2018年2月7日水曜日

修行しなくちゃなぁ。


 一昨日、『錦鯉の世界と自分の世界』について書いた時

に、自分のことを「まだまだ修行が足りないなぁ」と書きま

した。

 普通、〈修行〉というと、「経験を積んで何かを身に付け

る」という様なイメージだろうと思います。「職人が技術

を身に付ける」といった場合はそれでいいのでしょうが、

「精神的な修行」という場合は違いますね。

 ずっと前にも書いたのですが、〈修行〉とは「修めて行く

こと」だと、私は思っています。それでは「修行が足りな

い」とはどういうことか?


 〈修行〉=「修めて行くこと」ですが、「おさめる」とい

う字にはいくつか有りますね。

 「納める」「収める」「治める」。

 「納める」と「収める」は、【中に入れてしまう】といっ

た意味です。「治める」は、【安定させる。しずめる】とい

ったこと。「修める」は、【乱れを正す。身に付ける】とい

う意味。

 総じて言うと、「おさめる」とい言葉は、【安定させ、正

し、落ち着かせる】ということでしょう。


 ですから、〈修行〉というのは、「落ち着かせ、安定させ

て、行く」ということと捉えていいでしょう。

 何を、何処に「落ち着かせ、安定させる」のかというと、

“出来事の精神的インパクト” を、“心の中” に、「落ち着か

せ、安定させる」わけですね。

 わたしたちは、日々、一刻々々、さまざまな出来事に出会

って行きます。身体の中でも、身体の外でも、物理的・肉体

的な事だけでなく、情報としての出来事にも出会う。

 そして、それらの出来事に出会うたび、多かれ少なかれ、

喜び・悲しみ・驚き・怒り・妬み・失望・・・、という様な

〈感情〉を持ちますが、それらの〈感情〉は “出来事” その

ものではありませんし、“出来事” に「作り付け」になって

いるわけでもありません。わたしたちの意識が “出来事” を

受け止めた時に、その衝撃が思考の中に起こす「揺れ」や

「波」といったものです。わたしたちの〈思考〉が起こすも

のです。

 その「〈思考〉の波」=〈感情〉は、わたしたちの心を揺

さぶります。心が揺れます。

 その「揺れ」が、『嬉しい』といったものならば、わたし

たちはブランコにでも乗った様に楽しみますが、先程挙げた

様に、〈感情〉というのは、ネガティブなものが優勢です。

ネガティブな方が多数派です。「感情的になる」という言葉

は、良い事としては使われませんね。

 仮に『嬉しい』と感じたとしても、それも一時のものなの

で、やがて『嬉しかった・・』という失望が訪れます。

 「感情的になる」ということは、おしなべて、人をネガテ

ィブにさせてしまいます。
 

 そこで、〈修行〉という取り組みが出て来ます。

 「感情的にならない」

 「心が揺らがないように、安定させる」

 そういう、“出来事” の受け止め方をして行くこと。


 一般的に〈修行〉というと、お坊さんの〈修行〉のイメー

ジなんかから、「行を、修める」という捉え方で(坊さん自

身にも、そう思ってる者は多いでしょうが)、「あるプロセ

スなりミッションなりを修了させて、次のステージに至る」

といったものだと思われているのでしょう。でも〈修行〉

は、「行を、修める」という “終り” や “区切り” があるも

のではなくて、「修めて、行く」という “ずっと続いて行

く” もので、言い換えれば『生きること』そのものです。


 「生きてる」だけで、みんな〈修行〉です。

 「修め方」が下手なら、泣いたり、恨んだりするだけのこ

と。

 上手に修めれば、心が波立たず、揺さぶられず、「落ち着

いて生きて行く」ということですね。


 わたしたちは〈思考〉の癖で、“出来事” を「ポジティ

ブ」・「ネガティブ」という様に、すぐに分けます。

 分けた上で、「ポジティブ」は心の “ポジティブ側” へ、

「ネガティブ」は心の “ネガティブ側” へ落とします。

 問題は、「ポジティブ」・「ネガティブ」に分けることに

も有りますが(それは〈思考〉の癖に過ぎませんから)、そ

れ以上に、「落とす」ことにあります。

 心の中に「落とす」から、波立つのです。

 “出来事” がもたらす “精神的なインパクト” がどんなもの

であるにせよ、それを心の中に落とさない

 出来るだけ「そっ」と、心の中に修める。波立たぬ様

に・・・。
 

 日々、出会う “出来事” を、静かに、「そっ」と、心の中

に「修めて、行く」。

 “出来事” に揺さぶられない様に、生きて行く。

 それが〈修行〉でしょう。


 A 「あなたは、ガンです」

   「そんな・・・。なぜ、わたしが・・・」

   それも生きてる姿です。


 B 「あなたは、ガンです」

   「そうですか。では、なるべくわたしの病状に合った

    治療をしましょう」

   それも生きてる姿です。


 どちらも生きてる姿ですが、治療の結果は同じです。

 Aは、泣くだけ損ですし、もしかしたらストレスで治療効

果が損なわれるかも知れません。

 わたしたちは、「“出来事” を静かに心に修めながら生き

て行く」方が良いでしょう。




 で、私の〈修行〉のどこが足りないか?

 錦鯉を羨んでしまってますからね。まだまだですね。

 今から『錦鯉師匠』に会いに行って来ます。







2018年2月6日火曜日

《卑怯者は、安全な時だけ居丈高になる》


 自衛隊のヘリコプターが民家に墜落してしまった。

 住民の小学生の女の子が軽いケガという事だけれど、一般

人に死者が出なかったのが、自衛隊と政府にとってせめても

の救いだろう。とはいえ、搭乗していた二人の自衛官と、ご

家族には気の毒なことだ。


 「あってはならない事!」


 テレビのキャスターやコメンテーターが、きつい口調で言

う。

 そりゃそうだ、「あってはならない事」だ。

 けれど、「当然、起きうる事」でもあるし、「いずれは起

きる事」でもあった。


 日本中の空を、大型旅客機・小型機・ヘリコプターが毎日

飛び交っている。公的機関・民間合わせてどれほどの数なの

か想像もつかないが、何十年も前からその様な状態が続いて

いる。

 「よく、住宅やビルに落ちないよなぁ」

 自宅の上を飛ぶヘリコプターなどを見上げて、私はいつも

思ってきたのでした。


 航空機の墜落・不時着は時々報道されるが、この何十年か

のうちに、建物の上に落ちた事故は、あまり記憶がない。ほ

んの数件なのではなかろうか?

 事故に遭遇してしまった方には怒られるかも知れないけれ

ど、「飛ばしてる方は、良くやってるなぁ」というのが、こ

れまでの私の感想です。


 ニュースキャスターは、責める様な口調でコメントするけ

れど、報道のヘリを飛ばすパイロットや整備士にしたって、

どれだけ誠実に仕事に当たっても、100%完全な仕事が出来

る保証はない。もしも、新宿の真ん中で報道ヘリが落ちた

ら? (覚せい剤で捕まった芸能人が、車で拘置所へ送られ

るのを、ヘリを飛ばしてリポートしたりするけれど、映像の

価値と事故のリスクを勘案したら・・・。私は「バカやって

る」としか思わないんだが・・)


 整備士は、ネジひとつ、ケーブル一本の点検漏れもない様

に万全を期しているだろう。パイロットは、天候・風向きに

気を配り、エンジンを始めとする機器の調子を、音や振動で

確かめながら万全を期して、操縦しているだろう。けれど、

人間のする事。いや、この世の出来事。

 完全は無い。


 「あってはならない事」

 それは間違いない。

 そして、誰も「あってはならない事」に関わりたくはな

い。その為に誠意を尽くして働いている。今回の関係者もそ

うだろう。しかし、ミスか不可抗力かは知らないが、今回は

何かが違ってしまった。違っていないはずの何かが・・。


 担当した整備士は、今どんな気持ちでいるだろう。

 死んだ自衛官の同僚や上官は、どんな想いでいるだろう。

 誰ひとり悪意が無くても、誰ひとり怠慢な仕事をしていな

くても、不幸が起きてしまう時がある。


 ミスがあったかも知れない。

 責任は負わねばならない。

 けれど、それが人間的な “不完全さ” によるものならば、

第三者は言葉を慎むべきであろう。 “人として” 、配慮を持

った発言を心掛けるべきであろう。


 自身の “不完全さ” は不問にして、他人の “不完全さ” を

問題にする人間は多い。

 たまたま自分の失敗が、重大な問題に繋がらなかったこと

をかさに着て、人を責め立てる。幼稚だと言うしかない。

 極論を言わせてもらえば、人が「悪意を持つこと」も、人

の “不完全さ” のひとつと言える。もちろん、「悪意を持っ

てした事」の責めは負わねばならないが・・・。

 「悪人になろう」と思って生まれて来る人間はいない。

 「人を傷付ける失敗」を自ら進んでする人間はいない。


 一方で、「人を傷付ける発言」を自ら進んでする人間はい

る。「そういう人間になろう」と思って生まれて来たわけで

はないだろうが。


 人はみんな “不完全” 、人はみんな “出来損ない” 。

 他人の事を、高い所から「とやかく」言い切れる人間は存

在しない。


 事故に遭ってしまった住民。亡くなった自衛官。そのご家

族。同僚・上官。 整備に関わった担当者。

 その方たちの気持ちを想う。

 加えて、この事故に幼稚なコメントをする人間の、品性を

想う・・・。

 二種類の “やるせなさ” が相まって、今日は少し気が重

い・・・。


2018年2月5日月曜日

錦鯉の世界と私の世界


 家の近所に池がある。

 何十匹かの錦鯉と、どれだけいるのか分からないブルーギ

ル。一年中居る一羽のオスのマガモと、冬にやってくる一組

のオオバンのつがい。時折見かけるカイツブリとカワセミ。

それにコサギとゴイサギ。数年前には、マミズクラゲが発生

した。


 ちょっと外を歩きたくなった時に、その池を覗きに行く。

 のんびりと泳いでいる錦鯉たち・・・。

 彼らは、この小さな池以外の世界を知らない。

 この池の他に、たくさんの池や湖や川があって、海とい

う、塩水で出来た水の世界もあることを・・・。

 彼らは、この小さな世界を生きて死んで行く。そこになん

の疑問も無い。ひとかけらの疑いも持たない。毛の先ほどの

不足も無い。自分のさだめを悠々と生きて行く・・・。

 そこがどこであろうと、他にどんな世界があろうと、彼ら

の世界は、この池に完結していて、それで完全。



 くらべて私の世界がどうかというと、大した違いはない。

 身体のスケールから考えると、似たり寄ったりだ。

 普段行動するエリアは決まっていて、大した面積ではない

し、時折遠くに出かけても、線上を移動しているだけの事。

私の世界も小さなものだ。だが、「その世界に完結して、完

全か?」というと・・・。錦鯉たちのように、悠々としてい

られない・・。

 チラチラと他所を眺めたり、風の便りに他の世界を羨んだ

り。「まだまだ、修行がたりないなぁ・・・」と、ひとりで

笑う。



 世界がどれ程広くても、この身ひとつには、有り余り過ぎ

る。はっきり言って、関係ない。必要ない。

 食べ物だとか、日用品だとかが、知らない世界から届けら

れて来るけれど、それは言わば間接的な事で、ちょっと違う

話。私の世界は狭い。そして、それで十分。



 もう何年か前に亡くなられたが、昆虫の細密画を描かれて

いた 熊田 千佳慕さんは、何十年も自宅の周辺から出ず、外

泊することもほぼ無く、自宅の庭や近所の公園や空き地で昆

虫を観て、絵を描き続けていた。

 熊田さんにとって、自宅の周辺だけでも十分なワンダーラ

ンドだったようだ。


 人それぞれ、必要とする世界は違う。

 同じ場所にいても、観たり感じたりしているものも違う。

 自分が居るべき世界を知っていれば、自分が居る世界を肯

定できれば、他の世界に目配せしたりするようなことは起き

ない。自分の世界に安住できる。


 もし、そこで生きることがあまりに苦しいのなら、それは

居るべき世界ではないのかも知れない。けれど、もしかすれ

ば自分の思い違いかも知れない。どちらが正しいのかは分か

らない。けれど、苦しいなら、まずはそこから出てみるしか

ないだろう。人間以外の生き物は、その辺は正直だ。移動で

きるのなら、すぐに移動する。妙な我慢はしない。

 でも、移動できないのであれば、ひたすら生きる。ただ、

生きる。そこが、自分の世界だから。


 今いる世界が、自分にふさわしくないと思えても、逃げだ

すことが出来ないのなら、それは自分の世界だろう。

 ジタバタせずに、とにかく生きてみる。とにかく生きて行

く。だって、逃げられないのだもの。ジタバタするだけ疲れ

るし、ジタバタするほどに、みっともない。

 やせ我慢でもいいから、悠然としていたい。

 悠然としていれば、その “悠然さ” に影響されて、世界の

方が変わるかも知れない。


 小さな池の錦鯉が、今はちょっと羨ましい。

 けれどそれは、ちょっとした気の迷い。

 目の端にチラチラする他の世界に、少し心が乱されている

だけなんだ。

 明日、池に行って彼らの世界について、錦鯉に訊いてみよ

う。

 まぁ、答えはわかってるけどね。

 こう言うだろう。


 「なんのこと?」



 

2018年2月4日日曜日

再び、まど・みちお さんについて


 ずいぶん前に、詩人の まど・みちお さんの詩について書

きましたが、また少し書いてみたいと思います。


 まど さんの詩集はいくつか持っているのですが、私がく

りかえし目を通すのは、『いわずにおれない』(集英社be

文庫)という本です。

 まど さんの代表的な作品と、ご本人のインタビューをま

とめてあります。

 この本を読んでいると、私はしばしば泣いてしまいます。

 正直、感動してしまうのです。詩にも、まど さんの話に

も・・。


 まど さんが世界へ向けるまなざしの深さと、そこにある

「やさしさ」「愛おしみ」「驚愕」「不思議」「感謝」とい

ったものが、ダイレクトにこちらへ流れ込んでくる・・。

 「あ~っ。ほんとにそうだなぁ~・・・(涙)」

 知るべき事を知らずにいる自分。

 見てきたはずのものを見過ごしてきた自分。

 それに、気付かされる。

 しかも、平易で、美しくて、ユーモアにあふれることばに

よって。

 本当に、こういう人が居てくれたことに感謝を感じます。

 出会えたことを、幸運に思います。


 ケシ粒の中の精緻さと、宇宙の壮麗さに対する、愛しさと

畏怖と感謝があふれた心・・・。それは、本来、誰にでも備

わっているものなのだけれど。備えていていいものなのだけ

れど。気付いているべきものなのだけれど。でも、隠されて

しまう・・・。

 けれど、まど さんはある日、見てしまったのでしょう。

 世界の精緻さ、壮麗さ、美しさ・・。

 そして、気付いたのでしょう。

 自分の中の、喜びに震える心に。
 

 「世界の真実」は、そのまま、まど さんを死ぬまで離さ

なかった。そして、まど さんは真実を覗く窓を、開け放し

て去って行った。

 ほんとうに「ありがとう」と言いたいですね。


 無謀だけど、まど さん風の詩を、私も書いてみましょ

う。



 「 ふうりん 」



 かぜのなか ふうりんがうたっている


 かぜは じぶんでうたえないから

 ふうりんも じぶんでうたえないから


 かぜは ふうりんにうたってもらう

 ふうりんは かぜにうたわせてもらう
 

 わたしは きく

 ふうりんとかぜのハーモニーを

 せかいにきらめく おとを


 ききながら わたしはおもう

 「せかいは わたしに なにをうたわせたいのだろう」と

 「わたしのうたも きらめくのだろうか・・・」と




 出来が良いかどうかはともかく、まど さんの想いに寄せ

て書いてみました。

 まど さんの “想い” とは、

 〈世界の中でそれぞれが、それぞれの在り方で、それぞれ

でいることで、世界を、世界にしている。そして、自分もそ

の一員にしてもらえている〉

 その喜びだろうと思うのです。



 私の好きな まど さんの詩を、ひとつ挙げておわりにしま

す。


 「 さくら 」



 まいねんの ことだけれど

 また おもう


 いちどでも いい

 ほめてあげられたらなあ・・・と


 さくらの ことばで

 さくらに そのまんかいを・・・






 

 
  

2018年2月3日土曜日

ドライブしますか?


 自分のブログを読み返してみる。

 自分で読んでも、「やっとこさ理解できる」というような

話がいくつもある。困ったもんだ。

 文章力なり、構成力なりが足りないのは間違いなさそうだ

けれど、それだけでもないだろう。

 そもそも、「意識とは?」とか「時間は存在するか?」と

か、「自己とは?」とかいったギリギリの命題に首を突っ込

んで、ただで済むわけがない。

 哲学や宗教学、心理学に脳科学に宇宙物理学というような

所で扱われる根本命題を、「分かり易く」説明できる人はい

ない。

 仮に、易しい言葉で説明できたとしても、「易しく」なっ

た分、恐ろしくクドイ話になるだろう。

 だから、「何言ってんのか分かんねえよ!」と思われたと

しても、私の責任は半分です。(そういう事にして下さい)



 “理詰め” で分かるように語れる事ではない命題に、『は

しご車』のはしごをギリギリまで伸ばすように、ギリギリま

で言葉を繋いで辿り着こうとする・・。いつ折れて墜落する

かも知れない・・。(折れてる話もいくつもある)

 最後は受け手側から、ジャンプしてもらうしかない。

 言葉では、最後まで届かない。

 
 口から出まかせを言い続けているけれど、理屈以上に大事

なのは、「話」の持つムードやリズムといった、“ドライブ

感” だと思う。

 私の感じているイメージに巻き込んで、そのイメージが持

つ、温度や空気の流れの様なものを感じてもらえれば、「何

か」が伝わるんじゃないかと・・。(そんな能力あるのか

よ?)



 〈しあわせ〉だとか。

 〈生きること〉だとか。

 〈真実〉だとか。

 〈存在〉だとか。



 一筋縄では行かないことに、身の程知らずにあたまを突っ

込んで・・・・アタマが悪いね。


 SMAPの『俺たちに明日はある』が好きなんです。



 《不器用すぎるハンドルで 突っ込んで行くのさ・・》 


 心意気を買って下さい。

 時々、助手席で景色を楽しんでもらえたらと・・。



 まぁ、そんなカッコイイもんであるわけないけれど、助手

席から、砂漠の向こうに何かが見えるかも知れません。わた

したちを取り巻く砂漠の向こうに・・・。「愛」とか、「安

らぎ」とか、「至福」とか・・・。(さすがに、恥ずかしく

なって来た・・)



 「砂漠に取り囲まれてなんかいないよ」

 そう思う人もいるでしょうが、そういう人はアホらしくて

こんなブログなんか見ません。

 「砂漠がどうのこうのって、コイツあたまオカシイね」と

嘲笑われて終りですし、そういう人の方が多数派なのは分か

っています。

 でも、そういう人が見ている緑は、私からすれば蜃気楼で

す。

 蜃気楼というのが言い過ぎならば、一時のものです。必ず

過ぎ去るものです。しばし、目を楽しませたりは出来ますか

ら、楽しめばいい。けれどいつまでもは続かないので、また

次の「何か」を求めなければならない。死ぬまで、その繰り

返し。


 私はそれでは納得できない。本当のオアシスに辿り着きた

い。

 欲張りなのでしょうか?

 いいえ、単に “人として本来あるべき生き方” をしたいだ

けのことです。

 一時の快楽や興奮を追い回すのではなく、しみじみと「生

きてるのは嬉しいなぁ」と思える日々を送りたい。

 気に入らないことも無くならないだろう。困ることも起こ

るだろう。けれど、それを越えて、あるいはそれ以前に、

“気に入らないことを受け止めている自分” が居る。“困った

ことを受け止めている自分” が在る。出来事とは別に〈自

分〉が在る。その〈自分〉に親しみたい。その〈自分〉に落

ち着いていたい。出来事に目を奪われて、〈自分〉を失いた

くない。


 スピードを出せば出すほど、視野はせまくなります。

 生きることも同じでしょう。

 目的地だけを見据えて、スピードを上げると、まわりは見

えない。そこには何もないように思う。何かあるように感じ

ても、見ている余裕は無い。

 止まってみれば、そこがオアシスかもしれない。

 花が咲いているかもしれない。

 小鳥がさえずっているかもしれない。

 止まってみなければ分からない。


 止まって何が分かるか?

 《自分のオアシスは自分の中にある》と気付く・・・。

 
 “ドライブ感” なんて言いながら、実のところ、私が誘っ

ているのは「スピードダウン」ですね。

 「ちょっと止まって、景色でも眺めない?」と。


 ドライブしますか?



2018年2月2日金曜日

八百万の神の国


 ちょっと前に〈自信教〉という話を書きました。(『教祖

になってみませんか』2018/1 )


 「自分を〈神〉として、ひとりひとりが自分を信仰すれば

いい」というムチャな話ですが、今回はその続きです。


 日本には、八百万の神がいます。

 あらゆる物に神が宿っている。そういう国ですね。

 『千と千尋の神隠し』では、〈湯婆婆〉の湯屋に神々が穢

れを落としに、ゾロゾロとやって来る。



 今日出かけた先で、自分も、まわりを行き交う人も〈神〉

だとしてしてみました。(思考実験のようなものですね)

 どの人もどの人も、「それぞれの姿」・「それぞれの働

き」の〈神〉である。「絶対の存在である」と。

 そのとたんに、『千と千尋の神隠し』のワンシーンと、現

実が重なりました。「ゾロゾロと、〈神〉が行き交ってい

る」・・・。


 実際にね。ひとりひとり、「絶対の存在」ですよ。 

 人間がする評価が無ければ、すべての存在は〈絶対〉じゃ

ないですか。


 のそのそと前を行くおじいさん。

 笑いながら走り抜けて行く小学生たち。

 スマホに集中して、ぶつかって来そうな女子大生。

 ベラベラとしゃべりながら、傍若無人に歩くオバサン達。

 暗い顔で、うつむきながら足を進める若い男。

 ベビーカーを押しながら、何処かへ急ぐ母親。


 さまざまな人間が行き交う・・、そのひとりひとりは〈絶

対〉の存在です。

 世の中の「評価」や「位置付け」以前に、それぞれがそれ

ぞれとして “在る” ことは、まぎれもない事実です。


 わたしたちは世の中の都合で、他人も自分も評価する。

 人を、あるカテゴリーや社会的地位に位置づける。

 区別して分類したり、一括りにまとめたり・・。

 でもそれは、世の中の都合です。

 それぞれの〈エゴ〉の身勝手です。

 すべての人が、「それぞれ」で、「絶対のその人」です。

それは妄想でも、盲信でもない。虚心坦懐に世界を眺めてみ

れば、自明のことです。エゴイストには理解できない  

たくない  ことですが。


 「お互いを尊重しょう」などと言いたい訳ではなくて、

「本来は評価出来ない。評価してはいけない。評価する事が

愚かだ」ということです。


 こんなことを言ったところで、世渡りの役には立ちませ

ん。世の中は評価の世界です。

 逆に、こんなことを言っていると、「負け犬の遠吠え」と

嗤われかねません。

 でもね、「勝ち犬」になっても、ひと時のことです。

 すぐに、リーダー争いに巻き込まれて、傷付き、衰え、群

れを追われる定めです。そして、最後には自分が嗤った「負

け犬」と変わらぬ〈死〉が待っています。


 そもそも、序列を争いながら群れの中で生きることが、人

にとって妥当な事かどうかも分からないのです。むしろ、歴

史を振り返れば、愚かなやり方だと観るべきでしょう。


 わたしたちが生きて行く上で、まず、それぞれが、それぞ

れの「絶対性」の上に安らぎ、そこから世の中に関わって、

足りないことを補い合い、協調してゆく・・・。たぶん、石

器時代はそれに近い世の中だったろうと思います。

 石器時代の人々に出来て、現代人に出来ないわけはないだ

ろうと思いますが、今の社会を見廻すと・・・。ムリでしょ

うねぇ。

 やはり、個人々々で自分の「絶対性」に安らぐしかないで

しょう。


 こう言うと、まるで『 “引きこもり” の薦め』みたいです

が、そうではなくて、「世の中の評価なんて、わたしの『絶

対性』になんの影響も無い」という、《絶対の自信》と共に

生きて行くということです。

 もちろん、個人の《絶対の自信》なんて、世の中は評価し

てくれませんから、世渡りには役に立たないかも知れませ

ん。けれど、その《絶対の自信》は、人にゆとりと威厳を与

えるでしょうから、世渡りの力にもなるように思います。

 そして、たとえ “世の中” で挫折しても、自分の中での挫

折は有り得なくなります。“世の中” に傷付けられることは

無くなります。

 《 “世の中” 以前に、わたしは “在る” 》

 そう気付いた人間を、傷付けられる者はいません。

 たとえ殺されても、その「絶対性」を壊すことは出来ませ

ん。
 

 磔となったキリストも、毒を飲まされたソクラテスも、自

身の「絶対性」を壊せないことを知っていた。

 それは、キリストやソクラテスが特別だったのではない。

 《この者たちは、自分が何をしているのか分からないので

す》と、キリストが言ったのは、「誰もが絶対の存在なのに

愚かなことを・・・」という憐れみゆえでしょう。

 キリストやソクラテスだけではなく、あなたも私も〈絶

対〉です。ですから〈自信教〉です。(〈自神教〉かな)


 他人と較べるバカバカしさ、自分と “自分” を較べるバカ

バカしさ、他人や自分を裁くバカバカしさ・・・。

 世の中は、愚かで、幼稚です。


 ひとりひとりが、「絶対の存在」=〈神〉です。

 この国は、『八百万の神の国』です。

 自分が〈神〉であることを知って、《絶対の安らぎ》に身

を置いて下さい。

 お互いが〈神〉であることを知って、本質的な「肯定」に

安らいで下さい。
 


 ・・・・・なんてね!

 こういうの、どう思います?

 やっぱり、キモイ? (笑)



2018年2月1日木曜日

ホットサンドの「空前絶後」


 今朝、ホットサンドを食べながら、その食パンとの「ご

縁」を考えていた。

 時々、食事をしながら、今食べている物との「ご縁」を考

えます。考えて、いつも気が遠くなりそうになる。



 例えば、今朝の「食パン」。



 まず、麦を作った人がいる。小麦とライ麦。

 それぞれ、どこの国の人だろう?

 その人たちに、麦の育て方を教えた人がいる。

 その土地を受け継いできた人たちがいる。

 そこで使われている農機具を作った人たちがいる。

 収穫した麦を運んだ人たちがいる。

 その麦を製粉した人たちがいる。

 製粉した粉を袋に詰めた人がいる。

 その工場で使われている機械や資材を作った人達がいる。

 それらの機械の部品を作った人たちがいる。

 部品を作る機械を作った人たちがいる・・・。

 麦の粉を、日本に運んだ人たちがいる。

 麦の粉をパン工場に運んだ人たちがいる。

 パン作りに必要な機具を作った人たちがいる。

 パン作りに必要な他の原料を作った人たちがいる。

 パンを作る人たちがいる。

 パンの作り方を考えた人たちがいる。

 パンの作り方を教えた人がいる。

 パンを包装した人がいる。

 パンを運んだ人がいる。

 パンを店頭に並べた人がいる。

 パンを売った人がいる。

 パンを買って来た妻がいる。

 ホットサンドにした妻がいる。

 ホットサンドメーカーを作った人がいる。

 ・・・・・・・・。



 なんという「ご縁」。

 思わず、手を合わせずにはいられない。

 食パン一枚で、これ!
 

 チーズ、レタス、ハム、マヨネーズ、マスタード、バタ

ー・・・。それらも、無数の関わりを経てここにある。

 はるかなる過去からの、無数の人々や自然との関わりの末

に、初めて今、ひとつのホットサンドが私の目の前にある。

 「空前絶後」。

 「当たり前」だけど、「驚異的」。

 生きてる事って・・。

 今、この世界が在ることって・・。

 なんということか・・・。


 そうして、目の前にある食べ物との「ご縁」を考えている

と、ごく自然に自分の身近な人との「ご縁」、そして自分自

身が、今、ここに在ることの「ご縁」に想いが及ぶ・・・。

 今、自分がここに在ることは、当然のことと言っても間違

ってはいないだろう。しかし、それは同時に「空前絶後」の

ことでもある。何もかもが「空前絶後」。何もかもが、無限

に関わり合う「縁」によって存在している。


 今、自分がここに在って、「美味しい」とか「嬉しい」と

か「楽しい」とか、ほんのひと時でも喜びを持てるのなら、

束の間でも、〈自分〉が在ることに幸せを感じられるのな

ら、そのことに途方もない感謝を覚えていいほど、“今、在

ること” は、奇跡。


 宇宙の悠久の時間の中で、何か一つの動きが違っていただ

けで、今の自分はいなかったかも知れない。そもそも、この

自分は存在しなかったかも知れない。

 それが、今、存在していて、笑おうと思えば笑う事が出来

る。たとえそれが、“やせ我慢” や “カラ元気” であったとし

ても。


 「空前絶後」のホットサンドを目の前にして、「空前絶

後」の、今の自分がいる・・・。

 笑っていい・・。笑うべきだ。笑わずにいられようか? 


 それが何であれ、〈存在しているもの〉は「存在している

こと」だけを理由に、笑っていい・・。

 「存在していること」は、どの様な比較も超越している。

 誰の承認も必要ない。
 

 明日、今夜、一時間後、一分後、次の瞬間、耐え切れない

様な苦悩が襲って来るかも知れない。けれど今、笑おうと思

えば笑える。

 笑えばいい。笑っていい。誰も止められない。

 “笑う権利” がある。

 いや、“笑う義務” があるのかも知れない。

 わたしたちは、「泣く為」に生み出されて来たのではない

だろうから。
 

 わたしたちを、「泣く為」に生み出すほど、〈宇宙〉は意

地悪なものなのだろうか?

 そんなことはあるまい。

 わたしたちは、「笑う為」に生み出されてきたのだろう。

 ただ、愚かな先人たちによって、“比較する事” と “深刻

さ” を植え付けられ、「泣くこと」が習い性となってしまっ

た。そして、地球の上で、人間ばかりが泣いている。

 『今、在ることの奇跡』に目をやらずに・・・。

 《自分という “奇跡” 》として、今、ここに在るのに。