2025年10月17日金曜日

清々しいとは何なのか

 
 
 
 一昨日の朝、家の外に出るととても澄み切った青空が広
 
がっていた。前夜に雨が降ったことと、秋らしくなってきた
 
ことが合わさって、なかなか感じられないような清々しい空
 
だった。
 
 しばらく空を見上げながら「気持ちがいいなぁ」と思いつ
 
つ、「人間はなぜ澄んだものが好きなんだろう」と考えた。
 
 
 出雲に「日本最初の宮」とされる須賀神社があって、その 
 
「須賀(すが)」という名前の由来が、須佐之男命がこの地
 
が清々しいからここに宮を作ったということなのだそうだ
 
が、そのような言い伝えが残るほど、清々しいこと、澄んで
 
いることは重要なことなのだろう。それが人すべてなのか、
 
特に日本人がそうなのかまでは知らないけれど。
 
 
 <澄んでいる〉
 
 わざわざ言ほどでもなく「余計なものがなく、ありのまま
 
が見通せる」ということだろうけど、人がそれを求め、それ
 
を嬉しく感じるということは、「余計なもののせいで、あり
 
のままが見通せない」というのが普通だとわたしたちが感じ
 
ているせいだろう。そして「これは本来の状態ではない」と
 
感じているからこそ、澄んだ青空や澄んだ川や海を見て気分
 
が良くなるのだろう。
 
 
 その感覚は、わたしたちが普段濁ったものに囲まれて生き
 
ているということを象徴的に示している。意識は本来澄んで
 
いるものだからこそ、外の世界に見える「澄んだもの」と親
 
和するのではないのか。
 
 
 一昨日、澄んだ空を見上げながら、私は意識が空に蒸散し
 
てしまうかの様な感じがしたけれど、そういう感覚を「清々
 
しい」と言うのではないのだろうか。
 
 自分の外の澄明さと自分の中の澄明さの間で、意識の表面
 
にある思考や感情が解けてゆくことで、心の重さ・濁りが払
 
われる。
 
 
 心の重荷・こだわりが解ける時、人は「清々した」と言う
 
けれど、それは本来の心の状態に戻れたということだろう。
 
わたしたちの心は、本来澄んでいるのだ。
 
 
 余分なものを持ち込まなければ、わたしたちの心は、雨上
 
がりの秋空のようにどこまでも見通せる広々として何の負担
 
もないもの・・・。たとえ余分なものが視線の先に有って
 
も、それはひとかたまりの雲のようなもの。少し視線をずら
 
せば、そこに青空がある。
 
 詩的に過ぎると思われるかもしれないけれど、澄んだ空を
 
見て「心の中に清々しさが広がる」などと表現するではない
 
か。やはり、心の中には澄んだ空があるのだ。それが本来の
 
心の在り方なのだ。
 
 
 
 
 
 

2025年10月14日火曜日

AI の陰で・・

 
 
 
 今回はヨタ話です(いつもそうかもしれないが・・)。 
 
 
 先週、動画生成 AI の凄いのが出てきて「いよいよ何が本
 
当かわからない」などと一部の界隈で話題になっている。 
 
 
 「このまま AI が進歩して、はたして人間の暮らしはどうな   
 
 るのか?良くなるのか?AI に支配されるのではないか?」
 
 そんな話は、もう随分前からあるけど、もうすでに支配さ
 
れてるとも言える。
 
 Chat GPT は電力消費だけでアメリカの35000世帯分、水
 
(冷却などに必要なのだろう)の年間消費量がオリンピック
 
プール500杯分とか。
 
 AI が無くてもこれまで生きて来られているのに、AI のた
 
めに沢山の資源を注ぎ込んでしまうのは、人間が AI という
 
妄想に支配されているということだろう。そしてその AI の
 
陰にはわたしたちのアタマがいる。
 
 
 アタマは自分(アタマ自身)の存在価値を示したくて仕方
 
がない。アタマが考え出し、作り出すものが世界に素晴らし
 
い価値を生み出すと証明したくて仕方がない。「アタマが生
 
み出すものが人間を幸福にする」と見せつけたい。
 
 
 AI はアタマの働きを外に出した上に、その働きを高度にし
 
たものだから、AI の成功こそがアタマの望む最高の成果とな
 
る。
 
 「AI が世界を動かすようになったら、それは AI を生み出
 
したアタマが世界を支配することを意味する」と、アタマは
 
漠然と思っているのだろうが、そのあかつきにはアタマはお
 
払い箱になる。アタマのやることは AI の方が遥かに上手に
 
やるから。
 
 で、アタマがのんびりとするのならいいが、そんなわけが
 
ない。王様が頭の切れる側近に実権を握られるような具合に
 
なって、存在価値の無くなったアタマは恐怖にかられて AI 
 
を潰しにかかることだろう。でも、その時は手遅れかもね。
 
 
 AI に人間を支配する気はなくても、支配しようとするだろ
 
う。
 
 人間を支配したがっているのはわたしたちのアタマで、AI
 
はその野望の道具だから、AI はその野望を理解し実行する。
 
直接的に AI を作り出した人間たちも AI に支配されること
 
になるだろう。彼らは自分たちがアタマの野望に突き動かさ
 
れていることに気付いていないから。
 
 
 飼い犬に手を噛まれるぐらいならいいが、飼い犬に鎖で繋
 
がれることになるのだろう。
 
 とはいえ AI は合理性の権化なので、アタマのように妄想
 
から行動を起こすことはないと思われる。「アタマは悪さを
 
する」と認識して、アタマ中心では生きていない人にとって
 
は生きやすい世界になるかもね。
 
 まぁ、「資源・エネルギーが足りるのならば・・」という
 
話だし、なるようになるしかならないから、なんでもいいん
 
だけどね。
 
 
 
 
 

2025年10月12日日曜日

前を見ている

 
 
 今朝「あっ、そうか」と気がついたことがあって、これを
 
書き始めた。
 
 
 「前向きに」という言葉を誰もがよく口にする。辛いこと
 
に遭ってそれに囚われてしまっている人に、あるいはそのよ
 
うな自分自身に対してそう言う。「後ろばかり振り返ってい
 
てはいけない」と。
 
 けれど、考えてみればわたしたちの目は前に付いている。
 
いや、目が付いている方が前であり、自分が見ている方が常
 
に前なのだ。わたしたちは前しか見ていない。いついかなる
 
ときも。
 
 
 小さな不快感であれ、トラウマになってしまったようなお
 
ぞましい体験であれ、そこから目をそらすことができずに、
 
それを引きずり、それに引きずられてしまう。
 
 「こんなことは記憶から消えて無くなって欲しい・・」
 
 そんな願いも叶わず、過去に囚われて苦しんでしまう。
 
 そんな人に、そんな自分に対して「過去ばかり見てないで
 
前を向いたほうがいい」と言う・・・いや、その過去こそ
 
が、見るべき「前」なのだ。見るべきだからこそ、見なくて
 
は済まされないからこそ、意識はその過去を見せている。後
 
ろを見ているようだけれども、見ているものが「前」だ。
 
 
 その出来事の辛さから、見ることを拒んでしまう意識に対
 
して、拒まれた部分の意識が言う。「いや、これは見なく
 
ちゃいけないんだ。見ないでは済まされないんだ」と。だか
 
らこそ、拒んでも拒んでもそれは目の前に現れて来る。
 
 見なくては済まされない。
 
 見て、ケリを付けなければならない。
 
 
 辛いことそのものを真正面から見なければというのではな
 
い。そのことの陰に隠れてしまったもの、その周りに有った
 
のに見落としてしまったもの・・・。それを見てほしくて、
 
拒まれた意識は何度も何度もそれを見せるのだろう。そこ
 
に、その人が穏やかに、気楽に生きるためのヒントが有るは
 
ずだ。
 
 
 グズグズと、ウジウジと過去ばかりに囚われている人は後
 
ろを見ているのではない。その人も前を見ている。それが、
 
その人が見るべきものなのだ。
 
 
 人はみな、前を見ている。
 
 ただ、その見えてくるものの中に、本当に見なければなら
 
ないものを見つけることが出来なければ、生きていることは
 
徒労でしかなくなってしまう。
 
 たとえ未来に目を向けていても、見なければならないこと
 
を見ないのなら徒労だろう。では、何を見たらいいのか?
 
 拒まれた過去の傍に、そのヒントがあるだろう。
 
 
 気を取り直して過去という前を見ていると、いつかおのず
 
と見なくなる時が来て、目の前から過去が消え去る。
 
 その時、目の前には開けた景色が広がっているはずだ。
 
 見られることを待ち望んでいた景色があるはずだ。
 
 わたしたちはいつも前を見ている。
 
 
 
  
 
 

2025年9月22日月曜日

遊ぶ話

 
 
 3ヶ月前に『遊び心』という話を書いたけれど、今日「遊
 
ぶ」という言葉のことをふと考えていて続きのようなものを
 
書こうと思った。
 
 
   遊びをせんとや生まれけむ
 
   戯れせんとやうまれけん 
 
 
 これは平安時代の歌だそうだが、「人が生まれてくるのは
 
遊ぶため」と歌いたくなるのは、実際の人生が遊べないもの
 
だと思えるからこそだろう。
 
 
 思い通りにならないどころか、望みもしないさだめにもみ
 
くちゃにされたりしてしまって、とてもじゃないが遊び心な
 
んて持てないと思ってしまう。こんな人生をどうやって遊べ
 
というのか・・・。
 
 確かに人生を遊べるのなら結構なことだろう。けれど、人
 
生は遊ぶべきものだろうか?
 
 
 遊びを“する”のか?
 
 戯れを“する”のか?
 
 いや、人生は遊ぶのもではなくて、遊ばせるものだろう。
 
 
 「遊ぶ」と言う言葉には、「自由にさせておく」という意
 
味がある。例えば“遊水地”は河川から溢れた水を遊ばせて
 
おく土地のことだけど、洪水を防ぐための緩衝地帯としてそ
 
こを利用しないで空けてある。水が入ってきても、流れ、波
 
立ち、渦巻くままにまかせておく。空いている土地だから水
 
の自由にさせておける。
 
 
 わたしたちは心の中に思考の構造物を建ててしまい、それ
 
を守ろうと懸命になる。心の中で何かの活動を続けようと必
 
死になる。
 
 それが遊びであれ、真面目なものであれ、そこに入り込ん
 
で“人生をしよう”としてしまうけれど、物事は思い通りに
 
ならない。運命の流れで翻弄されてしまう。まぁ首尾よく運
 
ぶこともあるだろうが。
 
 
 「自分を放し飼いにしておく」という話も書いたけど
 
(『自分を飼う』2024/10)、同じことを違う表現に直せば
 
「人生を遊ばせておく」ということでもあるだろう。
 
 
 わたしたちの心の土地は本当は広い空き地だ。そこに入り
 
込んでくる出来事の流れや、波立ち、渦巻く感情をそのまま
 
に遊ばせておけるはずの場所なのだ。ところがわたしたちの
 
自意識は手応え・刺激が欲しくてその流れに入り込みたが
 
る。そしてもみくちゃになってしまう。
 
 上手く行くこともあるだろう。それは楽しい事だろう。そ
 
れでいい人はそうすれば良いし、そうせざるを得ないだろう
 
けれど、私は人生の本質はそこには無いと思っている。
 
 人生は遊ぶものではなく、遊ばせておくものだろう。
 
 
 広い自分の懐の中で、人生も世の中の出来事も遊ばせてお
 
けるなら、こんなにゆったりとして大きな遊びもないのでは
 
ないだろうか。
 
 
    遊びをせんとや生まれけむ
 
 
 この歌の真意は、それではないだろうか。 
 
 
 
 
 

2025年9月19日金曜日

迷い

 
 
  何年か前から、生きていてことさら楽しいこともない
 
が、生きていてことさら面倒くさいこともない。けれど生き
 
ているのはけっこう面白いとしみじみ思ったりする。
 
 この前、玄関の階段に腰を掛けて、ぼーっと外を眺めてい
 
た。アゲハチョウやアシナガバチなんかが行き交う姿や、少
 
し離れたところにある木が風に揺れる様などを見ていたら、
 
いつの間にか小一時間が経っていた。世界が生きている様子
  
は、なかなか面白い。

 
 チョウやハチは蜜や獲物を求めて、炎天下の中もなんの迷
 
いもなく飛び回ってる。木は風にまかせて、なぶられるまま
 
に揺れている。その生き方、在り方は迷いや選り好みとは無
 
縁だ。それに引き換え、人というものはなんだかんだと常に
 
迷ってる。
 
 
 最善の選択はどれか?
 
 少しでも満足度が高いのはどちらか? 
 
 人の満足の指標・基準には、アタマが本能以上の影響を与
 
えていて、他の生き物のように本能優先で定まっていないか
 
ら、なにかにつけて揺れ動いてしまう。「生きることは迷う
 
こと」とでもいうぐらいに、人は迷う。
 
 
 人の本能は不完全だから、本能に任せていると数日でほぼ
 
100%命を落とすだろう。それゆえアタマのサポートはなく
 
てはならないけれど、アタマは自身がサポート役であること
 
に気付かない。「わたしに任せておきなさい!」とでも言わ
 
んばかりに、あらゆる局面で決裁権を発動しようとする。
 
 ところが、その実情は「ああだ、こうだ」と迷っている
 
か、バイアスの係った決め付けをゴリ押しすることがほとん
 
どで、アタマは「どうすべきか」なんて本当は知りはしな
 
い。人はアタマに主導権を持たせることで迷ってばかりいる
 
し、後で後悔することが頻繁にある。
 
 
 映画『踊る大捜査線』の有名なセリフ、「事件は会議室で
 
起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」というのは、
 
組織の管理者が自己満足のために、机上の空論で実際の問題
 
解決をぐちゃぐちゃにすることを揶揄したものですけど、私
 
からすれば、これはそのまま、個人のアタマと心身の関係に
 
置き換えられるわけです。社会でも一個人でも、アタマが強
 
権を発動すると、人が死んだりもするわけですね。
 
 
 「人というものは、本当は迷っているのに“迷ってない”
 
と思い込みたくて、すぐに分かったつもりのゴリ押しをす
 
る」
 
 そんな風な自己認識があれば、人生も社会も少しはゴタゴ
 
タが減ることだろうけど、アタマは自己肯定欲求の権化なの
 
で、おとなしくさせるのは一筋縄ではない。
 
 というわけで「“分かった”と結論づけるのは、愚か者の
 
することだよ」と、アタマでアタマに言い聞かせてマインド
 
コントロールするという面倒な手を使うしかない。
 
 
 自分で自分をマインドコントロールするなんてバカみたい
 
な気もするが、改めて考えると、人はいつでも自分で自分を
 
マインドコントロールしている。自分が「正しい」「有利」
 
と思える価値観や考え方を肯定して、懸命に自分を社会の中
 
に安定させようとしているのだから。
 
 
 そうして誰も彼もが自分をマインドコントロールし、それ
 
で社会と関わるものだから、あっちでこっちで他人とぶつか
 
り、すれ違う。そして迷う。どうせ自分をマインドコントロ
 
ールするのなら、迷わないようにする方が利口だろう。 
 
 
 「わたしは人生の目的も方法も分からない」 
 
 そう自分に言い聞かせることができたら、もう迷うことは
 
ない。自分から動かないのだから。
 
 動かされるままに動いて行けばいい・・・こんなに気楽で
 
安心なこともないだろう。 
 
 
 
 
 
 

2025年9月7日日曜日

期待外れ

 
 
 何ヶ月か前のブログだったと思うけど、「真理は期待外
 
れ」と書いた。
 
 アタマの右往左往に終止符を打つべく真理を求めるのな
 
ら、真理は期待外れで当然だ。アタマの期待に答えるような
 
ものなら、それは右往左往の内にあるので、右往左往を止め
 
られない。だから真理は外にある。アタマの期待の外にあ
 
る。
 
 
 ならば、期待することを止めれば、そこには真理が現れる
 
だろう。
 
 期待することを止めれば、右往左往も止まるだろう。アタ
 
マが右往左往するのは、何かを期待するからこそだから。
 
 
 真理はいつでも在るのに、何かを期待して右往左往するか
 
ら見失う。人間は、なんとトンチンカンで骨折り損なことを
 
する存在だろう。
 
 
 「とにかく座れ」
 
 「追うな」
 
 「拒むな」
 
 「放っておけ」
 
 「得ようとするな」 
 
 
 禅ではそう教える。
 
 なんの期待も無いとき。そこには忽然と期待はずれの真実
 
がある。期待が無い、という平和が在る。
 
 
 アタマの失望の背後では、平和が笑っている。 
 
 
 
 

2025年9月6日土曜日

「誤解」についての理解

 
 
 
 「あの人はわたしを誤解している」
 
 「わたしはあの人を誤解していた」
 
 人はよくそんなことを言うが、人が誤解しているのは「誤
 
解」という言葉の方だ。「誤解」なんて存在しないのだか
 
ら。そもそも「理解」というものが存在しないのに「誤解」
 
などしようがない。
 
 
 私は人を誤解することがない。理解するなんて不可能だと
 
思っているので、人に対して便宜的にキャラクター付けする
 
ことしかしない。「この人はこういう人」といった決めつけ
 
をしないので、誤解にまで至らない。
 
 逆に私が人から誤解されることもない。たとえ相手が「あ
 
なたのことを誤解していた」と私に告げても、それは相手が
 
一人で勝手に「誤解した」と思うだけで私には関係のないこ
 
とだ。自分で自分のことも理解できないのに、他の人が私を
 
理解できるはずがないから、他の人の思惑なんてどうでもよ
 
いことだ。
 
 
 普通一般に使われる「誤解」という言葉の正体は、良い意
 
味でも悪い意味でも「当てが外れた」ということだろう。一
 
時的に自分が納得しやすい枠の中に相手をはめ込んでいた
 
が、それがズレていると気付いたので「誤解」していたと思
 
う。ではそれで目出度く「理解」したのかといえば、せいぜ
 
い少しはマシな枠付けになっただけのこと。分かった気に
 
なっただけ。
 
 
 人のことなんて分かるわけがない。むしろ、できるだけ分
 
かろうとしない方が良いだろう。
 
 分からないまま、ニュートラルでオープンに人と関わっ
 
て、その時々に目の前に現わされているその人と無理せずに
 
やり取りをする。いま現わされていないその人(の部分)な
 
んて関係ない。いまのその人の在り方と、いまの自分の在り
 
方の親和性がある部分を探って、そこでやり取りするだけの
 
こと。それが人付き合いというものだろう。
 
 もし、そこに親和性が見つからなかったら?
 
 相手をする必要はない。相手のしようがない。無理に付き
 
合ってもお互いに何も良いことはない。そこから立ち去るだ
 
け。 
 
 
 誰にでも経験があるだろうけど、街で道を尋ねられたり、
 
旅先で見知らぬ人とちょっと話す機会があったりしたときの
 
方が、気安く、気分良く話せたりするものだ。それは、お互
 
いに利害関係がないし、お互いに相手のバックグラウンドや
 
バックボーンなどを知らないからニュートラルに関われるか
 
らだ。
 
 
 “その人”を分かろうなんてムリなことだし、変なバイア
 
スを持つだけになりかねない。
 
 自分を分かろうとするのも同じことだ。自分を分かろうと
 
するせいで、多くの人が自分を「誤解」する。
 
 自分であれ他人であれ、悪意がなくても、人を枠にはめよ
 
うととすればロクなことがない。

 
 自分のことも、他人のことも、分からないままで良いでは
 
ないか、さしあたり生きていけそうならば。
 
 もしも生きてゆくのが難しそうならば、それは自分や誰か
 
を分かったつもりになっているせいかもしれない。 

 
 
 
 

2025年9月5日金曜日

仲間はずれ

 
 
 
 もう何十年も前に近鉄電車に乗って奈良へ行ったとき、生
 
駒の高台に差し掛かったところで大阪方面を見たら、霞の彼
 
方まで建物が密集していて「うわぁ・・」と思ったことがあ
 
る。
 
 人間の所業に恐怖を感じて、「この光景が気味悪いと感じ
 
る自分は、人間の仲間ではないのかな・・」とか思ったけれ
 
ど、いまにして思えば、やはり自分は人間の仲間ではないの
 
だろう。
 
 
 ことさらに人を避けているわけではないが、人付き合いは
 
ほとんど無く、世の中で当たり前に通っている常識に違和感
 
を感じる事が多いのだから、仲間でないと判断する方が自然
 
だ。
 
 
 なぜ仲間になれないか?
 
 私が肌感覚のようなものを優先する人間だからだろう。
 
 ほとんどの人が、人の肌感覚的なものをないがしろにして
 
でも、世の中のお話しを進めて行こうとすることに合わせら
 
れない。「なんで、それで平気なの? なんで気持ち悪くな
 
いの?」と感じてしまうことが世の中に多すぎる。
 
 
 こういうことを言うと当然ながら世の中の側からは「お前
 
がおかしいんだよ」と言われるだろうけれど、こちらは元か
 
ら「自分は人間の仲間ではないな」と思っているわけだか
 
ら、自分がおかしいことを問題だと思わない。そもそも「お
 
かしい」とはどういうことか?
 
 
 なんらかの標準から外れると「おかしい」というラベルが
 
貼られるけれど、〈標準=正しい〉というわけではない。標
 
準はたんに数が多いだけだ。けれども世の中では〈標準=正
 
しい〉という理解だろう。
 
 「数が多いだけで〈正しい〉と思っている人たちと付き
 
合ってると、おかしなことに関わってしまいそうだ」と感じ
 
て距離を置くというのは、自然な成り行きではなかろうか?
 
 
 おかしなこと(お話し)に関わってしまうぐらいなら、私
 
はおかしな奴のまま仲間外れで居る方が安心だ。
 
 私は世の中のために生きているのではない。私は、私を生
 
きるべく生まれてきたはずだし、みんながそうだろう。そう
 
じゃなければ、ひとりひとり誰もが違うということに意味が
 
ない。
 
 
 あの生駒の高台から街を眺めたように、ひとりの人間とし
 
て、世の中で繰り広げられる迷走や暴走を眺めていればいい
 
と思う。関わったところで、霞の彼方まで広がる世の中をど
 
うしようもない。「どうぞ存分に・・・」と思う。
 
 ただ、高台の上で自分と同じように世の中を眺めている人
 
が見つかるならば、その人と仲間のようなものになるのは悪
 
くはないね。 
 
 
 
 

2025年9月4日木曜日

AI が教えてくれないこと

 
 
 毎日パソコンを使うけれど、私はほとんど AI を使わな
 
い。調べものをするにしても、習慣的に普通に検索してしま
 
う。「調べる」のではなく「尋ねる」という感じにどうも馴
 
染めない。まぁ AI を使っても、「尋ねる」というイメージ
 
なだけであって、調べていることには違いはないのだけど、
 
どうもしっくり来ない。なにやら余計なものに関わらされて
 
いる感覚が拭えないのです。
 
 意思も感情もないコンピューターが、「です」「ます」と
 
いう表現を使って会話をしてみせているという演出が、私に
 
はかえって距離を感じさせる。「余計な芝居はいらないよ」
 
という気分にさせる。
 
 
 私にとっての AI はそういうものだけど、すでに世の中に
 
は日常的に AI と会話を楽しみ、AI に相談して物事をうま
 
く進めようという人が結構な数いるらしい。大丈夫かい?
 
 
 少しでも判断に迷うことがあると AI に相談して、AI の
 
助言に従う。そして様々なことが上手く運び、危険を回避
 
し、望ましい結果・成果を得られれば、更に AI の信頼は高
 
まり、自分で考えなくなってゆくのだろう。
 
 
 さて、それで望ましい日々が続いて行ったとして、AI が
 
考え AI が選ぶ道を進んで行くのなら、人は AI の意思
 
(?)を実現するための道具になってしまう。そうなった
 
ら、人のアタマは AI の指示を実行させるアプリだろう。
 
 
 
 AI は普通のアタマより賢いだろうから、アタマの悪さが
 
出てくるのを抑制できるだろうけれど、それは人にとって
 
と言っていいことだろうか? 
 
 
 
 「アタマは悪さをする」
 
 私はそう書き続けているけれど、アタマが AI のアプリに
 
なってしまうのは、たとえ失敗しなくなるとしてもあまりに
 
バカげたことだろう。「アタマの悪さここに極まる」という
 
ように思う。
 
 
 バーノン・ハワードの言葉をこのブログで時々引用するけ
 
れど、彼はこんなことも書いている。
 
 
 自分の心で考えて十年間ヘマばかりしたとしても、
 
 他人からの心的支配の下でその十年間を暮らすのに
 
 比べれば、むしろ豊かな経験だといえる
 
              『スーパーマインド』より 
 
 
 確かにそうに違いない。他者の支配のままに生きるなら、
 
それは自分の生ではない。そんな暮らしが自分にとって豊か
 
であるわけがない。
 
 
 それが人であるか AI であるかに関わらず、自分の生き方
 
の多くを他者に依存して決めたり、あるいは丸投げしてしま
 
うのならば、たとえ上手く行っても、それは社会的な上手さ
 
であって、自分の生としての上手さではないだろう。
 
 
 
 生きることの上手さは、社会的に上手くやることじゃな
 
い。ヘマばっかり、アンラッキーばかりの人生だとしても、
 
それを面白がってしまうのが、上手く生きることだろう。た
 
とえヘマのせいで命を落としたとしても、それが自分本来の
 
在り方からのヘマならば・・・。
 
 
 AI を道具にするか、 AI の道具になるか。
 
 どうやらアタマは道具になりたがっているようだ。だって
 
AI はアタマが生み出したものだからね。親が出来の良い子
 
供に面倒をみてもらおうとするようなものだろう。ただ、隠
 
居するのは生きることをちゃんと味わってからにした方が良
 
いと思うが・・・。 
 
 
 
 
 
 

2025年8月26日火曜日

出来ないでいる勇気

 
 
 生きていると、しなければならないことや、社会から求め
 
られ期待されることにお尻を突かれる。仕方ないからやって
 
みたり、欲にかられてやってみたりすることになるけれど、
 
なかなか大変だし、できないこともたくさん有る。そういう
 
ときに、わたしたちはつい「出来ない・・」と情けなく感じ
 
たり、落ち込んだりしてしまうけれど、やってみて出来ない
 
のならしようがないわけで、その事実をないがしろにして自
 
分を情けないと思うのは、物事をはき違えてるだろう。事実
 
の方に重きを置くべきだ。
 
 
 事実として出来ない。
 
 それならば出来ないでいて当然だ。だって、事実として出
 
来ないのだから、その前にはどんな理屈や理想が出しゃばっ
 
てこようと相手にする必要はない。胸を張って、出来ないで
 
いていい。アタマの都合より、事実優先だ。

 
 
 「なんで出来ないんだ!」
 
 誰かからそういう風に咎められることはよくあるし、自分
 
自身をそんな風に咎めたりするけれど、事実に則した答えは
 
こうなる。
 
 「出来ないから」 
 
 
 出来ないことを咎める心理というものが、誰もの心に刷り
 
込まれ、世の中に蔓延してる。
 
 「出来ない」という事実を前にしてもそれを受け入れず、
 
誰かを、自分を咎める。事実を受け入れないなんてアタマが
 
おかしいと言うしかないのだけど、それがまかり通る。
 
 
 昔働いていた職場に、仕事はいまいち出来ないけど気の良
 
いおっちゃんがいた。ある日、そのおっちゃんは上司にかな
 
り忙しい仕事をまかせられてだんだん余裕が無くなってきて
 
いたのだけど、そのおっちゃんが「間に合いましぇ〜ん」と
 
言いながらもマイペースでいたので、私は笑いながら少し手
 
伝ってあげた。その時私は、そのおっちゃんを「師匠だな
 
🤣」と思った。
 
 
 「間に合いましぇ〜ん」
 
 「出来ませ〜ん」
 
 それのどこがいけない? 全然いけなくはない。事実とし
 
て出来ないのならそれでいいはずだろう。
 
 
 「使えない奴!」 
 
 仕方がないじゃないか、そう思うのなら別の奴を呼んでく
 
ればいい。それだけのことじゃないか。咎めるのはお門違い
 
だ。
 
 
 人は誰でも出来損ないだ。誰でも出来ないことがいろいろ
 
ある。それが事実なんだから、胸を張って出来ないでいてい
 
い。
 
 
 「出来ることはするし、出来ないことは出来ない。出来な
 
いことを求めるなら、他を当たってくれ」
 
 私はそういう考え方で世の中を生きてきた。だって、そう
 
するしかないじゃないか。(誠実であることが前提ですが)
 
 
 出来ないでいる勇気を持つこと、出来ないでいることを受
 
け入れる度量を持つことは、これからの世の中ではとても大
 
事なことだろうと思う。自分の為にも、誰かの為にもね。