今日は終戦記念日で、この日が近づくとテレビなんかが
「人権」についての発信をすることが増える。まぁそれはそ
れでいいのだが、私は毎年わずかな違和感を覚える。
私がひねくれた人間だからだろうけれど、ひねくれ目線と
いうものも一つの見方ではある。
世の中には人権を語るのが大好きな人が沢山いるけれど、
それは社会というものがそもそも個人を抑圧するものだから
こそであって、社会の中でいくら権利を求めたって、制限と
自由が半々ぐらいになれば上出来だと思っていなければいけ
ない。
社会というものは、ある規範に基いてそれに則った仕組み
でしか機能できない。個人々々が持つ、その規範からはみ出
る部分を組み込むのは不可能なので、個人はそれをあきらめ
るしかないのだが、当然ながら文句を言う人が後を断たな
い。
そういった文句を受けて規範を変えれば、必ず反対側から
文句が出る。というわけで社会には政治が発生するが、どの
ような理念と熱意を持った代表者でも、大きな発言力を持つ
ようになると、ほどなくして権力者になることは防げない。
なぜなら「ある規範」を採用するしか社会を機能させられな
いので、機能を高めようとする程、誰かへの制限が強くなる
からだ。(もちろん強欲な搾取者が生まれることもよくある
のは言うまでもない)
立法者にしろ革命家にしろ
平等と自由とを同時に約束する者は
空想家にあらずんば山師(詐欺師)だ
ゲーテ
社会の中で自由を求めるなんて子供のすることだ。社会は
不自由なものである。
もちろん度の過ぎた制限・抑圧には従う必要はないが、そ
れにはそれなりの見識と責任が伴う。やたらと「人権」と言
いたがる人たちを見ていると、そういう見識があるようには
見えないから、本当に人権を侵害されている人には迷惑な話
だろう。
今回の話は、先のゲーテの言葉を紹介したくて書き始め
た。この頃は、いろいろと政治状況がにぎやかなので、この
ゲーテの言葉がアタマに浮かんできたのだろう。
ゲーテは200年前に生きた人だけど、社会に生きる人々は
今も変わってはいない。人々は今も「自由と平等」を語る人
を求める・・・ムリだって。
社会に「自由と平等」は両立しない。資本主義と共産主義
を同時にやるようなものだ。
「自分の都合ばっかり言っても仕方がないから一応黙って
おくけど、あまり図に乗ると承知しないぞ」というのが一般
人が社会に対して採るべき態度だろうけど、なぁに、一般人
だってすぐに図に乗る。ちょっと旗色が良ければどんどん要
求をエスカレートさせて、社会を機能不全にしかねない。政
治をやる方も、政治に求める方もどっちも人間だ。アタマが
悪いことに変わりはない。
時代状況によって割を喰らう人もいる。それは運が悪いと
言うほかない。「人生には当たりハズレがある」(橋本治)
のである。
私のような人間などは、どんな社会に生まれたってハズレ
だろう。「社会は必要悪」「社会は個人をしあわせにしな
い」なんて言っている人間を、社会が優遇するわけがない。
私のような人間でなく、真面目に社会人をするつもりなの
に運悪く割を喰ってしまう人にも、肚を括って見方を変えて
ほしいものだ。どうにかこうにかして、社会と自分の人生を
笑ってしまえと。
戦時中、徴兵されて死んでいった人たちの中にも、肚を
括って自分のさだめを笑い飛ばした人たちもいたはずだ。
「抗えないさだめなら、せめて笑い飛ばしてやりたい」
と。
人権を奪われても、その中で笑ってみせる気概までは奪う
ことはできない。自分次第ですけどね。