2017年4月25日火曜日

手を合わせる意味



 若い頃から、何故だかお寺や仏像が好きで、ちょくちょく


奈良や京都へ出かけます。

 去年も、室生寺・法隆寺・薬師寺・唐招提寺へ、一泊二日

で行きました。

 「静寂と空間は、内省を促す」と云いますが、(「エース

をねらえ!」を読んで憶えました)法隆寺や唐招提寺などに

行くと、それを実感できますね。

 唐招提寺の食堂(じきどう)の縁側に座っていると、自然

と気持ちが静まって来ます。


 その唐招提寺に、去年行った時のことです。

 門をくぐり、正面の金堂の前へ。中には、中央に盧舎那仏

(東大寺の大仏と同じ仏ですね)、向かって左に薬師如来、

右に十一面千手観音、周りに四天王と梵天・帝釈天が安置さ

れています。

 ここの千手観音は、高さが約3メートルの大きな仏で、実

際に手が千本あって、千手観音の中では最も知られた物だろ

うと思います。

 私がここを訪れたのは四回目でしたが、いつも一番のお目

当ては、ここの千手観音でした。

 千手観音は、その千本の手で、衆生をあらゆる苦しみから

救うとされているのですが、私は別に救ってもらいたいと思

って参ったことはありません。これほどの物を作った、昔の

人々の思いの丈を感じられるのが好きなのです。


 今回も、今までと同じ様に手を合わせ、姿を拝見していた

のですが、その千本の手を見た時に、「はっ」と気付いたん

です。「この千本の手は、すべてを救うという意味ではなく

て、『すべて、与えてある(すでに、救ってある)』という

ことなんだ」と。


 “人が生まれ、苦しむこと無く若々しく年をとり(?)、

長生きして、満足して穏やかに死んで行く”、というのを“標

準”にして人生を捉えるために、限りなく苦しみが生まれ

る。

 いくつで死のうが、どんな人生を送ろうが、それぞれに、

それぞれの生であって、そこに良いも悪いも無い。それぞれ

に、それぞれの生が与えてある。ただ、そのまま、受け止め

て生きればよい。そういうことだと。


 だったら、そう生きられるか?ということですが、そう簡

単にいくはずもありません。

 でも、この「気付き」は大きな違いを生みます。

 「救われたい」と想う時、人は仏なり神なり運命なりを、

仰ぎ見ます。しかし、「与えてある(救ってある)」と観じ

時、人は今ある自分と世界を顧みます。まなざしのベクト

ルがまったく違ってしまいます。「(未来を)設定する生き

方」が「(現在を)確認する生き方」へと変わります。

「今。今があって、自分があるじゃないか」と、視線が今へ

向きます。

 
 「偶像崇拝」だとか、「ただの材木や土だ」とか、仏像な

んかに対してざまざまな批判をする人もいます。私も、千手

観音が燃えて無くなってしまったとしても、「それはそれで

嘆き悲しむ程ではない」と思いますが、今回の様な「気付

き」を持てることがあるのを考えると、「内省のための依り

代」として、仏像や寺には大きな価値があって、昔の人たち

の思いと営みに、深い畏敬の念を抱きます。

 
 唐招提寺は大変有名な寺ですし、十一面千手観音は国宝で

もありますが、そういう所や、古い仏像でなければ内省はな

い、という訳でもありません。

 神戸に「須磨寺」(正式には「上野山福祥寺」)というお

寺があります。親のお骨を預かって頂いているので、ちょこ

ちょこお参りするのですが、「源平ゆかりの寺」として有名

な古刹で、たいへん参拝者の多い寺です。歴史は古く、由緒

のある寺ですが、過去の火災などの為か、建物や仏像などの

多くは新しい物です。

 その須磨寺に、二年ほど前にお参りした時の事ですが、い

つもの様に本堂で手を合わせました。今まで、何度となく同

じ様に手を合わせて来たのですが、その時に、突然“手を合

わせる事の意味”が分かったのです。

 手を合わすのは、“対象とひとつになる為”なんだと。


 ご飯を食べる時、わたしたちは手を合わせます。

 食べることで、食物はわたしたちの身体とひとつになりま

す。

 誰かに感謝する時、わたしたちは手を合わせます。

 わたしたちが感謝の思いを持つのは、相手が自分の事の様

に、こちらに思いやりを寄せてくれる時です。

 わたしたちは、対象とひとつになる時、手を合わせます。


 仏に手を合わせるのは、仏とひとつに成るためです。(成

仏ですね) 仏を向こうに置いて、お願いをするためではあ

りません。

 仏とは、世界そのものです。その仏に自分を預けて、仏と

ひとつになることで、世界とひとつとなって“完全”を観じ

。それが「手を合わせる」ということでしょう。


 手を合わせて、その手と手の間に自分を溶かし込んで、世

界の中に自分を消し去ってしまう。

 それが、仏の前で手を合わすことの、望むべき在り方だと

思います。

 自分(エゴ)を仏(世界)の中に溶かし去り、一体と成る

ことで“すべて”を得、千手観音の手が表すように、「すべて

が与えられている」ことを知らされる。

 わたしたちは、途方もない智慧を内に秘めた文化の中で生

きているんだなと思います。

 遥かな昔から、いにしえの人々がその智慧を繋ぐ為に注い

だ思いと営みが、どれほどのものであったかを考えると、畏

敬の念が湧いてくると共に、茫然としてしまいます。

 それこそ、手を合わせるしかありませんね・・・・




 今回は、まともに仏教の話になってしまいました。

 実を言うと、私は“曹洞宗・浄土真宗派・華厳経部会・老

荘研究室”という立場の、仏教者です。

 (怒られるだろうなぁ・・・・・。)









 

 

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