2017年4月8日土曜日

自分でしあわせを探さなければいけない子供たちに





 「機嫌良く生きないなら、死ねばいい」と前回書いてから

「子供は別ですよ」と但し書きをしたのですが、

「機嫌良くなんて出来ない・・・。死にたい・・・」

という子たちが実際にいるわけで、「そこは、なんとかしな

いとなぁ」と後で思ったわけなんですが、当然のことながら

わたしになんとか出来る訳もないのです。

 出来る訳もないのですが、「出来ることはしておこう」

と・・。ほんとに辛い思いをしている子に、何か手助けにな

る言葉を探してみたいと思います。縁が繋がることを祈りな

がら・・。


 「なにか手助けになる言葉を・・・」などと書いてはみた

ものの、溜め息が出るだけで、やっぱり何も出て来ません。

 いじめ・虐待・貧困・コンプレックス・・。

 特に、十歳にもならない子供たちに、どこかのオヤジがブ

ログに書く言葉が役に立つ訳もありません。

 考えた挙句に出て来た言葉が、「逃げちゃえ!」というこ

とだけです。

 周りのおとなの中で、一番信頼できそうな人に「助け

て!」って言って、飛び込んで行くしかない。それでだめな

ら次の人に、それでもだめなら、また次の人に・・・。



 学校の先生・親戚・交番のおまわりさん・近所のおばさ

ん、おじさん・・・だれでもいい、苦しい時に顔が浮かぶ人

なら、手当たり次第に飛び込めばいい。必ず手を貸してくれ

る人がいる。その人がなんとか出来なければ、何とかできる

人を探してくれる。そういう事では、世の中はそんなに捨て

たもんじゃない。

 今、自分を苦しめている人や事に、何も構う必要はない。

なんの遠慮も要らない。後の事は何も考えなくていい。今、

自分を苦しめている事は、100%悪い事。自分は1%も悪く

ない。そう思って間違いじゃない。自信を持って「逃げちゃ

え」ばいい。それでいい。それしかない。
 

 と、ここまで書いて、なんと虚しいことか・・・。

 ほんとに、どうにもならない。どうしようもない。

 世の中との繋がりを持たない子供たちには、誰の手も届か

ない。わたしには祈ることぐらいしか出来ない・・・。



 昔、松尾芭蕉が旅をしている途中に、捨て子に出会ったそ

うです。その時、芭蕉は子供をそのままにして、

 《 おのが命(さだめ)の拙さを 泣け 》

と詠んで、立ち去ったそうなんですが・・・。

 時代背景もあるでしょうが、冷たい話ですね。

 しかし、芭蕉が拾うことが良いのかどうか分からないので

す。その時の芭蕉は旅人です。後で他の人に拾われて、良く

なったかもしれない。あるいは、そのまま死んでしまったか

もしれない。いずれにしても、芭蕉は生涯この事を忘れはし

なかっただろうし、大なり小なり、死ぬまで負い目を持って

生きたことでしょう。



 どうしようもない事は、どうしようもないんだ。



 めぐり合わせによっては、自分が想像も出来ないような局

面に飛び込んで、人の為に尽くすこともあるでしょう。

 しかし、どんな思いがあったとしても、大抵わたしたちに

大した事は出来ません。

 自分の意欲・能力・状況の全てが合わなければ、何も出来

ないのです。("縁”というものですね。)

 どうにかならないものでしょうか?

 どうにもならないんですね・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・私は、なにをグダグダ書いているのでしょう・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。




 丸一日経ちました。


 前言撤回。

 「子供は別」ではありません。


 《 機嫌良く生きられないなら、死んでいいです 》


 小さい子は、自分でしあわせになれません。

 ですから、しあわせになれなくて、あまりにも辛すぎて死

んでしまうのなら、死んでいいです。自殺にせよ殺されるに

せよ、それは自分のせいではありません。周りの大人のせい

です。

 死んで、周りの大人たちに、一生下ろすことの出来ない負

い目を持たせればいいのです。

 私は、自分の無力を噛みしめて、黙って泣くことにしま

す。

 ただ、このブログを観る可能性がある歳の子たちの為に

は、話せることがある。 それは、この次に。




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