2018年2月5日月曜日
錦鯉の世界と私の世界
家の近所に池がある。
何十匹かの錦鯉と、どれだけいるのか分からないブルーギ
ル。一年中居る一羽のオスのマガモと、冬にやってくる一組
のオオバンのつがい。時折見かけるカイツブリとカワセミ。
それにコサギとゴイサギ。数年前には、マミズクラゲが発生
した。
ちょっと外を歩きたくなった時に、その池を覗きに行く。
のんびりと泳いでいる錦鯉たち・・・。
彼らは、この小さな池以外の世界を知らない。
この池の他に、たくさんの池や湖や川があって、海とい
う、塩水で出来た水の世界もあることを・・・。
彼らは、この小さな世界を生きて死んで行く。そこになん
の疑問も無い。ひとかけらの疑いも持たない。毛の先ほどの
不足も無い。自分のさだめを悠々と生きて行く・・・。
そこがどこであろうと、他にどんな世界があろうと、彼ら
の世界は、この池に完結していて、それで完全。
くらべて私の世界がどうかというと、大した違いはない。
身体のスケールから考えると、似たり寄ったりだ。
普段行動するエリアは決まっていて、大した面積ではない
し、時折遠くに出かけても、線上を移動しているだけの事。
私の世界も小さなものだ。だが、「その世界に完結して、完
全か?」というと・・・。錦鯉たちのように、悠々としてい
られない・・。
チラチラと他所を眺めたり、風の便りに他の世界を羨んだ
り。「まだまだ、修行がたりないなぁ・・・」と、ひとりで
笑う。
世界がどれ程広くても、この身ひとつには、有り余り過ぎ
る。はっきり言って、関係ない。必要ない。
食べ物だとか、日用品だとかが、知らない世界から届けら
れて来るけれど、それは言わば間接的な事で、ちょっと違う
話。私の世界は狭い。そして、それで十分。
もう何年か前に亡くなられたが、昆虫の細密画を描かれて
いた 熊田 千佳慕さんは、何十年も自宅の周辺から出ず、外
泊することもほぼ無く、自宅の庭や近所の公園や空き地で昆
虫を観て、絵を描き続けていた。
熊田さんにとって、自宅の周辺だけでも十分なワンダーラ
ンドだったようだ。
人それぞれ、必要とする世界は違う。
同じ場所にいても、観たり感じたりしているものも違う。
自分が居るべき世界を知っていれば、自分が居る世界を肯
定できれば、他の世界に目配せしたりするようなことは起き
ない。自分の世界に安住できる。
もし、そこで生きることがあまりに苦しいのなら、それは
居るべき世界ではないのかも知れない。けれど、もしかすれ
ば自分の思い違いかも知れない。どちらが正しいのかは分か
らない。けれど、苦しいなら、まずはそこから出てみるしか
ないだろう。人間以外の生き物は、その辺は正直だ。移動で
きるのなら、すぐに移動する。妙な我慢はしない。
でも、移動できないのであれば、ひたすら生きる。ただ、
生きる。そこが、自分の世界だから。
今いる世界が、自分にふさわしくないと思えても、逃げだ
すことが出来ないのなら、それは自分の世界だろう。
ジタバタせずに、とにかく生きてみる。とにかく生きて行
く。だって、逃げられないのだもの。ジタバタするだけ疲れ
るし、ジタバタするほどに、みっともない。
やせ我慢でもいいから、悠然としていたい。
悠然としていれば、その “悠然さ” に影響されて、世界の
方が変わるかも知れない。
小さな池の錦鯉が、今はちょっと羨ましい。
けれどそれは、ちょっとした気の迷い。
目の端にチラチラする他の世界に、少し心が乱されている
だけなんだ。
明日、池に行って彼らの世界について、錦鯉に訊いてみよ
う。
まぁ、答えはわかってるけどね。
こう言うだろう。
「なんのこと?」
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