもので満たされる
 
べき大切なものだ」と刷り込まれてきたアタマには恐ろし
 
い。これまでのすべてが灰燼に帰すとでもいうような感覚を
 
覚えるだろう・・・。しかし、実際は違う。怖く思えるだけ
 
で、実際に人生の価値を軽く受けとめられたら、人生は気軽
 
に楽しめるものになる。本来の姿を現す。

 
 人生は楽観すべきもの。
 
 とはいえ、人生を「楽観」するのではない。
 
 人生を、「楽」を「観る」場にする。
 
 さまざまな出来事が伴っている「楽」を「観る」。
 
 それこそが、人生を価値あるものにする。
 
 
 縁あって生きている。人生の持つ「楽」に目を向けよう。
 
 それは、深刻さを脇にどければ、いつでもそこにある。









2025年7月31日木曜日

パラレルワールドの私に

 
 
 天文学とか量子力学とかスピリチュアルとかに色々とトン
 
デモ系の話があるけど、その中で私が一番下らないと思うの
 
がパラレルワールドの存在というやつ。
 
 
 パラレルワールドが在るとして、それがなんだというの
 
か?似たような別の世界が在るとしたって、そんなものこの

世界と関係ないじゃないか。その世界にも自分が生きていよ
 
うが、それはその世界の自分であって、この自分が生きてい
 
るのはこの世界なんだから。
 
 
 あまりに下らないので、パラレルワールドの話をちゃんと
 
聞いたりしたことがなくて分からないけど、なんか、今の世
 
界が苦しかったりしたら「意識を変えれば別の世界の自分と
 
して生きられる」みたいな話もあるようだ。
 
 仮にそうできるとして、置いていかれた元の世界の自分
 
は、そこでその続きを生きてゆくだろうけど、置き去りにさ
 
れた自分のことをどう思っているのだろうか?自分さえ良け
 
れば、自分なんてどうでもいいのだろうか? 
 
 この世界に生きている自分を、より良く生きさせてあげる
 
べきではないのか?

 
 私にとってのパラレルワールドは、例えば、あなたが生き
 
ているあなたの世界です。
 
 私の奥さんが生きている彼女の世界です。
 
 三軒先の女子高生が生きているその子の世界です。
 
 トム・クルーズが生きている彼の世界です。
 
 プーチンの生きているプーチンの世界です。
 
 チンギス・ハーンの生きているハーンの世界です。
 
 お釈迦様の生きているお釈迦様の世界です。 
 
 百年後に生きている誰かの世界です。
 
 深海で生きているダイオウグソクムシの世界です。
 
 セミの世界です。
 
 細菌の世界です。
 
 
 すべての存在が、それぞれにその世界(自分の世界)に
 
在って、それが無限に重なり合っている。無数のパラレル
 
ワールドが時空を越えて重なっているもの。それが世界で
 
す。
 
 
 他の世界に目配せをせず、無限の世界の中で、自分の世界
 
を慈しんで生きる。
 
 自分の世界を嫌い、冒涜することが自分の世界を醜悪なも
 
のにしてしまう。自分の世界を愛せるのは自分だけなんだか
 
ら。

 
 「波動」がどうとか言うけど、「波動」というものがある
 
とすれば、自分が自分の世界を愛することで、別の誰かとし

て生きている自分に「良い波動」が伝わることだろう。
 
 
 パラレルワールド?
 
 自分を愛さない人間は、どの世界で生きたって自分を愛さ
 
ないだろう。
 
 
 自分の世界はここにしかない。
 
 自分はここにしかいない。
 
 
 それを受け入れない者は、すべての世界で居場所を失うだ
 
ろう。