2017年4月18日火曜日
知ろうとすることは・・・
《 すべての出来事はキノコのようなもので
突然立ち現われて驚かされるが
気付かぬうちに菌糸が廻っているのだ 》
わたしたちは、突然の出来事に驚かされることがよくあ
る。プライベートな事でも、社会の出来事や自然災害でも、
「なぜだ!」と声を上げ、あせったり、うろたえたりする。
彼女に振られたり、ダンナが「離婚したい」と言い出した
り。繁華街で刃物を持った男が暴れ廻ったり、火山の噴火や
地震・竜巻。
これらの事は、突然わたしたちの身に降りかかって来ま
す。しかし、「突然」に見えるだけで、わたしたちには気付
けないところで、それが起こるプロセスは進んでいるので
す。まるでキノコの菌糸が、土の中や枯れ木の中でいつの間
にか広がり、ある日、蓄えられた養分と温度・湿度の条件が
マッチした時、いっきに伸びて、傘を広げる様に。
この見えない所で起きているプロセスは、どんなに努力を
しても完全に知ることは出来ません。 言わば、神の領域で
す。
ところが、そんなにも複雑な事なのにもかかわらず、わた
したちはショッキングな事件が起きると、すぐに原因・理由
を知りたがります。
殺人事件が起きれば、「動機はなんだ!」とか。
列車事故でも起きれば、「早急に原因の追究を!]とか騒
いだりする。
そりゃぁ、調べれば何がしかの答えは得られるでしょう
し、列車事故の場合、部品の欠陥・整備不良なんかが見つか
って、安全性が向上することもあるでしょう。
しかし、直近の目立つ事柄が原因とされるだけで、その原
因にも、そのまた原因があり、その原因にもさらなる原因が
あって、遡ればキリが無いので、分かりやすいところで打ち
止めとなります。その為、改善したはずなのに、似たような
原因で再び事故が起こります。
殺人事件などに至っては、犯人に動機を問い正したところ
で、本人にだって表面的な理由しか解らないでしょう。徒労
だとしか思えませんけどね。本人の考えより、それを取り巻
く状況と、生い立ちに目を向けることに力を入れる方が、ま
だマシだと思いますね。
「事件」と言えるような大きな事柄から、日常の些細な事
まで、すべての事は起こるべくして、起こる。
“天文学的に複雑なドミノ倒し”とでもいうようなもので、
あるピースが、いつ、どの様に倒れるかは分からないのが必
然です。そして、そのドミノ倒しの始まりは、“天文学的に
~”と言う通り、宇宙が誕生した時です。《世界は惰性で動
いている》と前に書きましたが、すべては必然です。人間に
は、おあいにくさまですが。
すべては必然ですが、その詳細は知るすべもありません。
すべては何故だかハッキリしなくて、わたしたちは不安にな
ります。
そのままでは居たたまれないので、わたしたちは理由を知
りたがります。しかし、いくら知っても心の底から納得出来
る時は来ません。来るはずがありません。
《 理由を知ろうとすることは
無限に続く失望と不安です 》
オウム的な人
古い話で恐縮ですが、オウム真理教がらみの話題を・・。
とは言っても、別にオウムの分析をしょうというのではあ
りません。無差別殺人犯やテロ集団などの、狂信的な反社会
的存在から始まるお話です。
22年前に地下鉄サリン事件が起きて、オウムのメンバー
が逮捕され、その後オウムは解体されました。今は二つの団
体に分裂して活動しているようですが、再び反社会的な行動
を起こさない様、監視が続いているようですね。
当時、「こんな集団を野放しにしておいてはいけない」と
慌てて潰しにかかったわけですが、その様子を報道で見なが
ら、私はこんな風に思っていました。
「まぁ、オウムは潰しておかなければならないけど、オウ
ムを潰したところで、“オウム的”な人間はいなくなるわけじ
ゃぁないからねぇ。興奮して、対処療法的なことで気を済ま
すのは、大人としてはどうなの?」
“オウムを潰しても、オウム的な人間はいなくならない。”
この事は、他のどんな出来事にも当てはまることですが、
菌類にしろ植物にしろ、その胞子や種が落ちた所が、生育に
適した場所でなければ決して育ちません。
人間にも色々な者がいますし、一人の人間の中にも色々な
面があります。つまり、それぞれの種を持っているんです
ね。その種が、その種に適した条件に置かれると、育ち始め
ます。ヨーロッパやアメリカの中で、IS(イスラム国)の
アップした動画なんかを観て、テロを行う人間がいますが、
彼らには元々テロリスト的な資質(種)があって、それが現
在の様々な条件の影響によって、芽を吹き、育ってしまう。
仮に、彼らがインターネットに繋がらない状況にあったら、
条件が揃わず、テロリストにはならないでしょう。
そのように、どんな出来事であっても、種とそれを育てる
条件(環境)がなければ、起こりません。
逆に、社会の中にはどんな種でもありますから、条件が揃
えばどんな出来事でもおこります。
ですから、サリン事件の後オウムを潰しても、日本の中に
は“オウム的”なものを持った人間がけっこうな人数いるはず
ですから、また条件が揃えば、反社会的集団が生まれるでし
ょう。
わたしたちがしなければならないのは、人間の中にある危
ない種が育つような社会にしないことです。
わたしたちは皆、程度の差こそあれ、危ない種を持ってい
ます。例外はありません。
「わたしは、そんな危ない種など持っていません」
そんなことを言う人間が一番恐い。
“正義”を掲げた人間が、今までどれほど酷い事を行って来
たかは、歴史を見れば誰にでも明らかな事です。
「オウム真理教」も世界を良くする為に、邪悪な人間を抹
殺しようとしてサリンを撒いたのですし、ナチスにとっても
ユダヤ人を殺す事が“正義”だったのですから。
そのような事をする人間は、カルト教団や独裁者だけにと
どまりません。
経営者・教育者・科学者・様々な活動家etc・・・。自
分が正しいと疑わない人間は何をしでかすか分かりません。
要するに、原理主義者です。
世界はあまりにも複雑すぎて、危ない種が育たない環境
(社会)を造ることは出来ません。出来ることがあるとすれ
ば、種が発芽しないような処理をしておく事だけでしょう。
「自分が絶対正しいということはない」
という認識を、すべての人間に徹底的に持たせる事が、危
ない種が育たないようにする、唯一の方法だと思います。
などと言ってみたものの、そんなことは不可能でしょう。
だって、こんな事を言うと、「『自分が絶対正しいという
ことはない』と思わない奴は、排除しろ!」って叫びだす奴
が、必ず出て来ますからね・・・・・。
「どうにもなんない」
それが、世の中に対する、私の評価です。残念ながら。
どうにかなりますか?
「世の中をどうにかしなければ」という考え自体が、すで
に“悪魔の罠”の入り口です。(「悪魔でも、その目的の為に
聖書を引用することが出来る」わけですから)
そういった思考が、ほんのちょっとずれただけで、危ない
種の養分(エネルギー)になってしまいます。
実は、「ほんとに恐ろしいのは、人間の持つ“アグレッシ
ブさ”なんじゃないか?」と、この頃思っているのです。
2017年4月17日月曜日
許すか・逃げるか・戦うか
《 問題の対処法は三つしかない
「許す」か「逃げる」か「戦う」か 》
前回と前々回、死にたいほどの大問題をどうするか?とい
った事を書きましたが、実はどんな問題であっても、その対
処法は三つしかありません。
「許す」か「逃げる」か「戦う」かです。
そして、どの方法を採るにしても、完璧にやらなければな
りません。
「戦う」のであれば、相手(人に限らず)が二度と再び立
ち上がることが出来ないように、完全に叩き伏せなければな
りません。
「逃げる」のであれば、相手が絶対に追って来られないよ
うに、完全に逃げ切らなければなりません。
「許す」のであれば、相手(または、その行為)への批判
を完全に止めなければなりません。
どの方法であれ、中途半端にやっては禍根を残すことにな
ります。
では、この三つの中で、どの方法が良いのでしょうか?
まぁ、ケース バイ ケースでしょうけど、お奨めは
「許す」という方法でしょう。なぜなら、他の「戦う」「逃
げる」は凄くエネルギーが必要で、コスパが悪いんですね。
「戦う」場合、わざわざ考えてみなくても、一番エネルギ
ーが必要そうだと感じるんではないでしょうか。
もちろん「戦う」しかない状況はありますから、そんな時
は全力で戦うわけですが、避けられるのなら、避けた方が良
いでしょう。
誰でも、何度となく戦って来たことでしょう。
大変でしょ? 相手は、あの手この手で反撃して来るし、
一旦ねじ伏せて勝ったつもりでいたら後で復活して来たり、
予想外の敵が横から現れたり、アンフェアなやり方で攻撃し
て自己嫌悪をすることになったり・・・。そうたやすく、完
全に決着をつけることは出来ません。戦って勝利することは
本当に大変なんです。
では、「逃げる」のは?
「逃げる」という行為は、今まで自分が居た場所を後にす
ることになるわけですが、例えば離婚をした場合、生活の基
盤がまったく変わってしまうことになるので、その建て直し
には大変なパワーが必要です。また、相手は執拗に追いかけ
て来るかも知れず、安住出来るのが何時になるのか分かりま
せん。それに、「逃げる」とは言葉を換えれば「逃亡」です
から、後に汚名を残すことに成りかねず、それに耐えるか、
気にしない度量が必要です。(もちろん、殺されそうになっ
た時は逃げて下さい)
そして「許す」ですが、「許す」ことで変化を受け入れる
必要がでてくることがありますが、その為のエネルギーは
「戦う」「逃げる」に較べれば少ないものです(「許す」こ
とが出来ない場合に「戦う」「逃げる」必要があるわけです
から)。「許す」こと自体にはエネルギーは要りません。具
体的なアクションを必要としませんから。
「許す」ことは自分の意識の変更だけなので、その気にな
りさえすれば、その時・その場所で決着がつき、その都度ご
とに完結します(ホントに許せばですが・・)。
「許す」は、とてもコスパに優れた問題解決の方法です。
しかし、人は「許す」ことをあまり望みません。
「許す」と自分を否定するような気がするからです。
相手(問題)を「許す」ことは、相手を肯定すること。
相手を肯定することは、自分を否定すること。
そういう認識なんですね。
でも、相手を肯定することは自分を否定することだとし
た場合、“相手の言葉やその時の状況で否定されてしまう程度
のものを「自分」としている” ということになりますよね。
その程度のものが「自分」でいいんでしょうか? 「自分」
というものは、そんなに脆いものなんでしょうか? その
「自分」は本当に「自分」なんでしょうか?
それは勘違いですね。
ほんとは自分じゃないものを「自分」として、問題を作り
出している。それがわたしたちの活動のほとんどです。
「許す」=「肯定」ではありませんし、「肯定」出来なく
ても、「許す」ことはできます。「許す」というのは、「肯
定」も「否定」も含んでしまう在り方です。
「許す」ことは、問題とは違う次元に立つことです。
勘違いで設定してしまった「自分」と「相手」の在り方に
翻弄されている状況から離れて、俯瞰するというような立ち
位置に移動することです。
「許す」ことをお奨めします。
まずは、自分自身を・・。
2017年4月14日金曜日
自分でしあわせを探さなければならない子供たちのために Ⅱ
「機嫌良くなんか出来ない・・・。死にたい・・・。」
そんな風に思ってる十代の子たちに(まぁ、十代に限りま
せんが)伝えたいことなんですけど、「死にたい」って言う
人に対して、「死ぬ気になれば、何でもできる」なんてこと
を言う人がいますよね? あんなのウソです。「何でも」は
出来ません。それどころか、「死にたい」って思ってるぐら
いですから、メンタルのパワーが凄く落ちてしまっていて、
もともと出来る事さえ出来なくなっているはずです。そのよ
うな状態の人に対して、「死ぬ気になれば、何でもできる」
なんてことを言えるなんて、「どれだけ穴だらけの感受性を
してるんだ?」と私なんぞは思ってしまいますね。無神経に
も程がある。
むしろ、「どうせ死ぬ気なら、全部辞めてみたら?」と、
言ってあげたいですね。
「死にたい」と思わせる理由は、病気(体の不具合)か人
間関係しか有りません。
経済的なことですか? 経済は人間関係の一部です。
たとえ十億円の借金があっても、それを取り立てる借金取
りが居なければ、何でもないでしょ? 経済的な悩みは、お
金の後ろに居る人との“人間関係”なんです。ですから病気か
人間関係しか、人を「死にたい」と思わせることはありませ
ん。
で、全部辞めるということですが、どうせ死ぬつもりなん
でしょ? 死ぬという事は、何もかも、生きている事も、辞
めるということでしょ? なら、死ぬ以外の事を「全部辞め
てみたら?」と思うんです。
まず、人間関係についてですが、“関係”ない人が「死にた
い」という思いにさせることは有り得ませんよね? だっ
て、関係ないんだから。
当たり前ですけど、関係している人が「死にたい」と思わ
せているわけですよ。だから、その人間関係を辞めてみる。
相手は親かもしれない、友達か同級生か教師かもしれな
い。恋人であったり、職場の上司や同僚、あるいは部下や後
輩かも。
いずれにしても、人が抱える問題は表面的には違うように
見えても、ほとんどの場合“人間関係”です。
そんな「死にたい」ほど苦しい人間関係なら、辞めちゃえ
ばいい。
苦しみの元が学校にあるのなら、学校を辞めればいい。
苦しみの元が部活にあるのなら、部活を辞めればいい。
苦しみの元が会社にあるのなら、会社をやめればいい。
苦しみの元が家族にあるのなら、家族をやめればいい。
親が苦しみのもとなら、親との関係を辞めればいい。
「親との関係を辞める?」
大変ですよね。そんなの。
でも、苦しみの元が親であるなら、そうするしかありませ
ん。前回も書いた様に、手当たり次第に飛び込んで行ってで
も、逃げ道を探すんです。
そんなの、大変ですよね。
でも、どうせ死ぬ気なんですから、辞めてみればいい。
うまく辞められなくても、辞めてみてうまく行かなくて
も、最悪の結果って、「死」でしょ? だったらダメでもと
もとじゃないですか。だから、死ぬ前に辞めてみましょう。
少なくとも、「辞める」という変化を起こせば、当然、状況
も変わるわけです。今までとは違う風が吹く。
その風がどんな風かはわかりませんが、「死ぬ」という最
悪の風が今まで吹いていたわけですから、次に吹く風は「死
ぬ」という風じゃないのは間違いないでしょ?
辞めちゃいましょう。
それから病気なんかの体の不具合ですが、障害、容姿の問
題なんかもありますね。「死にたい」ぐらいですから、医者
に掛かったりしても解決出来ていないわけです。これらは、
辞めようと思っても、辞められませんよね?
じゃあ、何を辞めるのか?
「解決しょう」というのを辞めるのです。
病気、障害、容姿の問題。これらの悩みをなんとかする為
に、出来うることは全てやってみたけど解決出来ない。
「死にたい」とまで思っちゃうのは、もう打つ手が無いわ
けでしょ? 具体的な解決策はもう無いわけでしょ?
だったら死ぬ前に出来る事は、「解決しょう」というのを
辞める事しか残されていません。ですから「解決しよう」を
辞めましょう。
“問題”というものは、言い換えると“解決しなければなら
ない事”です。ならば、「解決する」のを辞めると、問題が
問題ではなくなることに成ります。
屁理屈でしょうか?
いいじゃないですか。普通の理屈が役に立たないんだか
ら、屁理屈だって使いましょう。もう打つ手は無いんだし。
「解決しょう」を辞めちゃいましょう。
「そんなの、どっちも無理だよ」という場合の為に、最後
の手段を記しておきます。
「自殺すればいいです」
怒らないでくださいね。からかっているのではありません
し、投げ出してしまったのでもありません。
「何もかも嫌になったんなら、自殺したっていいんじゃな
い」と思っているんです。
べつに自殺を勧めているんじゃないんです。
私自身、自殺をしたくはないし、ひとの自殺も悲しいです
よ。でもね、「どうしようもなくなったら、自殺もOK」と
考えていれば、その分楽になれるんじゃないかと。
そもそも、自殺っていけない事なんですか?
みんな、「自殺はいけない」と思っているんでしょ?
その理由は、「誰も自殺を望んでいないから」だと思うん
ですけど、だからといって、それが「いけない」にはならな
い。
自殺するのは、人間だけです。(ビミョーな異論が出るか
もしれませんが)というより、自殺出来るのは人間だけで
す。自殺は人間の能力です。(ヒジョーな異論がでるかもし
れませんが)
人間は遥か昔から、自殺してきたはずです。エジプトのヒ
エログリフなんかにも、きっと自殺の記載があるでしょう
(想像ですが)。
自殺は人間の死に方としては、大昔からあるポピュラーな
ものです。交通事故死が起こりだして、まだ百年程度です
し、日本の自殺者数は、交通死亡者の数倍です。ほんと
に、自殺はポピュラーです。
そんな自殺が、なぜ特別「いけない」のか?
前にも書きましたが、自殺する人を、「弱い」だとか、
「ずるい」だとか、「残される方の身になれ」だとか言う人
がいるんですが、誰も自殺なんか望んでいないのにもかかわ
らず、自殺に追い込まれるんだから、よっぽどの事なんです
よ。その人に対して「自殺はいけない」、なんて言わなくて
いいと思うんですが・・。「自殺する者の身にもなれ」と私
は言いたいですね。
「自殺はいけない」は止めましょう。
自殺は望まないですよ。
自殺は勧めないですよ。
でも、どうしても生きるのが苦しくて、狂ってしまいそう
なほど苦しくて、もう自分の中で万策尽き果てた時は、最後
の手段として自殺を持っておいていいと・・・。
「何もかも上手く行かなかったら、死ねばいいや」
そんな、開き直りの上で生きてもいいんじゃないかな?
自殺しなくったって、いずれは死ぬんだし。
「自殺はいけなくない」
上手く生きたいし、生きて欲しいけどね。
「生きられるものなら、生きて行けるでしょう」
ぐらいの気持ちで、生きればいいんでしょうと・・・。
生きてね。
せっかくだから。
その気になれば、笑う事も出来るんだから。
じゃぁね。
そう、大きな借金について書いておいた方がいいですよ
ね。
破産しましょう。
「人生に失敗しないように」を辞めましょう。
世間体よりは、自分が大事でしょ?
2017年4月8日土曜日
自分でしあわせを探さなければいけない子供たちに
「機嫌良く生きないなら、死ねばいい」と前回書いてから
「子供は別ですよ」と但し書きをしたのですが、
「機嫌良くなんて出来ない・・・。死にたい・・・」
という子たちが実際にいるわけで、「そこは、なんとかしな
いとなぁ」と後で思ったわけなんですが、当然のことながら
わたしになんとか出来る訳もないのです。
出来る訳もないのですが、「出来ることはしておこう」
と・・。ほんとに辛い思いをしている子に、何か手助けにな
る言葉を探してみたいと思います。縁が繋がることを祈りな
がら・・。
「なにか手助けになる言葉を・・・」などと書いてはみた
ものの、溜め息が出るだけで、やっぱり何も出て来ません。
いじめ・虐待・貧困・コンプレックス・・。
特に、十歳にもならない子供たちに、どこかのオヤジがブ
ログに書く言葉が役に立つ訳もありません。
考えた挙句に出て来た言葉が、「逃げちゃえ!」というこ
とだけです。
周りのおとなの中で、一番信頼できそうな人に「助け
て!」って言って、飛び込んで行くしかない。それでだめな
ら次の人に、それでもだめなら、また次の人に・・・。
学校の先生・親戚・交番のおまわりさん・近所のおばさ
ん、おじさん・・・だれでもいい、苦しい時に顔が浮かぶ人
なら、手当たり次第に飛び込めばいい。必ず手を貸してくれ
る人がいる。その人がなんとか出来なければ、何とかできる
人を探してくれる。そういう事では、世の中はそんなに捨て
たもんじゃない。
今、自分を苦しめている人や事に、何も構う必要はない。
なんの遠慮も要らない。後の事は何も考えなくていい。今、
自分を苦しめている事は、100%悪い事。自分は1%も悪く
ない。そう思って間違いじゃない。自信を持って「逃げちゃ
え」ばいい。それでいい。それしかない。
と、ここまで書いて、なんと虚しいことか・・・。
ほんとに、どうにもならない。どうしようもない。
世の中との繋がりを持たない子供たちには、誰の手も届か
ない。わたしには祈ることぐらいしか出来ない・・・。
昔、松尾芭蕉が旅をしている途中に、捨て子に出会ったそ
うです。その時、芭蕉は子供をそのままにして、
《 おのが命(さだめ)の拙さを 泣け 》
と詠んで、立ち去ったそうなんですが・・・。
時代背景もあるでしょうが、冷たい話ですね。
しかし、芭蕉が拾うことが良いのかどうか分からないので
す。その時の芭蕉は旅人です。後で他の人に拾われて、良く
なったかもしれない。あるいは、そのまま死んでしまったか
もしれない。いずれにしても、芭蕉は生涯この事を忘れはし
なかっただろうし、大なり小なり、死ぬまで負い目を持って
生きたことでしょう。
どうしようもない事は、どうしようもないんだ。
めぐり合わせによっては、自分が想像も出来ないような局
面に飛び込んで、人の為に尽くすこともあるでしょう。
しかし、どんな思いがあったとしても、大抵わたしたちに
大した事は出来ません。
自分の意欲・能力・状況の全てが合わなければ、何も出来
ないのです。("縁”というものですね。)
どうにかならないものでしょうか?
どうにもならないんですね・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・私は、なにをグダグダ書いているのでしょう・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
丸一日経ちました。
前言撤回。
「子供は別」ではありません。
《 機嫌良く生きられないなら、死んでいいです 》
小さい子は、自分でしあわせになれません。
ですから、しあわせになれなくて、あまりにも辛すぎて死
んでしまうのなら、死んでいいです。自殺にせよ殺されるに
せよ、それは自分のせいではありません。周りの大人のせい
です。
死んで、周りの大人たちに、一生下ろすことの出来ない負
い目を持たせればいいのです。
私は、自分の無力を噛みしめて、黙って泣くことにしま
す。
ただ、このブログを観る可能性がある歳の子たちの為に
は、話せることがある。 それは、この次に。
2017年4月6日木曜日
結婚してもしあわせになる方法 Ⅱ
《 何をするにしても、やるのなら機嫌良くやればよい。
機嫌良くやれないのなら、やめればよい。
生きるのなら、機嫌良く生きればよい。
機嫌良く生きないのなら、死ねばよい。 》
「結婚してもしあわせになる方法」の続きですが、今回は
結婚生活の過ごし方についてです。
上に書いたのは、生きる事全般についてのことですが、結
婚生活に当てはめても同じこと。どんな事があっても機嫌良
く生活を送ればいいのであって、機嫌良く出来ないのであれ
ば、離婚すればいいんです。
ムチャクチャですか?
まぁ、極端ではありますが、でも、そう思いません?
どうせ一緒に暮らすんでしょ? そのつもりで結婚するん
でしょ? 機嫌良く暮らしたいでしょ? だったら、機嫌良
くすればいい。
機嫌良くしても、機嫌悪くしても暮らしていくことに変わ
りは無い。だったら機嫌良くした方がいいに決まってる。こ
んなに真っ当なこともありません。
これは、私が信条としていることです。
何をするにしたって、グチグチ文句を言ったり、拗ねたり
しながらやるぐらいなら、しない方がいい。やめちゃえばい
いんです。
何の為に生きているんでしょう? 何の為に時間を使って
いるんでしょう? 不機嫌に過ごすぐらいなら、もうやめれ
ばいい。ムダですよ。
世の中には、ほんとに不機嫌な人が居ますよね。
文句ばっかり言って、悪口ばっかり吐き出して、自分ばっ
かり不運で不幸なような顔をして、「わたしが不幸なのは、
全部ひとのせいだ!」と言わんばかりの(実際にそう言って
たりしますが)・・・。
「死ねば?」
生きているのがそんなに辛いのなら、死んだ方がいいよ。
いったい、何がしたいんでしょう?
誰かが、誰かをしあわせにする義務でもありますか?
私が、誰かにしあわせにしてもらう権利を持ってますか?
しあわせになりたければ、自分でしあわせになるしかない
のです。(子供は別ですよ)
「◯◯さんをゼッタイしあわせにします!」
ほんとにそんなことを言って結婚する人がいるのかどうか
は知りませんが、結婚したからといって、そんな義務は生じ
ません。相手にもそんな権利はありません。約束かもしれま
せんが、そんなこと真に受ける方が強欲というもんです。
自分の都合に人が合わせてくれるのが当然だと、勝手に決
めて(思い込んで)、その通りにならないと相手を非難す
る。相手にも相手なりの都合があるなんて、考えもしない。
仮に考えても、どっちの都合が先かなんてことで、戦いを始
める始末・・・。
誰も、誰かをしあわせにすることは出来ません。せいぜい
“お手伝い”が出来る程度です。自分でしあわせに(機嫌良
く)なるしかないのです。しあわせどころか、誰も、誰かに
何かをしてあげる義務などありません。
たまたま通りかかった人が、私の落とした十円玉を拾って
くれただけでも、それは奇跡と考えて差し支えない程の事な
んですよ、ホントは。
自分で機嫌良くなって、しあわせになって、そうして毎日
を過ごしていれば、そばにいる人のしあわせにも貢献出来ま
す。そばに機嫌の良い人が居れば、こちらも機嫌良くなるも
んでしょ? 普通なら。
少なくとも隣で不機嫌でいられるよりは、ずっといい。
「そんなこと言われたって、機嫌良く出来ないよ」
もしそう思うなら仕方がないですね。
不機嫌で居て下さい。
誰もどうしようもありません。誰も助けてはあげられませ
ん。助ける義務も、能力もありません。
誰も、ひとの世界を直接さわることは出来ないのです。
自分の不機嫌を、自分で作って、自分で味わうだけのこと
です。
前回、結婚について書き足りなかったので、結婚にかこつ
けて書いてしまいましたが、わたしも、あなたも、どうせ生
きて行くのでしょ? まだ死ぬつもりはないのでしょ?
生きて行くのなら機嫌良く生きればいい。機嫌良くしない
のなら、生きない方がいい。
“不機嫌を成立させる理由”を探しながら生きるなんて、バ
カ過ぎる。
拗ねても、笑っても、今が過ぎて行くのは同じですから。
***************************
「機嫌良く生きられないなら、死ねばよい」というのは、
わたしの“信条”であって、「365日・24時間 ご機嫌で
ーす!」というわけではありません。
まぁ、そこそこはやれてますが・・。
誤解されませんように・・・。
また、これは“離婚のすすめ”ではありません。”結婚生活
に向けての覚悟”といったことで、前回の話と合わせてお楽
しみ下さい。(でもまあ、“離婚のすすめ”と受け取ってもら
ってもかまいませんが)
機嫌良くやれないのなら、やめればよい。
生きるのなら、機嫌良く生きればよい。
機嫌良く生きないのなら、死ねばよい。 》
「結婚してもしあわせになる方法」の続きですが、今回は
結婚生活の過ごし方についてです。
上に書いたのは、生きる事全般についてのことですが、結
婚生活に当てはめても同じこと。どんな事があっても機嫌良
く生活を送ればいいのであって、機嫌良く出来ないのであれ
ば、離婚すればいいんです。
ムチャクチャですか?
まぁ、極端ではありますが、でも、そう思いません?
どうせ一緒に暮らすんでしょ? そのつもりで結婚するん
でしょ? 機嫌良く暮らしたいでしょ? だったら、機嫌良
くすればいい。
機嫌良くしても、機嫌悪くしても暮らしていくことに変わ
りは無い。だったら機嫌良くした方がいいに決まってる。こ
んなに真っ当なこともありません。
これは、私が信条としていることです。
何をするにしたって、グチグチ文句を言ったり、拗ねたり
しながらやるぐらいなら、しない方がいい。やめちゃえばい
いんです。
何の為に生きているんでしょう? 何の為に時間を使って
いるんでしょう? 不機嫌に過ごすぐらいなら、もうやめれ
ばいい。ムダですよ。
世の中には、ほんとに不機嫌な人が居ますよね。
文句ばっかり言って、悪口ばっかり吐き出して、自分ばっ
かり不運で不幸なような顔をして、「わたしが不幸なのは、
全部ひとのせいだ!」と言わんばかりの(実際にそう言って
たりしますが)・・・。
「死ねば?」
生きているのがそんなに辛いのなら、死んだ方がいいよ。
いったい、何がしたいんでしょう?
誰かが、誰かをしあわせにする義務でもありますか?
私が、誰かにしあわせにしてもらう権利を持ってますか?
しあわせになりたければ、自分でしあわせになるしかない
のです。(子供は別ですよ)
「◯◯さんをゼッタイしあわせにします!」
ほんとにそんなことを言って結婚する人がいるのかどうか
は知りませんが、結婚したからといって、そんな義務は生じ
ません。相手にもそんな権利はありません。約束かもしれま
せんが、そんなこと真に受ける方が強欲というもんです。
自分の都合に人が合わせてくれるのが当然だと、勝手に決
めて(思い込んで)、その通りにならないと相手を非難す
る。相手にも相手なりの都合があるなんて、考えもしない。
仮に考えても、どっちの都合が先かなんてことで、戦いを始
める始末・・・。
誰も、誰かをしあわせにすることは出来ません。せいぜい
“お手伝い”が出来る程度です。自分でしあわせに(機嫌良
く)なるしかないのです。しあわせどころか、誰も、誰かに
何かをしてあげる義務などありません。
たまたま通りかかった人が、私の落とした十円玉を拾って
くれただけでも、それは奇跡と考えて差し支えない程の事な
んですよ、ホントは。
自分で機嫌良くなって、しあわせになって、そうして毎日
を過ごしていれば、そばにいる人のしあわせにも貢献出来ま
す。そばに機嫌の良い人が居れば、こちらも機嫌良くなるも
んでしょ? 普通なら。
少なくとも隣で不機嫌でいられるよりは、ずっといい。
「そんなこと言われたって、機嫌良く出来ないよ」
もしそう思うなら仕方がないですね。
不機嫌で居て下さい。
誰もどうしようもありません。誰も助けてはあげられませ
ん。助ける義務も、能力もありません。
誰も、ひとの世界を直接さわることは出来ないのです。
自分の不機嫌を、自分で作って、自分で味わうだけのこと
です。
前回、結婚について書き足りなかったので、結婚にかこつ
けて書いてしまいましたが、わたしも、あなたも、どうせ生
きて行くのでしょ? まだ死ぬつもりはないのでしょ?
生きて行くのなら機嫌良く生きればいい。機嫌良くしない
のなら、生きない方がいい。
“不機嫌を成立させる理由”を探しながら生きるなんて、バ
カ過ぎる。
拗ねても、笑っても、今が過ぎて行くのは同じですから。
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「機嫌良く生きられないなら、死ねばよい」というのは、
わたしの“信条”であって、「365日・24時間 ご機嫌で
ーす!」というわけではありません。
まぁ、そこそこはやれてますが・・。
誤解されませんように・・・。
また、これは“離婚のすすめ”ではありません。”結婚生活
に向けての覚悟”といったことで、前回の話と合わせてお楽
しみ下さい。(でもまあ、“離婚のすすめ”と受け取ってもら
ってもかまいませんが)
2017年4月2日日曜日
結婚しても幸せになる方法
今回は、結婚についてですが、
あら、まあ、なんてことを言うんでしようか。
「好きだから」「淋しいから」って理由だけで、結婚して
だって、結婚は人間に向いてないんですから。(やっと話
ことほど左様に、人は自己中心です。
自己中心ですから、結婚したとしても、まず自分優先とな
とは言うものの、「性格」「価値観」を変えるのは、並大
《 結婚は自分の為にしてはいけません 》
多くの人が「自分がしあわせになりたい」「この結婚は自
とまあ、こんなことを書いてくると、「それじゃぁ、結婚
もし、結婚したくなった時、「この人の為に、自分の人生
《 そもそも、結婚は人間に向いていません 》
ほんとにこの人はひねくれた事ばかり言って。かなり性格
が悪いんじゃない?そんな風に言われそうな気がしますが、
私はとても素直な人間だと、自分では思っています。素直な
ので、様々な出来事や言葉に違和感を感じた時に、その違和
感を素直に受け止めて、「これは何だろう?」と、ごく自然
に考え始めるんです。その態度を見た周りの人から、「ひね
くれてる」「ああ言えば、こう言う」などと揶揄されたりし
ます。
私から見れば、周りの方が不思議です。違和感を感じない
私から見れば、周りの方が不思議です。違和感を感じない
のか、違和感を無視するのかは知りませんが、「よく、まあ
こんな事が平気でいられるなぁ」とか「なんで、こんな事を
こんな事が平気でいられるなぁ」とか「なんで、こんな事を
疑いもせず受け入れられるのだろう」などと思うことが、し
ょっちゅうあります。結婚もそうです。
「結婚おめでとう!」「おしあわせに!」
人が結婚すると、大抵の人がこんなセリフを反射的に言い
「結婚おめでとう!」「おしあわせに!」
人が結婚すると、大抵の人がこんなセリフを反射的に言い
ますが、何故こんなことを平気で言えるのか、気がしれませ
ん。
「そう言うもんだから」というだけで、なにも考えずに
「そう言うもんだから」というだけで、なにも考えずに
こんなことが言えるなんて、信じられません。思いやりが無
いとしか言えません。
だってね、そこら中で離婚しまくってるし、嫁やダンナの
だってね、そこら中で離婚しまくってるし、嫁やダンナの
文句ばっかり言ってるんだから、結婚が良いものとは限らな
いって誰でもわかるでしょ? なのに相も変わらずに「結婚
オメデトー!」ですよ。 私は呆れ返っています。
本気で結婚しろよ! 本気で人の結婚を思ってやれよ!
ほんとに。
本気で結婚しろよ! 本気で人の結婚を思ってやれよ!
ほんとに。
「好きだから」「淋しいから」って理由だけで、結婚して
いいと思ってんじゃねーよ。という立場なんです。私は。
だって、結婚は人間に向いてないんですから。(やっと話
が始まるようです)
何故、結婚は人間に向いていないかというと、人間はみん
何故、結婚は人間に向いていないかというと、人間はみん
な自己中心的だからです。自分が一番大切なのです。例外は
ありません。
「いやいや、世の中には献身的に他人に尽くす人もいる
「いやいや、世の中には献身的に他人に尽くす人もいる
し、母親は大抵自分より子供を大事にするもんだ」
そんな反論がありそうですが、献身する人は、献身したい
そんな反論がありそうですが、献身する人は、献身したい
から献身するのです。“献身したい”という欲求を果たしてい
るので、結局は自分の為なのです。(「この、ひねくれ者
ー!」って、いま思ったでしょ。😄 )
また、母親が子供を大事にするのは、子供が“自分の分
身”または“延長”であって、自分だと感じているからです
が、この感覚もどうも社会的な要素が大きい様で、しばしば
我が子を殺める母親が現れてしまいますし、我が子を自分の
欲求の為に利用する母親もよく居ます。(“良い学校・良い
会社”に入れたがるのは母親本人の見栄だったりするのは、
ごく普通ですね)
また、母親が子供を大事にするのは、子供が“自分の分
身”または“延長”であって、自分だと感じているからです
が、この感覚もどうも社会的な要素が大きい様で、しばしば
我が子を殺める母親が現れてしまいますし、我が子を自分の
欲求の為に利用する母親もよく居ます。(“良い学校・良い
会社”に入れたがるのは母親本人の見栄だったりするのは、
ごく普通ですね)
ことほど左様に、人は自己中心です。
自己中心ですから、結婚したとしても、まず自分優先とな
ります。つまり、自分と配偶者との間で見解の相違があった
場合、自分の都合・主張を通そうとします。その結果、不
満・恨み・疑い・失望・悲嘆などが生まれます。そして、ケ
ンカ・駆け引き・騙し合い・殺し合い(!)が始まります。
恐ろしいですねぇ~。
程度の差こそあれ、これが結婚一般の在り様です(ちょっ
恐ろしいですねぇ~。
程度の差こそあれ、これが結婚一般の在り様です(ちょっ
と極端ですか?)。離婚の理由として、「性格の不一致」だ
とか「価値観の違い」だとか言ったりしますが、別の人間な
んだから「性格」や「価値観」が違うのは、当然の事であっ
て、結婚してからそんな事を言い出すなんて、何をか言わん
やです。
こういう話が出てくるということは、結婚しても自分の
「性格」「価値観」を変えたくないと多くの人が考えている
証拠です。相手に合わせたくないのです。
ねっ!自己中心的でしょ!
こういう話が出てくるということは、結婚しても自分の
「性格」「価値観」を変えたくないと多くの人が考えている
証拠です。相手に合わせたくないのです。
ねっ!自己中心的でしょ!
とは言うものの、「性格」「価値観」を変えるのは、並大
抵のことではありません。というより、まず変えられませ
ん。この場合、相手に合わせる器量を身に付けるということ
ですね。しかし、相手に合わせるのは、自分を殺す事になる
ので、誰もが嫌がります。だから「性格の不一致」。そして
「離婚」。
結婚って何だと思っているのでしょう? ろくに考えてい
ないんでしょうね。
そういった手合いに、こう伝えたいですね。
「離婚」。
結婚って何だと思っているのでしょう? ろくに考えてい
ないんでしょうね。
そういった手合いに、こう伝えたいですね。
《 結婚は自分の為にしてはいけません 》
多くの人が「自分がしあわせになりたい」「この結婚は自
分のしあわせにつながっている」なんて思って結婚するので
しょう。自分の為に結婚するのですね。しかし、結婚は自分
の為にするものではありません。改めて言いますが、お互い
が自分の為に結婚すれば、自分のしあわせを主張し、優先し
ようとするので、衝突は必至です。そうではないんです。
まず、相手のしあわせを優先し尊重するのです。自分のし
まず、相手のしあわせを優先し尊重するのです。自分のし
あわせは後回しにするのです。相手がしあわせになって、そ
の後にまだ余裕があれば、自分のしあわせを考えるのです。
「そんなことを言って、いつまでも自分のしあわせを考え
「そんなことを言って、いつまでも自分のしあわせを考え
る時が来なければどうするんだ。自分はいつしあわせになっ
たらいいんだ」そう思うかも知れませが、大丈夫です。自分
のしあわせは、相手が考えてくれることになってます。
それに、“相手のしあわせ”が目的であれば、相手がしあわ
それに、“相手のしあわせ”が目的であれば、相手がしあわ
せになった時点で、自分の目的が叶うのですから、それで満
足なはずです。要するに“相手のしあわせ”が“自分のしあわ
せ”になるのです。
「綺麗ごとを言うな!」って?
綺麗かどうかなんて関係ないんです。その様にしなければ
“結婚してしあわせになる”ことは出来ないというだけです。
もともと赤の他人で、「性格」も「価値観」も違うふたり
「綺麗ごとを言うな!」って?
綺麗かどうかなんて関係ないんです。その様にしなければ
“結婚してしあわせになる”ことは出来ないというだけです。
もともと赤の他人で、「性格」も「価値観」も違うふたり
が、一緒に生きて行こうとするのです。それ相当の覚悟が必
要なのは当然なんです。ところが、いまどき誰がそんな覚悟
の上で結婚するでしょう?(いまどきに限ったことでもない
でしょうが) そんなこと思いもせずに、その時の気分や打
算で結婚するから、ゴタゴタを起こす事になるのです。
もしも、お互いが自分のことは二の次にして、相手のしあ
もしも、お互いが自分のことは二の次にして、相手のしあ
わせを思い合いながら生きるなら、どうなるか?
どうなると思います?
お互いに自分の事は二の次です。
相手の望みが目的なんです。ですが、相手には自分の望み
どうなると思います?
お互いに自分の事は二の次です。
相手の望みが目的なんです。ですが、相手には自分の望み
はありません。だって、相手の望みはこちらの望みが叶う事
ですから。そうなると、お互いにすることがありません。何
の気遣いも要りません。そのままで、なにもしなくても、お
互いに満足でいられます。お互いが、お互いを思い合うこと
で、なにもせずともしあわせに居られることになるんです。
何という美しい話でしょうか!
と、理屈の上ではそうなるんですが、まぁ、そんなことが
何という美しい話でしょうか!
と、理屈の上ではそうなるんですが、まぁ、そんなことが
起こるのは、ごくごく稀な話で、奇跡のような事です。
でも、そうすべきなんです。
そうしなければ、待っているのは、ケンカ・駆け引き・騙
でも、そうすべきなんです。
そうしなければ、待っているのは、ケンカ・駆け引き・騙
し合い・殺し合いです。(恐いですねぇ~。やっぱり)
困難でも、綺麗ごとでも、そうするべきなんです。
結婚するなら、その覚悟が必要なんです。
そんな覚悟が必要になる程、結婚は人間に向いていないん
困難でも、綺麗ごとでも、そうするべきなんです。
結婚するなら、その覚悟が必要なんです。
そんな覚悟が必要になる程、結婚は人間に向いていないん
です。
“自分の事は二の次にして、まず相手のしあわせを考える”
それが、結婚してもしあわせになる方法です。
“自分の事は二の次にして、まず相手のしあわせを考える”
それが、結婚してもしあわせになる方法です。
とまあ、こんなことを書いてくると、「それじゃぁ、結婚
するメリットなんか無いじゃない。なんのための結婚なの」
って話になるんでしょうが、結婚の良い所は、“自分の事は
って話になるんでしょうが、結婚の良い所は、“自分の事は
二の次にする”・“相手に合わせる”ことで、自分が変わるの
です。自分の新しい局面が開けて、自分の幅が広がるので
す。
《 そもそも結婚は人間に向いていません 》
そんなことを言う私を、結婚否定派だと思ったかも知れま
《 そもそも結婚は人間に向いていません 》
そんなことを言う私を、結婚否定派だと思ったかも知れま
せんが、そうではないんです。
覚悟を決めて、自分は二の次にして生きる事で、しあわせ
覚悟を決めて、自分は二の次にして生きる事で、しあわせ
になり、自分の幅も広がり、成長できる。
結婚とは、良いものです。
覚悟さえ出来れば・・・。の話ですが。
結婚とは、良いものです。
覚悟さえ出来れば・・・。の話ですが。
もし、結婚したくなった時、「この人の為に、自分の人生
を棒に振ってもイイや!」と思えるなら、その結婚は良いも
のになるのだろうと思います。
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