2018年1月15日月曜日
「共感を求めて」人は生きる
ふと気が付けば、ブログを始めてから一年が過ぎていまし
た。
始めの頃は、何を書くか下準備をしていましたが、だんだ
んと、本当に〈口から出まかせ〉を書く様になっちゃいまし
た。書いている本人も、「今日は、何が出るかな?」と思い
ながらやってます。
誰の頭の中にも、それまでに得て来た知識と経験が、膨大
に詰まっていて、それは殆ど整理されずにいます。
行き当たりばったりに、その時の思いつきのテーマでブロ
グを書いていると、思いもよらない方へ話が進んで行き、自
分の考えが “ある形” をとります。
「あっ、そうなんだ」と自分で気が付くのです。
ブログということで、人に見られることが前提ですから、
自分ひとりで考えているのとは違って、「あんまりいい加減
なことは書けないな」と思うので(よく言うよ)、「しっか
り考えねば」とは思います。一応ですが・・。
ブログを書いてどうなるか?
どうにもなりません。
今の自分は、“そうせざるを得ない” というだけでしょ
う。
「人が一番欲しいものは、自分を理解してくれる人」だ
と、前に書きましたが、私がブログを書いているのも、そう
いうことなのでしょう。また、同時に自分自身を理解したい
のでしょう。
「自分を理解して欲しい」
けれど、人が人を理解できるのは、すべての人に共通した
普遍的なことだけに限られるのではないだろうか?
エゴの中にあることは、他人には共感してもらえないだろ
うと思います。(ここでは「理解」と「共感」を同じ意味で
使っていますが、「自分を理解して欲しい」という望みは、
「共感して欲しい」という方が、適切でしょうね)
他人のエゴを理解する事は、「理解」というより、「共通
認識」とでも言う方がいいでしょう。そもそもエゴは、社会
から個人に浸潤して来たものですから、人間本来の物ではあ
りません。“エゴの理解” というものは、着ている服を観て
「その服、カワイイね!」と言うようなものです。
一方、「共感」というのは、“子供を亡くした母親が、同
じ様に子供を亡くした母親の気持ちを、自分の事の様に感じ
る” といった、「身に滲みる」ような感覚で、言葉には出来
ないものだと言いたい。社会的な意味合いの外にあって、
本来、人間に備わっているものだと。いや、〈命〉に備わっ
ているものだと。
人から人へ、本当に伝わるものは、“命の感覚” だけなん
じゃないかな?
それ以外は、「伝わっている」のではなくて、先に書いた
ように、「共通認識」の確認に過ぎないんだろうと思う。そ
れは社会生活の上では必要なものだけど、人の本当の喜びに
つながるものではないでしょう。「嬉しい!」「楽しい!」
のは認めますが・・・。
肝に銘じるような。
心に滲み入るような。
共感に包み込まれるような。
そんな想いを、誰かとの間に持てたら・・。
それは、人として生きている上での大きな喜びですね。
そして、何ものにも代えがたい幸運ですね。
その想い欲しさに、人は右往左往しているのかも知れませ
ん。そして、誰かとエゴをすり合わせては、「ほっ」とひと
息つきますが、それは心からのものではないので、またすぐ
に右往左往が繰り返される・・・。
エゴの世界をどれだけ右往左往しても、そこにはエゴしか
ない。表面上の、約束事の、間に合わせの辻褄合わせの世
界・・。人間には、それも必要ですが、必要だというだけ
で、それ以上ではない。
エゴではないものを、自分の中に観て、他人の中に観て、
それを認め合えたら・・・。
それこそ、生きる意味があるというものでしょう。
それがネット上であっても、右往左往せずにいたい。
じっと座って、パソコンの中にひとり「ぶつぶつ」と呟き
を連ねてゆくだけですが、その中のどれか一つでも、「誰か
の胆に銘じる」ような、「誰かの心に滲みる」ような言葉が
あったらイイなぁ、と思う。
『一転語』という言葉があります。
“人を悟りに導く一言” ということなんですが、〈ある人
の人生や、価値観をひっくり返してしまうような一つの言
葉〉という意味と捉えていいでしょう。
“悩みの袋小路” に迷い込んで、にっちもさっちも行かな
いような状態の人に、天啓のように響く言葉のことですが、
「私が書き連ねている “口から出まかせ” の一つが、何かの
縁で、誰かの『一転語』になってくれたらいい」。そんな大
それたことを思いながら書いています。(「数打ちゃぁ、当
たる」と)
ということで、次からも “口から出まかせ” 。
ただし、心をこめて。
2018年1月14日日曜日
『バジル氏の(ような)優雅な生活』
昔、少女マンガをよく読んでいました。
山岸涼子や大島弓子、美内すずえらが、第一線で活躍して
いた頃です。
『日出処の天子』『綿の国星』『ガラスの仮面』なんかが
大ヒット作ですが、他にも凄い作家が何人もいた、少女マン
ガの黄金時代です。
萩尾望都、竹宮恵子、内田善美、大和和紀、くらもちふさ
こ、岩舘真理子・・・、それに、亜月裕、魔夜峰央!
キリがないので止めますが、読みまくっていました。そん
な中で、一風変わった作風で好きだったのが、坂田靖子で
す。
メルヘンとコメディを得意としていましたが、シリアスな
作品でも良い物を描いていました。(『青絹の風』という短
編には、《Lavender Blue》の歌詞が、作品のテーマとし
て使われている。本人が、シェルビー・フリントの歌を聴い
て、作品のインスピレーションを得たのだろうと、勝手に思
っています)
その中でも、いちばん好きなのは、やはり代表作である
『バジル氏の優雅な生活』ですね。
長く続けられたシリーズ作ですが、その中には数々の名セ
リフがあって(このあたりのセンスが抜群なんですね)、中
でも深く印象に残ったのは、バジル邸を訪ねてきた悪徳弁護
士に紅茶をぶっかけた、召使いのルイを叱るシーンで言った
一言。バジル氏はこう言います。
「客が礼儀知らずでも、おまえは客に礼儀正しくするん
だ!」
当時二十歳ぐらいだった私は、このセリフに頭を “ガー
ン” と殴られたような気がしました。
このセリフは、言い換えると「相手がバカだからといっ
て、おまえもバカになるんじゃない!」ということだからで
す。
このセリフは、それから私の「座右の銘」の一つになった
のです。(とはいうものの、その後、何度となく「バカ」に
なりましたが・・。でも、この作品の中でも、当のバジルが
後で悪徳弁護士を殴り、お目付け役の執事から自身が説教さ
れてしまいます)
人は、相手やその時の状況につられて、すぐに自分を見失
います。良きにつけ悪しきにつけ、自分を保ち続けることは
とても難しい。
嫌われたり好かれたり、褒められたりバカにされたり、せ
かされたり待たされたり、嫉まれたり羨ましがられたり、他
人の言動に揺さぶられ続ける日々に、自分を失くしてしまい
ます。
この言葉に出会ったことで、一歩引いた立ち位置で人と接
する事が大事だ、という思いを強くしましたし、「自分をし
っかり持たねば」という意識も芽生えたように思います。
ですが、「自分をしっかり持たねば」という思いは、ひと
つ間違えば、自分を守ろうとして “融通が利かない” という
ことになりかねません。実際、二十代の私は、かなり融通の
利かない人間だったと思います。まぁ、若い男が生意気なの
は、仕方がない事ではありますが・・。
融通が利かないが為に、少し袋小路に迷い込んだ様な思い
をした私は、〈世逃げ〉をしました。仕事を辞め、一切働か
ず、三年ほどぶらぶらしてたのです。
旅に出るとか、何か勉強するとかいった事もなく、なんと
なく暮らしていました。
当時 “自分に何の肩書きも無い” という事が、面白かっ
た。
毎日のように公園に出かけては、ベンチに座ってハトやス
ズメに餌をやったり、駅前に座って何時間も人間観察をして
いたり、まるで老人のような生活パターンでしたね。
そうしているうちに、貯金が底を着き、世の中に戻らざる
を得なくなりました。
三年ぶりに世の中に戻った私は、いつの間にか、《誰にで
も事情がある》という物の見方を身に付けていたのです。
人が、バカでも、賢くても、優しくても、エゴイストで
も、ケチでも、気前がよくても、どんな人間であろうとも、
《誰にでも事情がある》。
その時、その人は、そうあらざるを得ない事情があって、
その様に在る。持って生まれたモノと、生い立ちと、いま在
る状況によって、そのように在る。
みんな仕方がなく、そのように今を生きている。
融通が利く様になったというより、「“どうこうしよう”
というのが大間違いだ」、と分かったんですね。
みんな、わけも分からず、止むに止まれず、〈自分〉を守
ろうと必死です。
融通が利かずに、私が自分自身を追い詰めてしまったよう
に、“必死で守ろうとしている〈自分〉” が、自分自身に一
体何をもたらしてくれたか? ほとんどの人は振り返って見
はしません。
一体、“自分というもの” が何をしてくれたか?
大抵は、ゴタゴタを引き起こすだけです。
「相手がバカだからといって、自分もバカになるんじゃな
い!」
それは、“自分を守る” ことでは、ありませんでした。
“自分を守ろうとして、我を忘れている” 人間に出会った
ら、ヘタに関わり合うと、こちらも “我を忘れてしまう” 。
なるだけ放っておく。勝手にさせておく・・。
「バカ」というのは、“我を忘れること” だから。
「バカ」というのは、“人間の質” の事ではなくて、“ある
状態のこと” だから。
“人間の質” というのは、その人その人の持っているもの
であって、良いも悪いもない。
大事にしなければならないのは、「その時、その時どう在
るか?」ということで 、状況に揺さぶられないことでし
た。
バジル氏の様に優雅な生活は出来ないけど、優雅な気持ち
で居られることは増えましたね。
“まわり中が礼儀知らずでも、自分は礼儀正しく居られる”
それが、《貴族》というものでしょうか。
『バジル氏の優雅な生活』ですね。
長く続けられたシリーズ作ですが、その中には数々の名セ
リフがあって(このあたりのセンスが抜群なんですね)、中
でも深く印象に残ったのは、バジル邸を訪ねてきた悪徳弁護
士に紅茶をぶっかけた、召使いのルイを叱るシーンで言った
一言。バジル氏はこう言います。
「客が礼儀知らずでも、おまえは客に礼儀正しくするん
だ!」
当時二十歳ぐらいだった私は、このセリフに頭を “ガー
ン” と殴られたような気がしました。
このセリフは、言い換えると「相手がバカだからといっ
て、おまえもバカになるんじゃない!」ということだからで
す。
このセリフは、それから私の「座右の銘」の一つになった
のです。(とはいうものの、その後、何度となく「バカ」に
なりましたが・・。でも、この作品の中でも、当のバジルが
後で悪徳弁護士を殴り、お目付け役の執事から自身が説教さ
れてしまいます)
人は、相手やその時の状況につられて、すぐに自分を見失
います。良きにつけ悪しきにつけ、自分を保ち続けることは
とても難しい。
嫌われたり好かれたり、褒められたりバカにされたり、せ
かされたり待たされたり、嫉まれたり羨ましがられたり、他
人の言動に揺さぶられ続ける日々に、自分を失くしてしまい
ます。
この言葉に出会ったことで、一歩引いた立ち位置で人と接
する事が大事だ、という思いを強くしましたし、「自分をし
っかり持たねば」という意識も芽生えたように思います。
ですが、「自分をしっかり持たねば」という思いは、ひと
つ間違えば、自分を守ろうとして “融通が利かない” という
ことになりかねません。実際、二十代の私は、かなり融通の
利かない人間だったと思います。まぁ、若い男が生意気なの
は、仕方がない事ではありますが・・。
融通が利かないが為に、少し袋小路に迷い込んだ様な思い
をした私は、〈世逃げ〉をしました。仕事を辞め、一切働か
ず、三年ほどぶらぶらしてたのです。
旅に出るとか、何か勉強するとかいった事もなく、なんと
なく暮らしていました。
当時 “自分に何の肩書きも無い” という事が、面白かっ
た。
毎日のように公園に出かけては、ベンチに座ってハトやス
ズメに餌をやったり、駅前に座って何時間も人間観察をして
いたり、まるで老人のような生活パターンでしたね。
そうしているうちに、貯金が底を着き、世の中に戻らざる
を得なくなりました。
三年ぶりに世の中に戻った私は、いつの間にか、《誰にで
も事情がある》という物の見方を身に付けていたのです。
人が、バカでも、賢くても、優しくても、エゴイストで
も、ケチでも、気前がよくても、どんな人間であろうとも、
《誰にでも事情がある》。
その時、その人は、そうあらざるを得ない事情があって、
その様に在る。持って生まれたモノと、生い立ちと、いま在
る状況によって、そのように在る。
みんな仕方がなく、そのように今を生きている。
融通が利く様になったというより、「“どうこうしよう”
というのが大間違いだ」、と分かったんですね。
みんな、わけも分からず、止むに止まれず、〈自分〉を守
ろうと必死です。
融通が利かずに、私が自分自身を追い詰めてしまったよう
に、“必死で守ろうとしている〈自分〉” が、自分自身に一
体何をもたらしてくれたか? ほとんどの人は振り返って見
はしません。
一体、“自分というもの” が何をしてくれたか?
大抵は、ゴタゴタを引き起こすだけです。
「相手がバカだからといって、自分もバカになるんじゃな
い!」
それは、“自分を守る” ことでは、ありませんでした。
“自分を守ろうとして、我を忘れている” 人間に出会った
ら、ヘタに関わり合うと、こちらも “我を忘れてしまう” 。
なるだけ放っておく。勝手にさせておく・・。
「バカ」というのは、“我を忘れること” だから。
「バカ」というのは、“人間の質” の事ではなくて、“ある
状態のこと” だから。
“人間の質” というのは、その人その人の持っているもの
であって、良いも悪いもない。
大事にしなければならないのは、「その時、その時どう在
るか?」ということで 、状況に揺さぶられないことでし
た。
バジル氏の様に優雅な生活は出来ないけど、優雅な気持ち
で居られることは増えましたね。
“まわり中が礼儀知らずでも、自分は礼儀正しく居られる”
それが、《貴族》というものでしょうか。
2018年1月12日金曜日
教祖になってみませんか?
「『教祖になってみませんか?』なんて、一体何を言い出
すんだ?」
そんなふうに思われたかも知れませんが、冗談と言えば冗
談だし、本気と言えば本気です。さらに言えば、「神になっ
てみませんか?」というのが、本音です。
私、狂ってます?
ずいぶん前のことですが、『自信教』という宗教を考えた
んです。
字のごとくに、「自分を信仰する」宗教です。
信仰する対象は自分自身ですから、あなたが〈神〉です。
そして、自分という〈神〉を信仰するのですから、信者は
あなた一人だけです。あなた一人だけですから、あなたは信
者であると同時に “教祖” でもあります。
あなたは〈神〉であり、“教祖” であり、信者です。
「何を言ってるんだ?」
そう思われているでしょう。
もう少し説明します。
あなたは〈神〉です。(そういうことにして下さい)
〈神〉ですから、あなたは何も必要としません。
〈神〉ですから、あなたは世界そのものです。
〈神〉ですから、あなたは完全に満ち足りています。
〈神〉ですから、あなたは完璧です。
あなたは〈神〉です。
さて、あなたが〈神〉だとしたら、世界はどの様に見えま
すか?
あなたは〈神〉であり、世界そのものです。あなたが宇宙
です。何かすることがありますか?
あなたは〈神〉であり、完全に満ち足りています。何も必
要としません。何かしなければならないことがありますか?
あなたは〈神〉であり、完璧です・・・。以上。
何のことは無い。あなたをちょっと「神の気分」に誘導し
ているんです。
今まで度々書いてきましたが、わたしたちは生まれて来る
と、すぐに較べることを刷り込まれます。いや、赤ちゃんは
母親の匂いを分かっていたり、温度や湿度の違いを感じるの
ですから、“較べること” は生得的なものですね。ただ、赤
ちゃんの持っている「比較能」は、生物的なものです。その
「比較能」を土台にして、〈意識〉による比較が刷り込まれ
ます。すべてを比較するようになってしまうのです。
たった一度。ほんの少し。取るに足りない事柄でも。
比較してしまったが最後、人は、“完璧” な世界を失いま
す。“完全” では無くなります。雪崩を打つように “必要” な
ものが増えてゆきます・・・。
だから、〈神〉になってみます。
自分を「 “完璧” で “完全” で “何も必要としない” 満ち
足りている者」として、観て、感じてみます。
実際、“今生きている” のであれば 、「今生きるのに必要
なものはすべて完全に完璧に足りている」ということです。
アタマがどんなに不足を唱えようとも、“今生きている” の
なら、「すべてはそろっている」のです。
どうでしょう? 完璧じゃないですか?
完璧な存在なんだから、あなたはやっぱり〈神〉なんです
よ。
あなたも〈神〉だし、私も〈神〉だし、すべての人間が、
生きとし生けるものが、この世の何もかもが〈神〉です。
73億の人間ひとりひとりが、自分を信仰すればイイ。
73億の人間ひとりひとりが、〈神〉であり、完璧に満ち
足りている。
73億人に73億の宗教。
そうなってしまえば、もう宗教間の対立など起きない。
そこには何の争いも不幸も無い。
〈極楽〉じゃないですか。
人は、自分が〈神〉であることを、気付いていないだけな
んですよ・・・。
と、そんなことを昔考えました。気持ち悪いですか?
冗談とも本気ともつかない話でしょ?
でもね、信仰というものは、個人のものです。
宗教というものは、個人のものです。
ひとりひとりが、その人なりに宗教を捉え、その人なりの
信仰を持ちます。
「ナムアミダブツ」と唱えても、「アーメン」と呟いて
も、「インシャラー」と言っても、そこに込められている思
いや祈りは、ひとりひとり違います。たとえ同じ宗教を信仰
していても。(“お金” や “社会的地位” や “若さ” なんかを
信仰している人もいますね)
だから、宗教も信仰も個人のものなんです。
実は、「個人の数だけ宗教がある」というのが現実です。
やっぱり「ひとりひとりが教祖」なんです。
結局、自分を信じるしかないのです。信仰の対象は〈自
分〉です。
あなたが〈神〉です。
満ち足りて下さい・・・・・・・。
私は、たぶらかそうとしているのでしょうか?
試しに、たぶらかされてみてはどうですか?
どうせ生きてるし、どうせ死ぬ身です。
満ち足りた気分で居るに、越したことはない。
教祖はあなたです。
だから、誰も金を「お布施をしろ!」なんて言って来たり
はしません。
勝手に〈神〉になって、ひとりで満ち足りて・・・・。
昼寝でも、どうです?
2018年1月11日木曜日
求めない
前回、加島祥造さんの『求めない』(小学館)という本の
事にふれて終わりましたが、「求めない」ことが、しあわせ
に生きる秘訣だという内容の本なんですね。
「求める」ことによって人は苦しむから、『求めない』と
いうわけなんです。
仏教で、《四苦八苦》と言いますね。
「生・老・病・死」で四苦。
さらに「愛別離苦」(愛するものと別れる苦しみ)。
「怨憎会苦」(憎いものに会う苦しみ)。
「求不得苦」(求めても得られない苦しみ)。
「五蘊盛苦」(人の五つの認識作用
識
四苦と(さらに四苦で)八苦で、《四苦八苦》というわけ
で、仏教のことを少し知っている人なら、良くご存じの話で
す。
人の〈苦〉を詳しく分類して、それぞれの〈苦〉に合わせ
た教えを説く為に、《八苦》としたのでしょうが、つまると
ころ〈苦〉というものは、すべて「求不得苦」ですね。
人は、「生老病死」や「怨憎会苦」や「愛別離苦」や「五
蘊盛苦」に必ず会います。それは、避けることが出来ませ
ん。それなのに、それらに会わないことを「求めて」いま
す。“求めても得られないこと” を「求める」から苦しみま
す。すべては「求不得苦」です。
だから『求めない』なんですね。
加島さんはタオイストです。タオの根本は《無為自然》で
すから、それを消化してきた末に、『求めない』という言葉
が湧き出て来たのでしょう。もちろん加島さんは、仏教につ
いての造詣もあったでしょうから、仏教の影響もあると思い
ます。でも、『求めない』という本の中での、加島さんの語
りかけは、おおらかです。そこが、タオイストらしいなと思
います。
老荘に較べると、仏教はストイックです。
釈迦の教えを伝えてきた僧たちが、ストイックにしてしま
ったのかも知れませんが、「ちょっとやり過ぎじゃない?」
と思うほど、ストイックです。
「一切求めるな!」みたいなところがあります。
それに較べると、老荘はゆるい。
「《無為自然》だから、求めることもあるよ。『求めな
い』ことを求め過ぎちゃいけないよ」という、含みがある。
ストイックになり過ぎると、「一心不乱に山の頂を目指し
ているうちに、山頂を行き過ぎて、下ってしまっている事に
気付かない」といった事が、起こりがちです。
仏教は、出家した帰依者たちが、サンガ(僧団)の中で整
理し、まとめられて来た教えなので、極めてストイックなも
のになっていったのでしょう。その結果、どうしても世間と
没交渉になり易く、突きつめ過ぎるきらいがある。
それに対して、老荘はただ単に『道徳経』と『荘子』とい
うテキストが、世の中に伝えられて来ただけで、「良い本だ
から、永く読まれてる」といった在り方です。(中国人は
〈道教〉を作っちゃいましたけどね)
老荘は、世間の中で伝わって来たし、《無為自然》だか
ら、自然とゆるくなるのでしょう。
「求める」から、苦しむ。
人は、自ら〈苦〉を求めることはない。
人が求めるのは、〈楽〉です。
ところが、〈楽〉を求めることは、挫折を生み出し、それ
が〈苦〉となる。
だったら〈楽〉を求めない。
もちろん〈苦〉も求めない。
〈苦〉が訪れないことも、求めない。
《無為自然》。あるがままに在る。
すると、求めていたもの以外の存在が見えてくる・・。
人が求める〈楽〉とは違う種類の《楽》に気付く・・。
力を抜いて・・、リラックスして・・、集中しない
で・・、考え過ぎないで・・、求めないで・・・・・・。
そこに、何が見えて来るのか・・・・。
「求める」。
「求めまくる」。
「求め続ける」現代人・・・。
それで、何が得られたのか?
正直に、心からの感想を述べよ。
「求める」か?
「求めない」か?
私は、「求めない」に一票。
2018年1月10日水曜日
老子~タオ:ヒア・ナウ~
『タオーヒア・ナウー』(PARCO出版)という本があ
る。1992年に英文学者の加島祥造さんが、原文に囚われず
に、『老子』からそのエッセンスというべきものを取り出し
て、自身の表現に置き換えたものです。
私が手にしたのは、1994年。私が最も大きな影響を受け
た本の一つです。
内容は要するに『老子』ですが、平易な、今の言葉で紡い
だ〈詩〉となっている。
この本の〈あとがき〉で、加島さんが〈老子〉をこう評し
ています。
《孔子が「衣食足りて礼節を知れ」と言ったのに対して、
老子は「衣と食が足りたら、内側の自由を知れ」と指
し示す人だった。彼の説く「自足」とは、いま在るこ
とへの祝福のことだ。それが「衣と食の足りた時」人
間に与えられる最大の課題だ。人類が21世紀になって
最も大切に考えるべき思想なのだ》
ところが現実の21世紀といえば、衣と食が足り、足り過
ぎ、「課題」は何処かに消し飛んでしまった。その一方で、
衣と食がまったく足りず、「課題」など意識する余裕も無い
人々が人口の三分の一ほど居るのだろう。
残念な状況だと私は思うが、私の地球ではない。どうこう
すればいいなどと考えても無意味だし、おこがましい話。個
人レベルで〈老子〉の課題を受けるだけ。
孔子が「衣食足りて礼節を知れ」という〈礼節〉とは、社
会のルールのことですね。「社会のルールを守って、社会に
貢献しなさい」と言ってるわけですが、加島さんは「老子
は、『衣食が足りたら、個人の内面のこだわりを無くすよう
にすべきだ』と言っている」と受け止めている。
“こだわり” とは、〈欲〉のことですね。
個人が「衣食足りている」のであれば、その社会は機能し
ているはずです。その上で「衣食足りている」のに、まだ社
会に目を向け、社会のルール(やり方)に注力するというの
は、人に何をもたらすのでしょう?
賢くなるのでしょうか?
社会がより良くなるのでしょうか?
人類が進歩するのでしょうか?
人類が幸福になるのでしょうか?
「余計な事にエネルギーを使ってるだけだよ」というの
が、老子の考えなんでしょう。
余計なだけでなく、「愚かな事だよ」とも言うでしょう。
「人間の幸福は、社会にあるのではない」
「人間の幸福は、個人の中にある」
「個人が、社会に幸福を探すことが、社会を乱れさせる」
その様な事を、老子は伝えているようです。
社会をより良くしょうとしなくても、「衣食足りている」
のであれば、その社会は “良い社会” でしょう。“より” とい
う考えが、却って社会を乱してしまう。
〈礼節〉を身に付けて、社会で賢くなってどうするんでし
ょう? 誰かと較べて、自尊心や虚栄心を満足させるだけで
はないのか?
「衣食足りている」社会なら、そこには目に余る搾取や闘
争は無く、相互扶助が実現しているはずです。つまり、すで
に〈礼節〉があるはずです。その上にさらに求める〈礼節〉
とは何か? それは、虚栄心やその為の保身に繋がるもので
しかないでしょう。そのようなものの先に、「人類の進歩や
幸福」があるでしょうか?
「人類の進歩」なんて、道具立てが複雑になって、約束事
が込み入って行くだけで、やってる中身は昔と変わらない。
「人類の幸福」なんて、存在しない。
幸福は、個人の中に生まれるものです。
とは言うものの、「衣食足りた」人間はどうしても外へ向
かってしまう。それが人間の業というものでしょう。
「衣食足りる」ようにする為には、アタマで考えるしかあ
りません。そうして、「衣食足りる」状況を作りだしたので
すから、幸福を求める時にアタマで考えてしまうのは、無理
のない話です。余計に〈礼節〉を知ろうとしたりして、却っ
て迷ってしまう・・・。そうして迷ってしまう人間の為に、
老子は『道徳経』を遺した。「戻った方がいいよ」と。
〈礼節〉を知るべく、わたしたちは社会にさまよい出る。
その社会の中に、時折、老子や釈迦やソクラテスやスピノ
ザのような人間が現れて、わたしたちを諭してくれる。
「こっちに来るのは間違いだったよ。戻った方がいいよ」
と。
さらに、加島さんのように、先賢の言葉を伝えてくれる人
たちがいる。でも、その言葉が伝わる範囲は狭い・・・。
自分の隣に居る人にさえ、まず伝わらない・・。
自分で書いてしまった・・。
「人類の幸福なんて存在しない。幸福は個人の中に生まれ
るものだ」と。
世の中を嘆いても、虚しいだけのことだ・・・。
個人の課題なのだ・・・。
独りの道なのだ。
だから老子は、自分からは《道》を説こうとはしなかった
とも言われる。
釈迦も悟ってから、それを伝えるかどうか何日も迷ったと
いう。
だけどそれは、悲しい。虚しい。寂しい・・・。迷って、
嘆いている人々が愛しい・・・。
意を決して語った。その世界の扉の前で足を止め、こちら
を振り向いて・・・。そうして、老子や釈迦の言葉は伝えら
れて来た。
そうした言葉が二千年以上も伝えられてきた事が、その言
葉の正当性を証明するわけではない。人間の愚かさも、ずっ
と伝えられてきたのだから。
ただ、老子のような人が語る言葉に従う事が、安らぎや楽
しさに運んでくれる事は、多くの人々が実感して来た事で
す。
「それは、マインドコントロールだよ」と、言う人もいる
でしょう。でも、闘争・戦争・搾取・策略が渦巻く世の中が
収まったことが無いのは、事実です。世の中の方の「マイン
ド」を疑ってみることは、やってみる価値があることだと思
いますね。
(加島祥造さんには、『求めない』(小学館)という本も
有ります。数十万部を超えるロングセラーになってます
が、私はこの本が「世界中、一家に一冊あるべきだ」ぐ
らいに思っています。ある意味、キリスト教徒にとって
の聖書のように。それぐらい、“読むべき本” です)
2018年1月9日火曜日
人生は〈オマケ〉なのに・・。
さっき、【カヌー競技の日本代表候補の選手が、ライバル
選手のドリンクに禁止薬物を入れ、陥れようとした】という
ニュースを観た。(こんなことがしょっちゅう起こるから
『アタマが悪い』なんてブログを書きたくなるんですよね)
「悪い」とか、「酷い」とか云うよりも、「人生を何だと
思ってるのかなぁ~」というのが、私の感想です。
人生を何だと思っているのでしょう?
こういう事を言うと嫌われますけど、「たかがスポーツ」な
んです。
さまざまなスポーツがあつて、凄い数のアスリートがい
て、中にはもの凄い額の金が動くスポーツもある。
人生を賭けて、命も賭けて、真剣にやっている人もいっぱ
いいる。けれど、やっぱり「たかがスポーツ」なんです。
『オリンピック出場が夢!』
それが高じて、不正を働いてまでオリンピックに出た
い・・・。
人生を何だと思っているのでしょう?
こういう事件があると、「人生を棒に振った」とか、「人
生をムダにした」とかいう見方をされがちですが、そもそも
人生は “ムダ” なんです。人生は “オマケ” なんですから。
そんなものに、他人を陥れるほど入れ込むなんて、バカで
すよ。“オマケ” は遊ぶものです。“オマケ” は楽しむもので
す。
【スポーツ】という言葉自体が、そもそも〔運動〕に限っ
たものではなくて、〔楽しみ〕全般を指す言葉だそうです。
(以前、何かで読みました)
スポーツを〔楽しみ〕という位置から、仕事や、生き甲斐
や、自己実現の手段にしてしまうこと自体が、本来の意味か
らすれば、無粋なんです。(ケンカ売ってるなぁ~)
人生にはさまざまな事柄が、雑多に詰まっています。
その中の一つに過ぎない事に振り回されて、自分
の事件では、他人も
て、人生の中にあるものを高く値踏みし過ぎですよ。
サッカーは〈球蹴り〉ですよ。野球は〈棒球〉ですよ。マ
ラソンも 100m走も〈駆けっこ〉ですよ。スポーツは全
部、〈遊び〉ですよ。
何もスポーツに限った事ではなく、仕事も、恋愛も、学問
も、あらゆる趣味も娯楽も、人生の中にあるものは全部 “オ
マケ” です(芸術は、どうだろう?)。人間が生きて行く上
で生まれてしまう、副産物のようなものです。その副産物
に、主体である自分自身が振り回されたり、呑み込まれたり
するのは、本末転倒です。
「オリンピックに出られたら。そして、金メダルでも取れ
たら・・。面白いだろなー! 嬉しいだろなー! ちょっと、
がんばっちゃお~かなっ!」
それぐらいのノリでやった方が健全です。(世界中のみん
ながね)
「スポーツをするな」とか、「趣味なんかやめておけ」と
か、「仕事なんかバカバカしい」なんてことは言いません
よ。でも、生きてゆく為の最低限の活動を除けば、人間のや
ることは、遊びです。娯楽です。暇つぶしの楽しみです。そ
れを忘れちゃいけないと思うんです。それを忘れた人間が、
余計なエネルギーを注ぎ込んで、バカなことを仕出かすんで
す。社会的規模でも、個人のレベルでも。
自分自身に親しんで、しっかりと生きて、その上で自分に
付いてくる “オマケ” で、ちょっと遊べばいい。
そういう在り方に満足出来ないのなら、きっと病気なんで
しょう。自尊心とか、虚栄心とかの依存症ですよ。
人生を何だと思っているのでしょう?
人生より優先するものがあるのです。
ましてや、人生の楽しみの一つに過ぎないスポーツの為
に、目を血走らせて、そこに自分の存在意義を賭けるなん
て・・・。世の中の見本が悪いんでしょうねぇ。
スポーツはもちろん、どんな遊びもせず、仕事もせず、恋
もせず、趣味も持たず、勉強もせず、宗教も持たず、何もし
ないで座っていたら心臓は止まるのでしょうか?
水さえ飲んでたら、一か月は生きるといいます。
まず、命があるのです。
すべてに先立って、わたしたちには「生きている」という
事実があるのです。
わたしたちは、それを忘れているのです。
スポーツが何ほどのものでしょう。
(これが人気ブログだったら、即、大炎上ですね )
2018年1月7日日曜日
夢を叶えたようです
以前にもちょっと触れた話ですが、もう二十年近く前、友
達の N に「お前の夢はなんや?」と訊かれ、「夢なんか持
たなくなること」と答えた事があります。
それから年月が流れ、今の私には「こうしたい」という様
な目的がほとんどありません。
もちろん、生活上の小さな目的はありますが、それは「気
分よく暮らす」為の、最低限のゆとりの様なものです。ちょ
っとお酒を飲んだり、近くの気分の良い場所へ出かけたりと
いう程度の、普通は “日常” に分類されるようなことに過ぎ
ません。
他人が感心してくれる様な、特別な望みはありません。
(このブログを観て、「『面白い!』と言ってくれる人がい
れば嬉しいな」とは思いますが、それは〈夢〉というほどの
ことでもないでしょう)
私の夢は「夢なんか持たなくなること」でしたから、夢
は、ほぼ実現したのでしょう。
「こうなりたい」とか、「こうしたい」とかいう欲求から
かなり解放されて、肩が軽くなったように感じます。
欲求が少ないと、日々の普通で当たり前の事に対しての、
落ち着いた眼差しが生まれます。そして、そういった事に、
しみじみとした愛おしさが感じられる様になってきます。
なにより、この夢はもう無くすことがありません。
「何か」を手に入れたら、いつかそれは失われます。
「(社会的な)何か」になっても、いつかそれは失われま
す。それらを失いたくなければ、維持し続ける努力が必要で
す。
こういう言い方をすると不愉快に感じる人は多いでしょう
けど、「何かになる」「何かをする」という夢を持つ人の多
くは、〈夢〉の奴隷になっている。
「楽しいからやってるけど、出来なければそれでもいいん
だよ!」というふうに、それを失っても “挫折” とは感じな
い人もいる。そのような人は、それをはなから〈夢〉だと思
っていない。そうすることが自然だから、そうしているだ
け・・。
一方で、ことさらに自分の夢にこだわる人は、〈夢〉の奴
隷でしょう。
自分が〈夢〉を持っているのではなくて、〈夢〉に自分が
持たれてしまっている。ミイラ盗りがミイラになった。
人から感心される様な事を何も成し遂げていない私は、
ただの「出来ない人」かも知れない。
私の言ってる事は、ただの強がりや、負け惜しみかも知れ
ない。けれど、そんなことはもうどうでもいい。それならそ
れでも構わない。もう、こうして五十数年生きて来られた。
私の様な人間が、この世の大多数なのだから、この「出来
ない人」「何でもない人」を肯定したい。
そうした大多数の人間が、ずっと生きて来て、今も生きて
いる。それは「肯定されている」ということに他ならない。
肯定していいのです。
だれも肯定しなくとも、誰かが嘲笑おうとも、“生きて来
た”・ “生きている” という事が、「肯定されている」とい
うことです。
誰に?
〈命〉にです。
〈存在〉にです。
〈宇宙〉にです。
誤解を恐れずに言えば〈神〉にです。
そして、〈自分〉にです。
何も出来なくったっていいし、何もしなくったっていい
し、むしろ何もしないで居られるのなら、それが一番いい。
「生きている」。それで何も不満は無い。
「生きている」。そこに何も不安は無い。
それ以上のことは無いはずです。
そして、誰でも「生きている」。
《 夢を捨てる時、最高の夢が叶うのです 》
(自画自賛ではありませんよ。自分自身への戒めです。
結構いいところまで来たので、ぶち壊しにならない
様にね・・・)
登録:
投稿 (Atom)