2017年12月9日土曜日

素敵にめぐり合おう!


 

 

 「素敵な○○にめぐり会いたい!」

 これは、女子のセリフですけど、男だってそう思ってま

す。「○○」に何が入るかは人それぞれですが、誰だって

「素敵な事」にめぐり会いたい。

 この「素敵な事」が人である場合、誰も彼もが「素敵な人

にめぐり会いたい」と考えていたら、全員が “受け手” にな

ってしまうので、「素適な人」とのめぐり会いは起こらなく

なってしまいます。けれど、「素敵な人とのめぐり会い」

は、ちょくちょく起っている様です。

 それならば、「素敵な人」は実在しているわけなんです

が、それはどの様な人か?


 美男・美女?

 仕事の出来る男?

 家庭的な女性?

 強い男?

 優しい女?

 さわやかなスポーツマン?

 しとやかな大和撫子?(死語かな?)

 いろんなイメージが浮かびますが、どれも一面的ですね。

 美男・美女が、付き合ってみれば問題だらけという場合

や、仕事の出来る男が DV 夫になったり、優しい女が鬼嫁に

なってしまうというパターンとか・・・。

 そんな始めの印象だけが「素敵!」な人とのめぐり会い

は、「素敵なめぐり会い」とは言えないでしょう。

 では「素敵な人」とはどういう人か?

 “「素敵にめぐり会おう!」としている人” でしょう。


 意味がわからない?


 「めぐり会いを、素敵なものにしよう!」といつも考えて

いる人のことです。

 誰と会うにしても、どんな出来事に遭うにしても、それが

「素敵」なものになるよう心掛けている。そんな人。

 「素敵(な出会いにするよう)にめぐり会おう!」という

姿勢の人です。

 そういう人とのめぐり会いが、本当に「素敵な人とのめぐ

り会い」でしょう。


 そういう人とめぐり会えれば、ほんとにラッキーです。

が、そんなことそうそう有るわけでもありません。

 宝くじに当たる様なものかも知れない。

 でも「素敵なめぐり会い」がしたい・・・。


 だったら、自分が「素敵にめぐり会おう!」とすればい

い。

 自分で「めぐり会いを素敵なものにしよう」とすればい

い。

 自分がそうすれば、すべてのめぐり会いは「素敵なめぐり

会い」になってしまう。

 いかが?


 そんなこと、出来そうもない。


 だったら仕方ない。ずっと、シンデレラを気取っているし

かないし、「素敵なめぐり会い」がやって来たとしても、人

生に二・三回ぐらいあればいい方でしょう。

 かたや、「素敵にめぐり会おう」と心掛けていれば、めぐ

り会いを自分で「素敵」に出来るわけですから、「素敵なめ

ぐり会い」の確率は格段に上がります。お得じゃありません

か?

 多少難しくても、コストパフォーマンスはかなり高いと思

いますよ。 


 なんだか持ってまわった言い方をしてるんですが、要する

に「ご縁を大事にしましょう」って話です。


 《 素敵にめぐり合おう! 》


 なんて言うと、少し今の感覚に近いんじゃないかな? と

いうほどのことです。


 ダサいでしょうか?


 でも、誰かに会う時。

 何処かに出かける時。

 玄関の扉を開けて、「素敵にめぐり会おう!」と自分に言

ってみると、けっこうイケるんじゃないかと思うんです。

 なにより、「素敵にめぐり会おう!」と言える自分にめぐ

り会えることは間違いない。それは「素敵なこと」ではない

でしょうか。


 《 素敵にめぐり会おう! 》


 (言ってる事が分かってもらえたでしょうか?ちょっと

  不安です)





2017年12月8日金曜日

「塞翁が馬」の幸運と幸福


 「幸運」と「幸福」は何が違うか?

 そんなこと考えたことがありますか?



 たいていの人は、「幸運」は「幸福」だと考えていること

でしょう。確かに「幸福をもたらす事を幸運という」のであ

れば、「幸運」は「幸福」です。けれど、一般的には「幸

運」は宝くじに当たるとか、素敵な彼氏にめぐり合ったとか

いう様な、喜ばしい、ラッキーな出来事に恵まれることを指

すと思います。

 「幸運」にめぐり合うと、誰でも喜びます。誰でも「幸

運」にめぐり合いたい。私もめぐり合いたい。けれど、「幸

運」=「幸福」ではありませんね。

 「幸運」とは、「幸福」だと感じやすい運命という事にと

どまります。同じ様に、「不運」とは、「不幸」だと感じや

すい運命のことであって、「不運」=「不幸」ではありませ

ん。


 「金持ちの家に生まれた」。「幸運」ですが「幸福」では

ありません。

 「天才的な頭脳の持ち主として生まれた」。「幸運」です

ね。でも「幸福」とは違う話です。

 「わたしは、すれ違う人が振り返る様な美人だ」。「幸

運」なのでしょう。けれど「幸福」だというわけではありま

せん。


 「ガンになった」。「不運」ですけど「不幸」ではありま

せん。

 「災害で家を失った」。「不運」ですが「不幸」ではあり

ません。

 「通り魔に子供を殺された」。・・・・「不運」であり、

やはり「不幸」でもあるでしょう・・・。けれど、「不幸」

のままにとどまり続けて欲しくはない・・・。


 何を言わんとしてるかは、もうお分かりでしょうが、『人

間万事塞翁が馬』の故事にあるように、一見、「幸運」や

「不運」に見える出来事が、必ずしも「幸運」=「幸福」、

「不運」=「不幸」というようには直結しない。

 出来事の流れの中の一つの印象で、安直に幸・不幸を判断

するのは浅はかだということです。

 『塞翁が馬』の教えは確かにその通りだと思います。「不

運」にめぐり合わせても、すぐ「不幸」と感じてはいけな

い。物事は動いて行くので、その「不運」は次の「幸運」を

もたらすキッカケかも知れない。「不運」だからといって、

「不幸」を感じていてはいけない・・・、けれど・・・。

だったら、一体いつ「幸福」になったらいいのか?


 「ラッキー!」と思える事があっても、「いやいや、こん

な事で喜んでいてはいけない。これがぬか喜びになるような

出来事が起こるかもしれない」と思い始めたら、「ラッキ

ー!」があっても、何も喜べなくなってしまう。 

 「幸運」を単純に「幸福」だと思わない様にすることは、

人生の智恵ではあります。浮かれていて、バカなことをしで

かしてしまうのはよくあるパターンですからね。

 けれど、『塞翁が馬』の智恵は「不運」をやり過ごして、

「不幸」に落ち込まない様にするには良い考えだけど、それ

では「幸福」が何処かへ行ってしまう。それはちょっと困る

んじゃないか?

 “塞翁” はどうやって「幸福」になるのでしょう?


 “塞翁” は普通に人が考える「幸・不幸」を、「幸福」と

も「不幸」とも思っていないんでしょうね。

 「それは単なる出来事に過ぎない」とでも思っているので

しょう。

 「運・不運に揺さぶられないところに、本当の幸福があ

る」というのが、“塞翁” の立場なんだろうなと思います。

 たぶん、死でさえも「運・不運」に関わらない。「運・不

運」自体が存在しない。「運・不運」などというものは、人

のエピソードの飾り程度の意味しかないのでしょう。


 どんな出来事の中にあっても、自分に親しみ、自分を見守

り、自分と自分を取り巻く世界を慈しむ。

 馬は去り、馬は帰る。

 出来事は起こり、出来事は消える。

 それを見ている自分が居る。

 出来事に巻き込まれない自分が居る。


 『塞翁が馬』の故事は、(アタマの中の)馬を降りて自分

に立ち返ることを教える。

 “万事”   すべての出来事は、去来する馬の様なものな

んだと。





 

2017年12月6日水曜日

新長田 喫茶「ライカ」で


  Like a seagull.

 「かもめのように」


 私が高校生の頃、神戸の新長田に「seagull」という名の

ジーパン屋さんがありました。(ジーンズショップとは言わ

ない)

 今、ちょうど鉄人28号が立っているあたりでしたが、そ

の店の二階に「LIKE A(ライカ)」という喫茶店があっ

て、よく通っていました。


 カウンター席とテーブルが三つ。全部で13~5席ぐらい

の、小さな店でした。

 白い壁と天井の細長い店内には、天窓(があったと思う)

から優しい光が落ち、チョコレート色のテーブルと椅子、小

さなガラスの飾り棚があるだけの、シンプルで落ち着いた雰

囲気でした。

 オーナーは、たぶん当時28歳ぐらいのとても綺麗で落ち

着いた、「大人!」という感じの女性で、やさしい物腰の笑

顔が素敵な人で、高校生だった私が、はじめて「大人」を感

じた女性でしたね。ときめいたのではなく、憧れました。
 

 店内には、大抵 J.D サウザーやカーラ ボノフなどといっ

た AOR 系の曲が流れていて、その落ち着いた空間でコーヒ

ーやジュースを飲みながら過ごすのは、本当に気持ちが良か

った。(ミックスジュースがメチャメチャうまかった!)


 
 下に在るジーパン屋の名前と合わせると、「Like a 

seagull」となる様になっていて  ジーパン屋のオーナー

はご家族だったんでしょう  そのネーミングセンスとい

い、店の雰囲気といい、「なぜ、こんなハイセンスな店が長

田にあるんだろう?」と思いながら、足しげく通っていまし

た。(長田は下町なんです)

 あの店に通ったことは、いろいろな面で私のセンスに影響

を与えたと思います。


 と、そんなローカルで個人的な昔話を聞かされてもしょう

がないでしょうから、「Like a seagull」という今日のタイ

トルについて。
 

 以前、短い間ですが海のすぐ近くに住んでいた時期があっ

て、ある日、台風並みの非常に強い風が吹いていた時に、海

の様子を見に行った事がありました。

 瀬戸内海には珍しく、高い波が荒れまくる海をしばらく眺

めていたんですが、その時、東の方から一羽のカモメが飛ん

で来たのです。

 カモメは猛烈な西風の中を、まったく羽ばたくことなく、

翼の角度をほんの少し調整するだけで、かなりのスピードで

滑るように西へ飛んで行きました。

 その見事な飛翔にあっけにとられ、その姿が小さくなるま

で、カモメを見ていたんです。


 「自分で羽ばたかずとも、自分の在り様をほんの少し風に

合わせるだけで、逆風の中を労せず進んで行ける・・・」

 なんだか、重要な人生訓を教えられたような気がしまし

た。


 あれ以来、いろいろな困りごとがある時に、あのカモメを

思い出すことがあります。

 でも、思い出したところで、逆風に対して自分の翼の角度

をどう合わせたら良いのかが分からない・・・。

 ただ、「余計な力を出そうとすることは逆効果だろう」と

自分に言い聞かせながら、いつかあのカモメの様に、ムダな

作為はやめて、悠然と進んで行けるようになれたらなぁと思

うのです。


 「LIKE A」で過ごした時の様な、穏やかで落ち着いた自

分でいられるように、ムダなあがきをせず、あのカモメのよ

うに生きて行ければなぁ・・・。


 Like a seagull.


 生きてるうちに、そうなれる日は来るのだろうか?


 「そんな日が来なくったってかまわない」

 そんな力の抜き方が、必要なのかもしれません。




2017年12月5日火曜日

個性はどこから生まれるか?


 前回、個性の価値ということにちょっと触れたんですが、

普通わたしたちが個性の価値について考える時、「世の中で

役に立つかどうか」という視点で考えているはずです。

 「個性を伸ばす」と言う時、〈理数系が得意〉とか〈絵が

上手〉とか〈走るのが速い〉といった、“社会的な好評価が

期待できる個性” を「伸ばそう」という暗黙の前提がありま

す。

 子供が、〈鉄道の線路について憑りつかれた様になってい

る〉とか、〈蜘蛛の巣の形を分類する事に夢中になってい

る〉とかいう場合は、その個性は「伸ばそう」とされず、

「抑えよう」とされるに違いありません。(控えめに言いま

したが、実際は「抑えよう」というより「潰そう」とするで

しょう)


 “社会的な好評価” が期待できる能力や資質というもの

は、当然ながら “社会的” なものです。“社会的” なものが、

“個性” だなんておかしな話じゃないですか?

 “社会に都合がいい個性” なんて “個性” じゃありません。

 少なくとも、その時代・その社会の大勢からは承認されに

くかったり、認知されていないことこそ、“個性” と呼ばれ

るべきだろうと思います。(ここでいう “社会” とは、ヨー

ロッパや日本といった大きなものから、クラスや家族という

小さな社会であったりします)

 厳しい批判にさらされ、不遇の時を過ごした画家が、何十

年も後、あるいは死後に評価されるといったケースはよくあ

りますね。“個性” は社会とぶつかるものです。(いつまで

たっても承認されない個性は“狂気” かも知れませんが)


 “社会の都合に合わない個性” は、問題を起こすこともあ

るでしょう。手放しに尊重するわけにもいかないというのも

当然です。しかし、“個性” というものは、止むに止まれず

現れて来るものです。当人にも周りにもコントロール出来

ず、その人間を通して発現してくる「命の衝動」といったも

のでしょう。

 世界を大きく変える個性もあれば、その人のまわりの小さ

な世界だけに働く個性もあるでしょうが、どちらにしても、

むやみに押しとどめようとすれば、その衝動は、別の場所か

ら、または違う形で噴出して来るに違いない。

 極端に言えば、その人を殺しても、その “個性” は生きて

いるでしょう。


 “個性” は、個人に属するものではなくて、その〈場〉に

生まれるものじゃないだろうかと思うのです。

 《 個性は場の働きであって 場によって生まれる 》

 そんな風に思います。


 なぜかというと、

 《 そっちと こっちじゃ 景色が違う 》

 からです。


 谷底で暮らす人と、山の上で暮らす人では、おのずと物の

見方・感じ方が違ってくるでしょう。

 ネットでリアルタイムに人と繋がる暮らしと、秘境で滅多

に人と関わらないような暮らしをしている人では、人に対す

る想いが違うはずです。

 裕福な家庭に生まれるのと、貧困家庭に生まれるのでは違

います。その「違い」が “個性” となる。

  “個性” は〈場〉によって作られ、それがそこに居合わせ

た者から現れて来るのだろうと。


 “個性” は個人(エゴ)に属する物ではなく、その世界に

属するエネルギーであって、「〈世界〉から〈社会〉に対し

て変化を強いる働き」だと思います。


 “個性” が問題を起こすとき、それは “個性” の方の問題で

はなく、〈社会の問題〉が “個性” によって浮き彫りになっ

たのかも知れません。(その個人が裁かれたりすることは、

また別の話です)


 「拍手喝采して称えたい」個性もあれば、「地獄を見せた

挙句に殺してやりたい」様な個性もあります。

 そんな、わたしたちの想いを越えて、

 “個性” とは、人と社会の価値感や評価以前の、《変える

働き》なのでしょう。




2017年12月3日日曜日

良い人とは


 《 良い人とは

   自分を疑う事を心得ている人のことである 》


 わざわざ《 》で括って言うほどのことでもないのかも知

れません。要するに、《 良い人は、謙虚な人 》と言ってい

るだけですし。

 ただ《 個性とは、違う言い回しが出来るということ 》で

すから、同じことでも、私なりの言い回しが出来るという事

には意味があります。


 《 良い人は、謙虚な人 》という表現で伝わるニュアンス

と、《 良い人とは、自分を疑う事を心得ている人のことで

ある 》という表現で伝わるニュアンスは、やはり違ってき

ますし、伝わる相手も変わって来ます。個性の価値はそこに

あります。


 何人かの書家が「心」という字を書いたとして、「心」と

いう字に違いはありませんが、それを見る人が持つ印象や感

情は、それぞれ違います。それぞれの書家の個性が違うの

で、それぞれの書く「心」にも違いが出るわけですね。

 それとともに、見る人の側の個性の違いも「心」という字

の受け止め方を変えます。


 三人の書家と、三人の見る人が居た場合、ざっくり言って

しまえば、9通りの「心」が存在する事になります。

 字ひとつだけでも、三人の送り手と三人の受け手の間で、

九つの受け止め方が生まれてしまうのに、世界には70億の

人間が居て、無数の出来事が起こります。ある事について自

分がどう感じ、どう考えたとしても、それが「正しい」なん

て暫定的にしか言えません。だから、《 謙虚 》というより

も、《 自分を疑う事を心得ている 》という在り方をしたい

わけです。


 すべては暫定的。

 すべては保留状態。

 すべては間に合わせ。

 それが本当です。(暫定的に!)


 人はそれぞれに不確かな判断で世の中を渡り、他の人たち

と関わってゆきます。

 「正しさ」は、人それぞれに違いますが、それでもそれぞ

れが、ある立場に立って人と関わらざるを得ません。その時

に「自分が絶対正しい」などという立ち方をされたら、トラ

ブルは必至です。


 誰もが、自分なりの「正しさ」に拠らなければ仕方ありま

せんが、そこに《 自分を疑う 》という手続きを持ちうる人

が、《 良い人 》だと思うのです。


 自分に自信を持つなという事ではありません。

 自分が納得できることには自信を持って当然です。

 ただ、そこに100%の自信がある時は危険ですね。

 自分で確信があって、自分の中で完結しているとしても、

ひとに理解されるかどうかは別の話ですものね。(特に、こ

のブログの様な話は)


 昔、泉谷しげるが言ってました。

 「オレは、自分を信じて疑ってるからね!」

 泉谷しげるは、良い人です。


 泉谷しげるが登場したので、急に思い出しましたが、泉谷

のファーストアルバム『泉谷しげる登場!』の冒頭を飾る曲

は、「白雪姫の毒りんご」というものですが、そのサビの部

分が、


  ぼくたちに 今いちばん必要なものは

  熱い恋や夢でなく

  まぶしい空から降って来る

  白雪姫の毒りんご


という歌詞なんですが、今、急にそれを思い出して、この歌

詞は「熱い恋や夢に浮かれてるわたしたちのエゴに、毒りん

ごを食べさせて、眠らせてしまおう」という事かもしれない

なぁ、なんて・・。


 あまりにもニッチな事に話がそれてしまいました・・。

 わたしたちは、人に疑いの目を向けるのはお手の物です

が、自分を疑うのは嫌がります。不安で心許なくなってしま

いますからね。でも、こんな自分を簡単に信じられるという

のもどうかしてますよね。

 こんな自分ですよ?

 信じられるわけがない。
 

 ところが、お釈迦さまの言葉で「自灯明」というのがあり

ますね。「自分を拠り所にせよ」というのですけれど、こん

な自分を拠り所にしたら、どこに行くか知れたもんじゃない

のに、なぜお釈迦さまはそんなことを言うのでしょう。

 「自灯明」の「自」とは、〈エゴ〉を意味する「自」では

なくて、「自然(じねん)」の「自」なんでしょう。

 「自(おのずから)然(しからしむる)」

 「おのずからそうなる」ことに、従って行くのでしょう。

 「自分でそうする」ことを戒め、「自ずからそうなる」こ

とを大切にしてゆく。


 「自分を信じて、自分を疑う」

 はじめの「自分」と、後の「自分」は違うものですね。

 〈命〉と〈エゴ〉とでもいうべきでしょうか?


 《 良い人とは、〈エゴ〉を戒め〈命〉を大切にする人 》

ということの様です。


 ちょっと、強引でしたね。ハハハ。




2017年12月2日土曜日

最高の虹の下にて。


 もう十年以上も前の話になるけれど、夏の仕事帰り、東の

空に虹が掛かり始めているのを見つけた。

 虹はどんどんとその弓を伸ばし、私がもよりの駅に着いた

頃には、完全な姿となっていたのだけれど、その虹は私がこ

れまで見たことも無い様な、巨大であざやかな、息を呑む程

の壮大で美しいものだった。

 駅のホームに立った私は、電車を一本やり過ごし、その虹

を見上げ続けていた。それほど、その時の虹は素晴らしかっ

たのです。(翌朝の地元の新聞に写真が載っていた)


 普段、空に虹が掛かっていても、ほとんどの人は気付かず

に歩いて行くし、気付いたとしても少し見上げただけで、す

ぐに目をそらして先を急いで行くものだけれど、さすがにそ

の時の虹の壮大さには、ホームに居る多くの人が気付き、電

車から降りて来た人の中にも、すぐに気が付いて驚く人が何

人もいた。

 「さすがに、この虹には目を奪われるよなぁ」

 そう思った瞬間、私は悲しい光景を目にする事になった。

 虹を見上げた人々は、すぐさまポケットからケータイを取

り出すと(まだスマホは無い)、虹を撮影し、液晶画面に虹

が収まっているのを確認して、ホームの階段を下りていっ

た・・・。


 信じられなかった。

 目の前には、視界に入り切らない程壮大で、一生に一度出

会えるかどうかというほど壮麗な景色が広がっているのに、

たった2インチの画面に情報として切り取って、それで良し

としてしまえるなんて・・・。そうする人が、圧倒的多数だ

なんて・・・。


 何の為に目を持っているのか。

 その目は、単に視覚情報を集めるセンサーに過ぎないの

か・・・。

 この虹の美しさに心を奪われないなんて、そんな感性で生

き続けて、いったい何に感動し、何を喜びと出来るのだろ

う? 大袈裟ではあるけれど、私はこの国とこの国の人々の

将来を案じた・・・。

 「“しあわせ” が何だか分からないんじゃないだろうか」

と。


 日々の暮らしの中にも、普段通る道の上でも、美しい事や

安らげる景色に出会う事はいくらでもある。

 微笑ましいシーンや、嬉しくなる光景も目にする。

 しかし、多くの人の目や耳や肌には、感受性を制限するフ

ィルターがかかっていて、あらかじめ想定された種類の感動

しか受け付けない仕組みになっている様だ。

 とてもせまい、せまい世界で、自分を揺さぶる物に出会わ

ない様にして、自分を守っているんじゃないだろうか。

(『感動から逃げるな!』(17/11)の回を参照ください)

 世界の1/3は会社や学校にあり、残りの1/3はスマホの中

に在り、残りの1/3で食べて・寝て・家族や友人と接す

る・・・。そんな事なのだろう。


 世界も人も、単なる情報ではない。


 “歩きスマホ” が嫌われるのは、その行為が「傍若無人」

  傍らに人無きが若(ごと)し  な振る舞いだからだ。

 周りに居る人達を、人間と見做していないからだ。

 目の前にある世界をシャットアウトし、そこに存在する

人々を無いものとする。人扱いされなければ、誰だって不愉

快になる。


 私がよく言うセリフで「人間ばっかり相手にしていると、

アタマがおかしくなるよ」というのがあるのだけれど、最早

人間だって相手にしない。


 虹なんか見ない。

 どこの誰だか知らない人間だって見ない。

 見るのは、自分が囲い込んだ小さな世界に収まるものだ

け。

 「自分ばっかり相手にしてると、アタマだけになるよ」

 ・・・・。


 アタマの中にある喜びは、小さな刺激と、さもしい優越感

だけなのに・・・。
 

 世界を見て、感じて、世界の中に自分を捉えなおす事が出

来なければ、わたしたちの〈生〉は貧しいままに終りを迎え

ることになるだろう。


 「しあわせとは何か?」


 しみじみと考えてみる時間を、時折持つべきだと思うのだ

けれど・・・。 




 

「バックパッキング教書」という本のこと


 『バックパッキング教書』という本があるんです。

 シェリダン・アンダーソンというアメリカのイラストレー

ターと田淵義雄というアウトドア系作家の共著です(二人は

友人。シェリダンは早くに亡くなった)。

 晶文社刊で1982年に初版が出て、私が買ったのは1987

年ですから、丁度三十年前ですね。

 タイトルの通り、シンプルなアウトドアの指南書という体

裁なんですが、内容は結構深く、アタマでっかちになってし

まってる現代人に、「自然に帰った方がいいんじゃない?」

と呼びかける名著です。(たぶん今でも版を重ねているでし

ょう)


 前半は、シェリダンによるマンガなんですが、その冒頭は

こんな言葉で始まります。

 「昔、人間は都市という生活環境を発明した。だけどその

ときからすでに、人間はなんとかこの生活環境から逃げだそ

うといろんなことを試みてきた。最良の方法は、そこから逃

げ出しちゃうことである。」

 ということで、「パックを背負って自然の中へ」という話

になるのですが、その内容はアウトドアをテーマにしながら

も、人の生き方そのものに迫っていきます。


 (養老孟司先生は「都市とは、人間の脳の中にある物を、

外に出したものである」と言い、「人は、自分たちのアタマ

の中に住んでいる」と言います。

 「都市から逃げ出す」ということは、「アタマの支配から

逃げ出す」というのと同義です)


 バックパッキングという行為を通して、身体とその感覚を

メインにした在り方に触れ、「アタマの描く喜びとは違う、

人間の本質的な喜びを感じてみようよ」とシェリダンと義雄

は誘います。


 「衣・食・住」と、ほんの僅かな娯楽を自分で担いで、自

分の足で歩いてみる。

 自分で担ぐので、余分な物は持って行けない。持てば持つ

ほど、自分がしんどい思いをすることになるので、おのずと

持ち物はシンプルになる。

 そのシンプルな旅の中で感じる、面白さと喜びがある。
 

 本の後半は、義雄によるアウトドア指南を兼ねたエッセイ

になっているが、その中で「バックパッキングとは、何を持

っていかないか・・・という策術のことである」というシェ

リダンの言葉に添え、こう語る。

 《頭はいつも「何を持っていけばいい?」と考えてしま

  う。「何を持っていかないか?」と考えるよりもその

  方が簡単なのだ。夏の炎天下の草いきれのアプローチ

  をノロノロ地をはうように歩いてみなければ、やっぱ

  り積みすぎたがるのだ。》


 わたしたちは、いつも「積みすぎる」。積みすぎて苦しん

でいるのに、「周りもそうだから」と、そのことに気付けな

い。アタマは「積むこと」ばかりを考え、それを身体に要求

する。

 遊びを積み上げ、仕事を積み上げ、金を積み上げ、見栄を

積み上げ、心配を積み上げ、安心安全を積み上げ、強さや賢

さを積み上げ、“積み上げることができる自分” に酔う。

 けれど、自分で担ぐことができるものは、バックパッキン

グ同様、僅かなものでしかない。

 現代人が積み上げているものは、自分の力で支えているの

ではなくて、化石燃料や経済の流れの力によるのである。け

れど、当人たちは「自分の力」だと思っている。

 流れが変わってしまえば、持ち去られたり、崩れ落ちたり

するものでしかないのに・・・。


 積んだものではなく、“自分の身体” という与えられたも

のを確かめ、“世界(自然)” という始めから用意されてい

るものを確かめ、“身体” と “世界” という、持ち去られるこ

ともなく作り物でもないものが、自分に与えられている事に

気付く為に、「自分で担いで、自分の足で歩いてみる」。目

的もなく。


 『バックパッキング教書』は、初版から35年経つけれ

ど、紹介されているグッズが少し古めかしい事や、合成洗剤

に対する批判を除けば、その内容は普遍的で、少しも古くな

い。

 田淵義雄による、

 《カメラはあればどうしてもシャッターを押しておきたい

気持ちにさせられる、厄介な代物である。(中略)いちばん

美しくて神秘的な時を、ファインダーでのぞいてるなんて、

ほんとはすごく馬鹿げたことをしているんじゃないだろう

か。(中略)直接自分の心と目に大切なものを焼きつけたほ

うが、本当は価値があるかもしれないのである。》

 という、「インスタ映え」なんて言葉が流行語になる現代

に、キツ~イお灸をすえる様な言葉もある。


 『バックパッキング教書』は、私が大きな影響を受けた一

冊であり、息苦しさを感じる現代人に読まれる価値が有る名

著である。



 《 自分は、「要らないもの」を「要る」と思わされ、

「要らないもの」を「要ると思って」担ぎながら歩き続けて

いるんじゃないか 》と、ちょっと疑ってみましょうとい

う、シェリダンと義雄と私からのお誘いでした。